マスメディアの限界

 ノンフィクションライターの沢木耕太郎さんの著したものの中に「おばあさんが死んだ」というルポルタージュがある。

 静岡県浜松市の借家で独り暮しの老女が瀕死の状態で発見される。栄養失調と老衰のため搬送先の病院で老女は亡くなるが、老女宅の奥の六畳からミイラ化した遺体が見つかったことから事件は大きくなる。鑑定の結果、ミイラ化した遺体は、約1年半ほど前から姿が見えなくなっていて、東京に病気の治療に行ったことになっていた老女の実兄であることが確認される。

 老女は実に1年7ヶ月に渡って実兄の死体と暮していたことになる。その理由を新聞記者は「葬式を出す金もなく、役所の世話にもなりたくなかったため」と解釈する。そして、その過程で死体は偶然が重なりミイラ化したと…。しかし、それが全くの間違いであり、その本当の理由は遥かに深い位置にあることを、このルポルタージュは明らかにしていく。

 新聞やテレビなどのマスメディアで伝えられる「事実」とやらは、表面的であり、全く真実をかけ離れていることも少なくない。僕が最初にそれを感じたのは、以前、出張で金沢市役所に行った時だった。その仕事は大掛かりなものだったので、記事となって地元紙に載った。それを読んだ僕たちは、苦笑するしかなかった。何故なら、混乱して全く当初の予定通り進まない作業が、それには「順調に進んでいる」と書かれていたからである。

 その仕事が順調に進んでいようが、そうでなかろうが、社会的な影響はほとんどなかったと思われる。僕たちの残業時間が増え、出張が一日延びてしまっただけである。しかし、全く正反対のことが記事に書かれていたことには違和感を覚えた。

 恐らく記者は、市役所の担当者に取材したのだろう。担当者は形式的に「作業は順調」と応えた。もちろん社会的な影響が大きい事柄であれば、裏付けを取ったりはするのだろうが、そうでもないため記者はそのまま記事にした。確かに、この記事はどうでもいい記事ではある。しかし、ここにディテールを出せないマスメディアの限界があるように感じる。

 そのことが決定的に感じられたのが、ドクターキリコの事件である。この事件をマスメディアはだいたい次のように報道した。

 「ドクターキリコこと草壁竜次は自ら作ったHPでシアン化カリウムを販売し、買った女性がそれを飲んで自殺、彼も後追い自殺した」そして「ネットで毒を売って金儲け」という解釈がつき、さらに「ネット心中」などと書いたマスコミもあった。

 しかし、真実がこれとは全く違ったことは、その後、出版された関係者の本等を読むと明らかである。草壁竜次氏は自分のHPを持っていなかった。知人の女性が管理するHPの掲示板の管理を頼まれてしていただけだった。そして、自らの体験から草壁竜次氏は青酸カリを送ることによって、重度のうつ病患者を発作的な自殺から救おうとしていた。

 「飲めば間違いなく死亡する薬物を手元に置く事で、自殺を防ぐ」この逆説的な考えは、深い取材なくして浮かび上がることはなかった。しかし、あの大ベストセラーになった「完全自殺マニュアル」も、これと同じようなコンセプトを持っていた。「これがあればいつでも死ねる。だから別に今じゃなくてもいいじゃないか。もうちょっと生きてみようか…。ほんとに辛くなったら、これを飲めばいいんだから…」というわけだ。

 あれだけセンセーショナルな報道をしたにもかかわらず、僕が知っている限りこの事件を真面目に時間をかけて掘り下げた取材をし、番組あるいは記事にしたマスメディアは1つしかなかった。

 冒頭に書いた「おばあさんが死んだ」と「ドクターキリコ事件」の共通点はマスメディアが充分な取材もなく、記者の思い込みだけで報道されたところにある。しかも、それは誰でも思い浮ぶような安直なものだった。そして、ここのところこの「安直さ」はさらに酷くなっているように感じる。

 特に酷いと思うのは、テレビのコメンテーターというやつである。僕は、出勤前に毎日テレビのいわゆる情報番組というのを見ている。その番組には日替わりでいろいろなコメンテーターが登場し、政治や経済、事件や社会的現象などについてコメントする。それを聞いていると吐き気がすることがある。何故、この人たちはこうも自信満万に言い切れるのだろうかと…。

 彼らは、遠くに山を眺めながら、それのガイドを書いたり、人に言ったりしているようなものだ。その山のことをできるだけ忠実に伝えたかったら、地元の人に取材をし、登山客に話しを訊き、そして自らの足で登ることである。そして、それだけのことをしたとしても、それは真実の一部でしかないことを知ることである。

 「わかっていることは、わからないということだけ…」こういう謙虚な気持ちを持っている人だけが、わずかに信用できるように思う。(2005.12.3)


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