その日、新しい会社で働くということが、ひどく他人事のように思えて実感がわかなかった。そして、直前まで出社しようか、どうしようかと私は酷く悩んでいて、逃げ出したい気持ちでいっぱいだったのである。この時、もし付合っている女性がいなかったら、私は出社できなかっただろうし、そもそもこの会社に応募もしなかっただろう。 まあまあの規模の会社に内定した私が、‘今はまだ働きたくない’というような曖昧な理由によって、1日も出社せずに辞めてしまったことを彼女が知れば、関係は終わりになる可能性が強い。私はただそのことを回避したいがために、何とか会社に行くことができたように思う。 神奈川県内にある会社に着いた私はまず総務の担当者からいろいろと説明を受けた。その中で5分カットというのが心に引っかかった。この会社は電気総連の組合に入っている。その中で従業員の年間総労働時間が決まっている。しかし、この会社の従業員の年間総労働時間はそれを超えてしまっていたらしい。通常なら土曜日の休日や夏休みを増やして労働時間の短縮をするのだけど、この会社がとった方法は退社時間を毎日5分繰り上げるというあまりにセコイものだった。つまり17時30分の退社時間を17時25分にしたのだ。 5分退社時間が早まったといっても、喜ぶ社員などは誰もいない。実質的には全く時短をせず、組合の規定に納まるようにしたのである。このあまりに恥かしい手段を、「正当な手段ではないかもしれませんけど…」と前置きしながらも、得意気に話す担当者を見て私は寒い気持ちになっていった。 私の入社試験の結果にも話しは及んだ。一般常識と学科の試験の出来は大変よかったが、適性検査に問題があったと言われた。どういう問題かというと、精神的な落ち込みが見られたという。それは正に私の精神状態であり、私は適正検査を見直した。しかし、担当者はその結果をあまり重視しなかったようである。 会社の説明が昼くらいで終わり、社員食堂で昼をとり、午後からは設計部の部長と会社を周った。部長の話しによると新入社員は配属部署にかかわらず、1ヶ月間は生産部で油に塗れて働くことになっているそうなのだが、初めての中途採用である私はいきなり設計部での仕事をしてもらうということだった。そして、残業時間は上司の許可があったものだけ認められると言われた。 設計の仕事というのは、なかなか時間通りにいかない。場合によっては1日経っても全く進まなかったり、朝より夕方の方が前に戻っているということだってよくあることなのだ。私も前の会社で、それまで2週間やっていたことを棄て、また1からやり直すということがあった。 それは自分のミスということもあるが、仕事の難しさも関係していたりして、やってみないとわからないところがある。しかし、この会社では初めにチーフがその仕事を見て、何時間で設計できるかを決める。例えば納期3日の仕事で、設計に必要な時間は26時間と判断されれば、1日の通常の労働時間は8時間だから、2時間の残業は認められるということになる。それを越えた場合は、本人の技術力不足またはミスと判断され、何時間残業しようと超過の分は一切手当てが付かない。つまり体のいいサービス残業システムなのである。私の心はますます寒くなっていった。そして、私の職場はここではなく、恵比寿にある別室だということを知らされた。 午後3時頃、恵比寿にある別室のチーフが私を向えに車でやってきた。毎日1時間半もかけて神奈川にある本社に通うより、30分で行ける恵比寿の方が好都合だと初めは喜んだが、その気持ちは30分も続かなかった。恵比寿に向う車中でチーフと話してみて、彼は私がもっとも苦手なタイプだったからだ。 自信家のワンマンで、全て自分が正しいと思っていて、あまり他人の話しを真剣に聞く人ではなかった。かといってそれほど陽気というわけでもなく、常にむっとしたような顔つきだ。 車は1時間近く走り、ようやく恵比寿の別室に着いた。ここでも私は失望した。恵比寿別室は、外見こそそこそこ立派なオフィスビルの1Fだったが、室内はやや広いマンションの一室といった感じで暗く陰気だった。そこで働いている人も男性ばかり6〜7人で、自分とは遠い世界の人たちのような気がした。 私はみんなに紹介され、みんなも自己紹介をして、その日は終わった。とても疲れた1日だった。 重い足を引きずるように、何とか恵比寿分室に行った。事務所に入り、挨拶をしてもここで今日から働くのだという実感がなく、また他の社員からも自分は完全に浮き上がった存在であるような感じがした。ただ、このときは、その感覚の実体が何であるかはまだわからなかった。 昨日、私を恵比寿まで送り届けてくれたチーフは不在で、一番の年長者らしい人から「君の実力を知りたいので、まずはこれをやってください」といきなり課題を出された。私は資料を参考にしながらそれを進めたが、私に声をかけようとする人は誰もいなかった。明らかに初めての中途採用者をどう扱っていいのか、みんなが戸惑っていた。 私は2年間全く同じような設計の仕事をしており、さらに毛色は少し違うがその前のキャリアを含めると6年間の経験者ということになり、そのことを昨日の紹介でみんなは知っている。全くの初心者として扱えば失礼になるし、かといってどのくらい実力があるのかはわからない。それが、彼らの心に何がしかの引っかかりを作っているように感じた。プロ野球に例えれば私は外人選手で、決して高卒や大卒のルーキーではなかった。彼らは私とどんな言語で話せばいいのかわからなかったのだ。 結局、この日の午前中、仕事のこと以外で話したことといえば「お昼どうしますか?」と訊かれ「みんなお弁当を取っているんですよ」と言われ、「僕もそうします」と応えただけだった。 暗い室内で黙々と食べるお弁当は美味しくなかった。息が詰まりそうで、外に行きたかったが、まだ入ったばかりの私に個人で行動するだけの度胸もなく、昼食をとり終えた後もみんなの話しを黙って聞いているだけだった。 午後も私は黙々と課題に取り組むだけだった。少しはみんな打解けてきて、何か私のことを訊いてくるかなと期待したが、そういうこともなく、自分が宇宙人になってしまったような感覚になった。 17時25分になり、「それでは今日はこれでいいです」と言われ、私は「お先に失礼します」といって会社を後にした。私が帰った後、みんなが私のことをいろいろと話しているような気がした。つづく…(2005.7.15) |