変えられる未来、変わらぬ過去 (後編)

 その日…、朝になっても、なかなか決心はつかなかった。しかし、辞めてどうなるというのだ。また、新しい仕事を探すのか?、こんな状態で探せるのか?そして、僕の気持ちはだんだんと固まっていった。

 まだ、何の方向性を見出せない今、辞めることはできないと思った。そして、僕は気持ちに踏ん切りをつけ、何とか出勤することができたのである。案ずるより生むが易しというが、会社に行ってしまうと自分でも意外なほど気持ちの整理がついていた。さらに、いっしょに働いていたアルバイトの人が辞めることになり、仕事の幅が広がり、気分転換になったのも幸いしたかもしれない。不安定だった精神状態が、安定するようになっていった。しかし、時には虚しさが嵐のように心を掻き乱し、ついつい「辞めます」という言葉が口をついて出そうになったりした。

 仕事というのは、それがどんなに惨めなものに思えても、誰かがやらないといけないものなのだ。だから、何がしかのお金も貰えることになる。そこに何かを付帯して、自分の中で価値を高めていけば、惨めな気持ちはある程度抑えられるのではないか。そう考えた僕は勤めてその何かを探し、自分の気持ちを納得させ、ときには騙してやってきた。

 ある程度、気持ちが安定してくると、仕事に多くのエネルギーを取られないということが生きてきた。それまで忘れてしまっていたいろいろなことに想いが及ぶようになった。何より時間の自由度が増したことがよかった。休みも自由に取れるし、早く帰りたいときも気楽に帰ることができる。半ば強制的にやらされていた残業もやりたくなければしなくていい。正社員時代には夏に2〜3週間も休むといったことは考えられなかったわけだし、長い夏休みがとれることだけでも意味はあったように思った。ところが、しかし…とまた反転してしまう自分がいることも確かなのだ。

 ‘仕事=生活費を得る手段’と割り切ってしまえば、楽になれることはわかっている。だけど、どうしても割り切れず、小数点以下の数字が無限に続いてしまう。僕の中には仕事に‘お金以外の何か’を求める気持ちがどうしても残る。僕は、何処かにやっているだけで幸福感を感じられるような仕事があるのではないかと夢想していて、それはいるのかいないのかわからない青い鳥を探しているようなものなのかもしれない。果たして答えは得られるのだろうか、別の言葉でいえば人生と折り合うことができるのだろうか、今はわからない。

 そして、もうひとつの問題は将来に対する不安だ。パートという立場上、いつクビになるかわからない。これは抽象的な不安ではなく、現実問題として存在する。しかし…とまた、思う。将来の不安は将来考えればいいのではないだろうかと。未来は変えられる可能性はあるが、過去は絶対に変えられないのだ。どうなるかわからない将来のことより、今を一歩一歩生きる方がはるかに大切なことのように思える。

 確かに、将来というのは或る日、突然目の前に現われるわけではない。今の積み重ねがそれに繋がっていき、現在の生き方の延長線上にその姿は存在する。ある程度、そのことに思いを馳せた生き方というのは必要だろう。今を好き勝手に生きれば、そのつけを将来払うことになるかもしれないし、かといって未来を不安がってばかりいても、一向に前に進むことはできない。ただ、年をとった時、「あのとき、もっと自分のやりたいことをしておけばよかった」と後悔したくないだけ…。何もしない人生より、失敗だらけの人生の方がはるかにましだ。不安は解消されるかもしれないが、後悔はどうしようもないのだから。

 僕は結局、あまり勝ち目のない博打に手を出してしまったのかもしれない。振った賽の目がどうでるかもわからない博打に…。今、いえることは、真剣に賽を振ることだけだ。自分の賭けた目がでるように。しかし、どんな目が出るか…、それは賽に聞くしかない。(2005.3.2)


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