パンドラの匣

後編

 自分を完全に見失った私は、知らず知らずの間に、より自由に暮すということより社会的常識に囚われはじめ、「時間がある程度自由になる」ということと「何とか暮せるくらいの賃金」という職場の条件はいつしか「安定した正社員」というものに摩り替っていきました。何のために会社を辞めたのか、また会社員というものを辞めようとしたのか、その頃にはもうどうでもよくなったというより、そういったことを考える心の余裕がなくなり、とにかくある程度安定した会社に就職しなければという焦燥だけで、手当たり次第に自分のできそうな仕事に応募していきました。

 しかし、採用通知をもらうことはなかなかできず、時には酷いことを言われたりして、気持ちはますます狭い路地へと追い込まれていきました。心はその弾力性を完全に失って石のように硬くなり、視野は極端に狭くなり、ただ不安と恐怖に支配される自分がいるだけでした。

 そのような状態は非常につらいものであり、それから逃れたいという一心でますます自分を失い、次第に狭くなる螺旋階段を下へ下へと落ちていくような悪循環に陥りました。そして終に、苦し紛れに当初自分が考えていたのとは全く正反対の条件といってもいいような職場―有給休暇はほとんど認められず、定時で帰ることなど全くできない―に応募してしまったのです。

 面接の時は採用されたい気持ちだけで、社長の話にうまく合わせてましたが、面接が終わり帰路に着いた私の心は空っぽでした。自分がどうしたいのかということを全く見失い、迷子のように何処にいったらいいのかわからなくなっていたのです。しかし、採用通知は私の気持ちの整理などということとは関係なく送られてきて、それが真っ暗な中で微かに点った灯りのようにも思え、そこで働くことにしたのです。

 しかし、新しい職場で私は前以上の閉塞感に包まれ、日に日に虚しい気持ちが強くなっていきました。全く自由にならない退社時間、毎日のように浴びせられる叱責、変に前向きで話が噛み合わない社員たち、そして興味が湧かない仕事…。希望を持って退社した結果がこれだったのかという、虚無感や絶望感が覆い被さってきて、体調を崩すようになっていきました。そして3回目くらいに体の調子が悪くなったとき、もう会社には行けないという状態になってしまったのです。

 苦労して入社した会社をわずか3ヶ月で退社してしまった私は、不思議と楽観的になっていました。失業手当もあと3ヶ月近く残っていたので、それが切れるまではじっくりいこうという今までにはなかった気持ちの余裕が生まれていました。何故、そのような気持ちになったのか、自分でもよくわかりません。自分の体質に全く合わなかった会社を退社した安堵感だったのか、それとも苦しさがある一線を超えてしまい、壁の反対側に出てしまったのか、とにかくかなり楽な気持ちになったのです。そして、HPの開設、まだ行った事がなかった山陰地方への旅行など、今までやりたかったことを少しづつ消化していくうちに、生きることが少しづつ楽しくなっていきました。

 そして、それから5ヶ月、それまでの自分の経験を活かせそうで、賃金は低かったのですが、アルバイトのため時間はある程度自由になりそうな職場が見つかり、運良くそこで働くことになったのです。よく考えてみれば、この職場は「時間がある程度自由になる」ということと「何とか暮せるくらいの賃金」という条件にあったところでした。約1年経って、私は原点に戻ったのです。

 さて、冒頭でご紹介した「パンドラの匣」の話ですが、あれで終わりではなく続きがあるのです。開けてはいけない匣を開けてしまったために、ありとあらゆる災厄が飛び出して空になったと思われた匣の中に光る小さな石のようなものが残っていました。そして、それを取り上げてみると、そこには希望と書かれていたそうです。

 よくよく考えてみると絶望というのは観念であり、頭の中で作られる妄想のようなものだと思うのです。絶望は何処にもありません。ただ、私たちの頭の中に観念として存在するだけです。観念であるため、私たちはそれに苦しめられますが、それは自分で自分を傷つける自傷行為のようなものです。絶望とは実体を持たない幽霊です。したがって心持ちひとつによって、消えるのです。

 それに対して希望は可能性であり、血肉を持った実体のあるものです。それを見つけ、つかむのは大変かもしれません。しかし、それは必ず何処かにあるのです。根気強く探し続ける限り、いつかはそれを見つけ、手にすることができるように思うのです。希望は私たちの内にも外にもあり、何処かでひっそりと花を咲かせていたりします。そして、それは案外近くにあるかもしれません。(2004.7.7)

― おわり ―


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