4月25日午前9時18分頃、尼崎駅手前で発生したJR福知山線の脱線事故は、この類の事故としては考えられない107人の死者を出した。事故の詳しいメカニズムは現在調査中であるが、運転手の速度超過が大きな要因とされている。 この電車は尼崎駅のひとつ手前の伊丹駅で、約40mのオーバーランをしたため、定刻より1分30秒の遅れが発生し、それを取り戻そうと運転手が速度を上げ、制限速度70Km/hのR300のカーブに約40Km/hオーバーの108Km/hで突っ込んだため、遠心力により、内側の車輪が浮き上がり、それが要因のひとつとなって脱線に至ったようだ。 日常生活上、1分半という時間は、全く大した時間ではないわけだけど、JR尼崎駅は東西線や東海道本線が乗り入れている要衝であり、この時間帯は乗り換え時間もかなり短く設定されていたようで、運転手には絶対に遅れることはできないとのプレッシャーがかかり、それが速度超過に繋がり、それが今回の事故を招く遠因になったのかもしれない。そう考えると、この1分半という時間がやけに重く、そして恨めしく感じられる。 今回の事故のニュースを聞いて、思い出したことがある。もうずいぶん前のことになってしまうけど、JR新大久保駅で起きた事故のことである。 酒に酔い誤ってホームから転落した男性を、助けようとして2人の男性が線路に下りた。そこに電車が入線してきて、3人の命が一瞬にして奪われてしまった。2人が男性を助けようと線路に下りたわずか30秒後に電車が入線してきたのだ。 もし、この事故が運転間隔わずか2〜3分の山手線ではなく、何処か田舎の路線で起きたなら、酔ってホームから落ちた男性を2人は余裕をもって助け出していたに違いなく、3人の命が奪われることはなかっただろう。過密ダイヤが招いた悲劇といえなくもないのである。 しかし、次のような事実もある。いつだったか変電所の故障により、山手線の運転間隔が大幅に延びたことがある。いつもは2〜3分でくるところを、この時は7〜8分間隔になっていたと思う。そういうことが数週間続いた。 当時、僕は都心から40Kmほども離れた会社に通っていたため、朝7時に家を出ていた。そして目黒から池袋まで山手線を利用していた。運転間隔が延びた山手線はどうなったか?いつもの10倍以上の混雑になったのである。 それまでは朝早かったため、席に座れることが多く、のんびり気分で通勤できたが、このときは朝早いのにもかかわらず満員電車並みの混雑になった。朝早い電車でさえ、この状況だ。8時から9時の通勤時間帯の状況は容易に想像がつく。僕は一刻も早く、変電所が直ることを祈らずにはいられなかった。 つまり、現在の運転間隔を維持しないと、都会は機能不全に陥ってしまうのだ。快適性、利便性の追求によって、都会は成長してきた。したがって、都会での過密ダイヤというのはそこに走る血管のようなものであり、これを後戻りさせることはなかなか難しいかもしれない。快適性・利便性の追求によって、影の部分ができるのは仕方ないことなのかもしれない。僕たちは、システムを憎みながらも、それを蜜のように啜っている。しかし、安全性は全てに優先されなければならない。 電車のダイヤというのは日本社会の縮図のように思える。非常にシステマッティックで緻密にできている。特に乗り継ぎのタイミングなど、芸術的とさえ感じることもある。しかし、それは反面危うい均衡の上に成り立っているのだ。ひとつが狂えば、全体に波及する。それが人にプレッシャーを与え、萎縮させてしまう場合も多い。そしていつしか僕たちは、システムの奴隷のような存在になる。しかし、結局それを操るのは人間なのだ。そこにミスが起きるのは、当然といえる。 今回の福知山線の事故もそうだ。まず伊丹駅でのオーバーラン、小さなミスである。しかし、この小さなミスがダイヤというシステムを守るため運転手にパニックを起させ、あの大事故に繋がったなら…。やりきれない。 ミスは起きる。問題は、いかにそれを大きなものにしないかということだ。遅れを出した場合の対処法は懲罰的要素が極めて高い‘日勤教育’というものしかなかったのだろうか?果たしてJR西日本に電車が計らずも遅れた場合のマニュアルというものがあったのだろうか? ミスを起したら即懲罰というのでは全く進歩はない。ミスを起したら、いかにリカバリーするかということの方がはるかに大切のはずだ。人間である以上は、誰だって間違えるのだから…。(2005.5.1) 今回の事故で命を落された方々のご冥福を心からお祈り致します。 |