雨音

 昨日3月末日、ようやく東京の桜が開花した。暖かくなったと思ったら、また寒くなったりと桜も戸惑ったようである。降る雨も、冬の冷たいものから、春の優しいものに変わりつつある。僕はしとしとと降る春雨に濡れるのは嫌いではない。心地いいとさえ思うことがある。しかし、バイクで行った旅先で雨にあたるのは、惨めな気持ちになり、心が塞いでしまうこともある。そんなとき、小さな駅舎や神社などの軒下に入り、空から落ちて来る雨粒を見ていると、不思議と心が安らいできたりする。それに、雨の夜、テントの中で感じる安らぎ、それは何なのだろう…。

 テントに雨のあたる音が好きだ。僕は夏にバイクで北海道をよく旅する。宿泊はほとんどキャンプ地で、テントの中で一夜を過ごす。キャンプ場は自然が豊富に残っているところが多いので、天候はよく変わり、昼間は晴れていたのに、夜になると雨ということがよくある。そんなとき、テントのフライシートに水滴のあたる音で、雨が降ってきたことを知る。初めはポツポツと、そのうちザーザーと。その音を何気なしに聴いていると、とても安らいだ気分になり、幸福感で満ちてくる。何故、そんな気持ちになるのか、あまり真剣に考えたことはなかったのだけど、ネットであるサイトを読んでいたら、その理由がわかったような気がした。そのサイトとは中務皓介さんが運営する‘無用の人’というHPで、その中での‘足るを知り、不足を知る’というエッセイだ。(以下にその一部を引用する。)


いつかは、自分も死ぬ。
死んでしまえば骨になり、土の中で雨に打たれるだろう。
或いはこの先、生きて雨に打たれながら眠らないといけないかも知れない。
もちろん古い家なので雨漏りはするが、とりあえず今は
雨がざんざんと降っている中で濡れることなく眠っている・・・。
それが たまらなく幸せに感じるのである。

(中略)
ところで、石庭で有名な京都・竜安寺には
「吾・唯・足・知」と彫られた「つくばい」がある。
学生時代、何度か訪れたが 当時はその意味がよくわからなかった。
しかし、この頃、そこに彫られた「吾、ただ足るを知る」。つまり
「今のありがたさを知ること」とは何なのか・・・。
それが、おぼろげながらも解ってきたような気がする。

 この文章を読んで、僕は何故、夜、テントの中で聴く雨音に安らぎを覚えたのかわかった気がした。それは、雨音が心地よいとか、そういったことではなく(多少はあるかもしれないが)、外は雨が降っているのに、濡れずに眠れることへの安堵感ではないか。テントにより、雨風や夜露をしのげ、寝袋によって心地いい温度に体が包まれていることが僕に何ともいえない安らぎを感じさせていたのだ。それは非常に人間の根源に近い感情で、或いは原始時代に洞穴から降っている雨を見ている古代の人たちの想いとも通じるところがあるのではないかと考えたりしてしまうわけである。現代は物に溢れている。その中で生活の根本となる衣食住が歪められたり、忘れられたりしているように思う。

 僕が子供の頃、肘や膝につぎを当てた服を着た子供はいっぱいいた。しかし最近ではあの家庭の温もり、母親の深い愛情を感じさせるつぎ当ての服を着た子供を見ない。今の子供はきれいでかっこいいデザインの服を着ているけど、それらは何処かよそよそしい感じがして、家庭の裕福さは伝わってくるけど、温かさはつぎ当ての服ほど感じることはできない。

 街には食べ放題を謳い文句にしている飲食店はいっぱいある。昔、同僚の送別会がすき焼き食べ放題の店で行なわれたことがある。みんな食べ放題なのだから肉を食べなくては損とばかりに次々と牛肉を注文した。野菜や豆腐を頼むと上司や同僚から、非難の目が飛んできた。しかし、その肉のもとは何だったのか?そのことに思いを馳せることも無く、ただむやみに食べ続ける彼らの姿に僕は寒気がした。食べられることへの、食物への感謝の気持ちが全く欠落している。僕はそれほどストイックな人間ではないが、どうも焼肉食べ放題だとか、カニ食べ放題だとか、要するに肉類に関する食べ放題には違和感を感じてしまう。

 僕がキャンプの夜、テントにあたる雨音に感じていた幸福感とは原点回帰だったのかもしれない。バイクでのキャンプ旅行では何処で寝られるか、どうやって一食を確保するかということが、観光地を周ることよりはるかに重要だったからだ。自然の美しいところにテントを設営し、一夜の住居が得られ雨に降られても濡れずにすむ喜び、少ないお金で買った食材を自分なりに調理してできた食事、そういったものがとても貴重に感じられたのは、一宿一飯を何とか得られたという感謝の気持ちからきていたように思う。何への感謝かと問われれば、あまり宗教的でない僕は自然と偶然としかいえない。

 しかし、都会の生活に戻ると、そういった根源的なもののありがたみは忘れさられ、物と情報の洪水に溺れていく。今度はその生活が当たり前になっていく。そして当たり前のハードルはどんどん高くなっていく。その人間の飽くなき欲望が今の発展をもたらしたのだろう。しかし、別の面に光りを当てれば、それが人間を幸福から遠ざけているような気がする。僕らは見つけたと思っても、ふっと姿を消してしまう火の鳥を追いかけているようなのかもしれない。

 上ばかり見ていても、そこには空が広がっているだけ、やがて首も疲れてくる。目線を下げて、自分の周りを見回して、もっと下げて自分の立っている地面を見れば、大地をしっかりと掴んでいる足が見えて来るはず。自分の足元をしっかりと見つめ、身の丈のあった視線を持ち、たまに空を見上げる。そんな心持ちになれたら、少しは何かが変わるかもしれない。そして、寝ながら聴く雨音が心地いい子守唄になるような気がするのだけど…。(2005.4.1)


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