Dark Side of the Moon

 月は常に地球に同じ面を向けている。これは月が地球の周りを1周する公転周期と月が1回転する自転周期が一致していることによる。だから地球上からは地球から見て月の裏側を見ることはできない。これだと地球上からは月の半分50%しか見えないことになるが、諸々の理由により注意深く観測すると月面全体の59%まで観測できるそうである。

 子供の時、夜遅くに祖父がお酒を買って来いと騒いだことがあった。祖父は酒乱の人であり、お酒が入っていないときは大変おとなしい人だったのだけれど、ひとたびアルコールが入ると人間が変わったようになってしまい、少しのことで暴れたりした。その時も買い置きの日本酒が切れてしまい、騒ぎ出したのだ。

 夜遅くといってそれは当時の感覚で確か9時か10時くらいだったように思う。酒を買って来いと命じられた母は、もう時間も遅いし酒屋も閉まっているからと諦めさせようとしたのだけど、そんな説得を受け入れる祖父ではなく、酒を買って来いとさらに荒れたのだった。

 仕方なく母はいつも行く近所の酒屋までお酒を買いに行き、僕も夜間の外出は魅惑的であり、来なくていいと言われたのだけど、それについていった。酒屋はすでに閉まっていて、引き戸には内からカーテンが下ろされていたが、ガラスを叩いて店主を呼び、母は理由を説明した。酒屋さんは僕の家の事情をよく知っていたようで、もう寝る仕度をしていたようだったけど、それほどいやな顔もせずに持っていった一升瓶にお酒を量り売りしてくれた。

 しかし、現在は都会で暮している限り、このように家庭の恥をご近所さんに晒す心配はあまりなくなった。たとえ、家庭に酒乱の人間がいて、夜中の2時に酒を買って来いと騒いだとしても24時間営業しているスーパーやコンビニの1軒や2軒くらいは近くに必ずあるからだ。真夜中に手元にない雑誌が読みたくなっても、アロエヨーグルトが急に食べたくなっても、深夜映画が録画したくなりビデオテープがなくても、手紙が出そうとして切手を探したらきれていても、何とかなる。

 僕達の生活が変わったのは夜間だけではない。朝、多少起きるのが遅れても電車は3分間隔で運行されていたりするから、たいていの場合は遅刻せずに会社や学校にたどり着くことができるし、昼食をとる時間が少なくても注文して1分でもう目の前には食べ物が出て来るから忙しいビジネスマンも少ない時間で食事をすますことができるようになった。離れて暮している家族にお菓子でも贈ってあげようと思えば、北海道とか沖縄を除いて、もう翌日には手元に届けられる。ほんとに便利な社会になったものだ。

 便利のなった裏側には、社会のシステム化が急に進んだという事実がある。常に棚には商品が溢れていて、24時間営業できるシステム、通勤時に電車を3分間隔で運行できるシステム、注文からすぐにお客さんを待たせず食べ物を出せるシステム、預かった荷物を日本全国1日で配達できるシステム等々、システムが日本中を覆い尽くしている。こうしたなか、昔ながらの牧歌的な商店はとうてい対抗することはできず、徐々に姿を消しつつある。

 コンビニエンスストアやファーストフード店に代表されるシステムを成立させるため、人間も完全にその中に組み込まれた。そして、その中で人間は個性を剥奪されて人格がなくなり、機能として存在するようになってしまった。人間の歯車化はここに極まってきたといえる。社会が便利になればなるほど、人間性が失われていくといった悪夢が出現してしまった。

 完全にシステム化された社会は余裕のない緊張の強い張り詰めたものだ。隙間がなく、そのため息をするのも苦しいほどの閉塞感に僕らは包まれているように感じる。あれほど酷い米英の犯罪行為であるイラク戦争にさえ、諸外国では反戦運動が大規模に起こっているのに日本ではほとんどといっていいほど何の運動も起きないし、それを指示するとこの段階になっても言っている小泉政権の支持率の高さは、もはや僕達の魂は人の痛烈な痛みにさえ何も感じなくなってしまった空虚な歯車に変質してしまっているように思えてならない。巨大な機械をただ動かすだけの心を失った歯車になり、日々それを潤滑に動かすことだけに汲々となり、他のことに関心を持たなくなっているように思える。

 絶望的なのは、システム化は加速度的に進んでいくということだ。さらに便利に、さらに早くと、隙間はどんどんと埋まっていく。そこにどのような社会が出現するのか…。体が大きくなりすぎて、絶滅していった恐竜のように、便利になりすぎたために人間にも悲劇が待っているような気がする。

 今の日本社会の表面は物は市場に溢れているし、非常にシステマティックで効率がよく便利な社会といえるだろう。しかし、その裏側では別の物語が展開されている。人間の歯車化、他人との関りの希薄化、自分以外のことに関する無関心化が進行して人々が孤立した寒々とした世の中になりつつある。

 常に見えている月の明るい部分だけ見て、その美しさを楽しむだけでなく、その裏側にある暗い世界にも僕らは想いをはせ、そして自分の目でそこに何があるのか、何が起こりつつあるのかを見つめる必要があるように思う。(2004.3.28)


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