昔、こんな話しを何かで読んだことがあった。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが付き合うきっかけとなったエピソードだ。ロンドンで開かれていたヨーコの個展にジョンがふらっと立ち寄った。ヨーコは前衛芸術家だったため、室内には風変わりなものがたくさん展示されていたが、その中でもちょっと不思議なものがあり、ジョンの関心を誘うことになった。 展示室の一画に梯子があり、それが延びている方向を目で追っていくと天井から虫眼鏡が吊るされている。ジョンは興味を持ち、その梯子を上って、その付近の天井を見回してみると小さな文字で何かが書かれているのを発見したが、裸眼では読めない。そこで吊るされている虫眼鏡で覗いて見ると、「Yes」という文字が書かれていたそうだ。 「Yes」という文字により、ジョンの心は大きくヨーコに開かれることになる。もしその文字が「Yes」ではなく、「No」だったら、ヨーコとの関係は違ったものになり、その後のふたりの関係はなかったかもしれないとジョンは回想している。「Yes」すべてを肯定するこの言葉は意外と力を持っているのかもしれない。 もし自分が同じように梯子を上り、虫眼鏡を手に取り、天井に書かれた小さな文字を見たとき、それが「Yes」だったら、そこに至るまでの行動が肯定されたような気持ちになりうれしくなるような気がする。逆に「No」だったら、わざわざ天井に書かれた小さな文字を見るために梯子を上ったり、虫眼鏡で覗いたりという行動が否定されたような気になり、何かバカにされたような不快な気持ちになるのではないだろうか。そこに「Yes」と書いたヨーコの感性は凄い。 ジョンに限らず、僕達は自分を「Yes」と肯定してくれる存在を探しているのではないだろうか?そしてもし、そういう人を持っていたとするならば、その人の人生の半分は成功したといってもいいような気さえ僕はする。 人間は生きていく上でいろいろな岐路に立ち、そして自分なりの答えを出して生きていく。義務教育が終わる中学校卒業のとき高校に進学するか、それとも就職するかとの選択があり、高校に進学すれば大学に進むか、それとも専門学校に行くか、就職するかとの選択があり、さらに進学した場合もまた同じような選択をすることになる。さらに進学といってもどの学校に行くかとの選択があり、就職の場合でもどんな仕事をするかという選択があり、さらにどの会社に入るかとの選択もある。そして、職に就いたとしても選択が終わるわけではなく、一生の間にはいろいろな別れ道がある。 望まなくても別れ道が待っていたりする。そしてどの道を行くのかを選択する。また自分で道を作ろうとすることもある。ただ、線路の上を走っているだけでは満足できなくなり、そこから外れてしまおうとすることもある。僕達は常に迷い、そしてどうにか歩いている。自分の進む方向を見つけて、恐る々始めの一歩を踏み出す。それは恐る々ではあるけど、苦しみ迷いながら踏み出した一歩の場合もある。自分でも確信が持てず、僕達はその決断を誰かに話す。たぶん、自分の身近にいて、一番信頼している人物に。そしてその人の口から出る「YES」という言葉が僕達に力を与える。 もし、そこで「NO」という否定の言葉が発せられたらどうだろうか?燃えあがりかけている火に水がかけられることになる。自分でさえ確信の持てない選択を他者から否定されたとき、人は迷路に入ったようになり、迷走することもある。しかし、その選択がほんとに否定されるべきものだったのかを知っている人間は誰もいないはずだ。 人生における選択は常に複数ある。そして恐らくその答えも1つではなく、複数の正解が存在する。問題は選んだ答えが正しかったかどうかではなく、その後の生き方にかかっているのではないだろうか?たとえ正しい答えを選択していたとしても、正解にするための生き方をしなければなんにもならない。 あなたにとって大切な人があなたに相談に来たとき、あなたにできることはその決断を尊重して、影になったり陽なたになったりしながら応援し、うまくいくことを祈るだけのように思う。その決断に明らかな誤り ―例えば犯罪を計画しているとか、カルト教団に入信しようとしているとか、悪徳商法に手を染めようとしているとか、― がなければ、その人がだした答えに「Yes」といって微笑んであげてほしい。恐らくその決断の背後には、梯子を上り、虫眼鏡を手にとって、天井に書かれた小さな字を見ようとするくらいの苦労が隠されている場合が多いのだから。(2004.3.10) |