旅のこと 中編

 ぼくが旅の楽しさを再び感じ始めたのは専門学校に入ってからだった。重苦しい受験戦争から開放されたからだろう。年をとっても、やっていることは小学校の時とあまり変わらなかった。自転車で目的もなくぶらぶら走るのが好きだったのだ。自転車は中学校に入学した時買ってもらったもので、長距離には適さないものだったが、とにかく走ればよかった。そして就職して初めて買った物が旅行用の自転車だった。分解できて重量も軽く、どこまででも走っていけそうなものだった。

 そこで思いついたのが中学生の時、反対された群馬の親戚の家に行くことだった。地図を買い距離を調べたら100Kmくらいだということがわかったが、これをどのくらいの時間で走れるのか、また自分にどのくらいの体力があるのかわからなかった。そこでまず奥多摩まで行ってみることにした。1日で帰って来られるようにある時間まで走って引き返すという方法をとることにした。これで奥多摩の何処まで行けるかによって自分の体力と距離の感覚を知ろうとした。

 朝、早く家を出てマイペースで自転車のペダルを踏んだ。都内の雑踏を抜け奥多摩の山々が見えてきた時はすごく遠くまできたような気分になり、独特の感覚だった。自分の生活圏を離れた感覚というものだろうか…それがすごく新鮮だった。

 この奥多摩日帰りサイクリングで御岳まで行けた。かなり疲れたが片道60Kmの距離だった。ということは1日でどうにか100Kmくらいは走れる自信が出来た。それに奥多摩に比べれば群馬までの道は平坦のはずだ。走れるという自信が強くなった。

 いよいよ出発の時が来た。朝5時くらいに家を出発した記憶がある。朝早いうちに都内の雑踏を抜けたかったのだ。7時くらいに都内を出て埼玉に入った。だんだんと風景が違って来るのがわかった。この時はほんとに一気に走ってしまったという感じだった。昼飯も食べず、かき氷くらいしか口にしなかった。とにかく群馬に早く着きたいという気持が強かったのだろう。群馬に入り親戚が住んでいる薮塚が近づいた頃には疲れ切っていて、自転車のスピードは地元の小学生より遅くなっていた。それでも2時前くらいに着き、すぐに水風呂に入った。

 この群馬旅行以来ちゃりんこでいろいろなところへ行くようになった。当時、何の免許も持っていなかったぼくにとって、自転車が唯一の自由になる移動の手段だったのである。免許はいらないし、お金もそんなにかからない。それにスピードがそんなに出ないためいろいろなものが見えるし、静かだからいろいろな音も聞こえる。自然に近い感じだ。必要なのは体力だけ…。歩くより楽で、バイクより自然に近い。いろいろな手段を使って旅行して来たが時間さえ豊富にあれば今でもちゃりんこが最高だと思っている。

 自信を持ったぼくは群馬旅行のことを会社でよくしゃべった。会社ではバイク全盛だったが、興味を持ってくれた人がいた。Kさんという人だ。年はぼくより一回りくらい上の男性だったが、Kさんからはいろいろと旅のテクニックを教わることになった。そしてKさんと会社の後輩のM君と3人でちゃりんこツーリングに行くことになった。この時は千葉県の館山まで行ったのだが、グループツーリングの難しさと知ることになった。

 1人の場合は自分のペースで走ればいいし、2人の場合は遅い方に合わせればいいのだが、3人だとペース配分が難しくなり1人が遅れるという感じになる。この時はKさんが遅れ、途中ではぐれてしまうということが起ったし、この後3人で行った奥多摩ではぼくが遅れてしまった。

 この館山で泊まりのツーリングを経験したぼくはソロでの長期ツーリングがしたくなった。長期といっても会社勤めのため1週間程度なのだが、この1週間で行ける所まで行ってみようと思った。行き先は東北…。

 東北は当時それ程、思い入れはなかったのだが何故か行きたくなったのだ。距離と日数を計算したら会津若松までは行けそうだということになった。行きは国道4号を北上して帰りは日光を周って群馬の親戚の家を経由して帰って来る計画にした。このツーリングは始めてのソロの長期ツーリングだったが、何の問題も起きず順調に行った。

 天気も初日ちょっと小雨が降ったくらいでずっと晴れていた。初日に宇都宮、二日目白河、そして三日目に会津若松に着いた。そして四日目に日光、五日目薮塚の親戚の家、ここにもう一日泊まって、七日目に東京という行程で、会津若松から日光までの行った日が、後半重いギアが踏めなくなったくらいで、その日の予定のコースを予定の通り走れた。

 宿は、館山旅行でKさんに教わった駅で紹介してもらう方法でほとんど取れた。特に安い値段でいい宿にあたった日はうれしかった。この旅行で自転車さえあれば何処にでも行けるという感覚が掴めてた。この旅行の成功で自信を持ったぼくは富士五湖までのソロツーリングの計画を立てた。この時は体調があまりよくなく辛い旅行となった。

 初日で山中湖まで行く予定が山中湖の手前にある山伏峠を越すことができなかった。仕方なく飛び込みで民宿に泊まることになってしまった。その民宿には客はなく本当は泊めたくなかったようだが、自転車でしかも夕方だったため人情的に断れなかったのだろう。実際断られたらぼくは困ったことになっていた。あの時間から峠越えをしたら山中湖に着くのは何時になっていたか…。体力的にもほとんど限界だった。この旅行はハプニングの連続だった。

 朝霧高原ではハチに刺されたりした。あまり楽しいツーリングではなかったが、体力の重要性を感じた。特に箱根越えでは15Kmも延々と続く坂道を、2時間かけて上った。時速約7Km/hである。後半の2Kmはほとんど自転車を押して上った。何とか足をつかずに峠を越えたいという思いが強く残った。

 旅行から帰ってきたぼくは休日には出来るだけ体力がつくように自転車で多摩川のサイクリングコースを走った。そして秋も深まった時期、Kさんと2人で伊豆半島ツーリングに行った。Kさんも始めの館山ツーリングで遅れてから、バイクで通勤していたのを自転車に代えていた。Kさんの家から会社までは片道15Kmなので往復で30Kmほとんど毎日走っていることになる。こうして行った伊豆半島ツーリングは過去最高の走りとなった。この時は本当に体がよく動いた。それまでのトレーニングの成果だろうか?伊豆半島はアップダウンが多い。上って、下ってを繰り返す。しかしこの時は苦しいながらも何とか走りきることが出来た。サイボーグになったような走りだった。伊豆半島を後にして平坦な道になったときは本当に楽に感じた。

 翌年の春、会社にT君が入社してきた。そして、仕事でぼくの相棒となった。親しくなって、よくよく話をしてみると、T君もぼくと同じく自転車旅行が好きなことがわかった。そしてぼくらはGWに秩父へ一泊でのちゃりんこツーリングに行った。この旅行期間中、行動を共にしたことやいろいろと話したことで、ぼくとT君は旅に関しての好みが非常に近いことがわかった。近代的な施設や建造物、きれいで新しいものには全く興味はなく、鄙びた風景や美しい自然、そして古い歴史がふたりとも好きだった。そして、この夏、ぼくらは憧れであった北海道を自転車で走ることにした。

 翌年の春に退社が決まっていたぼくは、強引にT君を巻き込み夏休みに有給休暇を合わせて12日間に及ぶ休みをとり、急行八甲田で青森に向かった。自転車は宅急便で予め始めの宿泊地である旭川に送っていたのだ。今はなくなってしまった急行八甲田はすごい混みようで、通路にもびっしりと人が寝転んでいたりして、ぼくらはドアのすぐ近くにマンガ本を座布団変わりにして座った。どこかの駅からフィリピン人の女性たちがたくさん乗り込んで来て、ぼくらの近くに座った。彼女たちは元気がよく明るくて、ぼくらも旅が始まったばかりで楽しい気分だったため、カタコトの言葉で話したりした。北海道についてからも、楽しい気持ちはずっと続いていたが、旅の後半になってぼくとT君はちょっとしたことが原因でけんか状態になった。

 自転車で走っていて気づくとぼくの後ろを走っているはずのT君がいなくなっていることがたびたび起こった。T君は写真好きなため、途中で止まりよく写していたのだけど、だんだんとその回数が多くなり、やがてぼくに声もかけずに勝手に止まって辺りの風景を写真に撮るようになった。ぼくは「写真を撮るのはかまわないから、そのときは一声かけてよ」と言ったのだが、T君は「わかった」と言いながら勝手な行動をとり続けた。 ぼくは頭にきて、こんどは自分がわざと行方不明になったりして、さらにみぞが深くなっていった。そして北海道最終日の稚内ではほとんど別行動になってしまい、帰りの新幹線も別々のところに座って帰った。
つづく…(2004.10.29)


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