のんびり暮すには

 2月17日、滋賀県長浜市相撲町の路上で男女ふたりの子供が刺殺された。ふたりは共に市内の幼稚園児で、犯人として中国籍の女性が逮捕された。この女性は、中国に赴任していた日本人とお見合いで知り合い結婚、99年8月に来日し、00年10月に長女を出産した。

 子供ができたことにより、地域の人たちとの交流は深まる方向にいくはずであるが、それが彼女にとっては苦痛になっていく。日本人でさえ人付き合いが苦手な人にとって、それらは心の重荷となるが、日本語がうまくしゃべれない彼女にとってはさらにその重量があったことは想像するに難くない。

 日本人の中にうまく溶け込めない彼女は疎外感を強めていく。唯一、甘えられる存在である夫とも口論が絶えなくなり、孤独感に支配されだし、何処にも逃げ場がないことがさらに閉塞感を募らせることになる。話せる人が誰もいない、何処にも逃げ場がない、気分転換できる場所もない、これらの感情が周囲を覆った壁のように彼女に圧し掛かる。そして、その壁を破壊する方法として彼女は最悪の選択をしてしまう。

 僕もこのような気持ちを常に会社の中で感じていた。周りに人はいるのに、同じ言語を持っていないような疎外感や孤立感、何処にも行き場のない閉塞感。周りにいる人間が宇宙人のように感じられたが、彼らからは僕の方が宇宙人として映っていたのかもしれない。

 会社の中でこのような状況になっていくと、それは針のむしろに毎日座っているような感覚になるが、仕事が終われば解放され、いろいろな手段で憂さを晴らすこともできるし、どうしても耐え難くなれば会社を辞めてしまうこともできる。しかし、日常生活でこのような状態になってしまえば、それこそ何処にも救いがなくなる。

 こうした事件が起こってしまった背景として、彼女が住んでいた地域事情もあったような気がする。田舎は一見、のんびりしているような感じはするが、人間関係は濃密であり、気晴らしできるような場所もあまりない。もし彼女が大きな都会に住んでいたら、或いは今回ような悲劇を回避できたのではないか、というような気がするのだ。

 都会に住んでいれば中国人だけに限らず、いろいろな人種のコミュニティがあり、日本で暮していくことの悩みを話し合えるだろうし、共有することもできる。人間関係も濃密ではないし、たとえ学童の親たちとうまくいかなくても逃げ場はいっぱいある。都会では孤独でも、田舎ほど孤独を感じない。それは都会では孤独というのはある程度当たり前になっているからだ。金持ちの中、ひとりだけ貧しければ辛いだろうが、周りが貧乏人ばっかりだったら、それほど感じないのと同じである。

 気を紛らすものも、都会ではいっぱいある。美味しい各国の料理だって食べられるし、母国語の本を探すこともそれほど難しくはないと思う。映画も世界各国のものが観られるし、音楽についても同じだ。ちょっと気分転換したいと思えば、匿名性の中、ゆっくりと散歩もできるし、それに疲れたら休める喫茶店もたくさんある。

 都会の喧騒に疲れ、田舎に移り住んだ人たちを取材した記事などを読むと、自然、人間関係、そして娯楽に対して戸惑いが感じられる。自然環境の厳しくない所が都会として成長していくわけであるから、田舎の自然が厳しいのはある意味当然であるし、また自然が豊富の残っているから田舎といえるわけでもある。自然は決して優しいだけのものではない。確かに時には僕たちの心を包みこんで癒してくれるが、その反面厳しい一面もあることを覚悟しないといけない。

 そして一番の問題は人間関係である。都会とはただ自然を変えただけではなく、田舎の因習というものも立ち切って人々を解放させた場所だ。それに伴なう問題はいろいろと起きるが、反面それによって人々が気楽に暮していけるということもある。都会はどんな人も呑み込んで保護色にしてしまう。

 娯楽に関しては僕も切実に感じたことがあった。かなり昔、ある女性に田舎暮しの話しをしたことがある。その時、彼女が言ったのは「単館で上映しているようなヨーロッパ等の地味な映画が観られなくなる」ということだった。ハリウッドの娯楽大作なら近くの大きな街に行けば上映しているかもしれない、しかし、地味な作品は東京だけでしか観られないものも多い。

 本や音楽なども同じようなことがいえるかもしれない。ネットの普及で、「買いたい物と買う」ということに関しては何とかなるかもしれないが、映画やコンサートなど現地に行かなければ仕方ないものは諦めるしかない。ビデオやDVDという手もあるが、やはり映画館やコンサート会場でしか味わえないものはある。

 年をとったら田舎でのんびり暮したいというのは、間違っているような気がする。都会こそ、のんびりと暮すには最適の場所なのだ。どんな人でも呑み込み、匿名性の中あまり干渉をされずに暮せる。田舎で暮したいという人は、‘のんびり’が好きではなく、自然が好きな人でなくては後悔することになるような気がする。

 人間とその活動をも自然と見なせば、都会は人間という動物が環境を自らが暮しやすいように変えた場所と考えることもできる。乱立するビルディングも、地面を固めたアスファルトも、地中を走る地下鉄も、アリが作るアリ塚と同じく、人間が作った自然と見なすこともできるのではないだろうか。

 何かと忙しそうに見える都会ではあるが、総合的に考えると人間がもっとも安楽に暮せる場所なのかもしれない。そういう目的で、自然を変えて住みやすいところにしたのが都会なのだから。(2006.3.15)


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