悪魔の証明

 民主党永田議員が衆議院予算委員会で堀江氏が自民党幹事長の武部氏の次男に‘選挙コンサルティング’の名目で3000万円を振り込むように指示したメールを公開した。ところがこのメール、肝心なところがほとんど黒塗りにされており、内容もかなりうそ臭いもので、素人の僕が見ても‘偽物なのではないか’と思えるのだけど、何故か民主党の執行部は強気だ。その理由の1つとして‘悪魔の証明’ということがあると思う。

 悪魔の証明とはモノ・行為の存在を巡って、「あること」に比較して「ないこと」を証明することが極めて困難であることを比喩する言葉である。「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すれば済む。しかし、「ないことの証明」は、全ての存在・可能性について、「ないこと」を示さねばならない。したがって、調査範囲が限定されるような場合などを除き、「ないことの証明」は「あることの証明」に比べて困難である場合が多い。

 そのため、通常は、証明責任は「ある」と主張する側が負うべきとされる。したがって、「あること」が証明されなければ、「ない」と見なされる。なぜなら、荒唐無稽な主張に対しても、否定する側が「そうではないこと」を証明しなければならないというのは不合理だからである。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 今回の問題で武部氏の次男が堀江氏からお金を受け取っていないと証明するのは、ほとんど不可能なのである。お金の振り込み先の口座など、秘密口座や海外の口座などを考えればほとんど無限の可能性がいつまでも残り続けるからだ。民主党執行部の強気もその辺にあるように思う。

 しかし、‘ないこと’の証明が非常に困難であり、原則として証明責任は‘ある’と主張する側が負うべきなのだから、民主党は振り込み先の口座を特定し、その口座が武部氏の次男のものであることを確認し、そこに堀江氏からの入金があったことを証明しないといけないことになる。さらに、通常の商取引等の可能性もあることから、その金銭の性質を明らかにしないと負けになる。


 日常でもこの‘悪魔の証明’はいろいろなところにある。夫婦、親子、恋人、友人同士の間など至る所で起きる。下世話な例をあげれば夫の浮気を疑う妻などが、わかりやすいかもしれない。女性の勘は鋭いものだから、疑いを持たれるということはかなりの確率で真実なのかもしれないが、これも夫が‘自分は浮気をしていない’と証明するのはほとんど不可能である。

 浮気の相手にしたって会社の同僚、いきつけの飲食店の人間、さらにはテレクラなどで知り合った人妻などいくらでも広がっていくし、時間と場所だって残業時間或いは出張など疑い出したらきりがなくなるのである。そう、ポイントは疑い出したらきりがないということなのだ。

 あの出張のときが怪しいと妻が疑問を口にし、夫が確かに出張に行っていたと出張費や交通費、はたまた宿泊先のホテルの領収証などを提示したとしても、疑えばいくらでも疑えるのである。そして、さらなる説明を夫に求める。しかし、‘ないこと’を‘ない’と証明するのは、あらゆる可能性を排除していかなくはならないので、ほとんど不可能であり、その不確かさによって人間関係は泥沼化していく。

 このようなことは、かけ持ちをされているのではないかと疑心暗鬼になっている恋人、子供の行動に不信を抱いている親など、いろいろな局面で起きてくる。そして‘悪魔の証明’という言葉通り、人々の心の中にも悪魔が宿ってしまう。大量破壊兵器の有無を巡って始まったイラク戦争などは、最悪の例である。

 生きていけば、いろいろなレベルで疑念は生じる。人を疑いたくなることもいろいろと起きる。そして、それに捕まり、自分自身も苦しんだりする。‘悪魔の証明’から逃れる唯一の道は、人を信じることである。決定的な何かがない限り、人を信じることである。当然、そこには裏切られたということも起きるだろうけど、それでも自分自身を救うためにも信じるしかないように思うのだ。

 居もしない悪魔の存在を怖れ人を傷つけ苦しむよりも、たとえ後に引っくり返されようと、心を決めてしまった方が涼やかな気持ちは残るような気がする。それが自分自身を欺くことであっても…。(2005.2.22)


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