空に舞った1ドル札

 クリスマスイブの前日、昨年12月23日午後5時20分頃、名古屋市内の久屋大通公園内にあるテレビ塔から1ドル札と旧100円札合わせて8000〜9000枚の紙幣がばらまかれた。ばらまいたのは岐阜県内の無職男性(26)で愛知県警中署の事情聴取に対して「今月初めに株の売買で大もうけしたため、広く市民に還元したかった」と話した。

 この出来事の追跡記事が25日の毎日新聞の朝刊に載った。その記事によると、この男性は東京の国立大学を卒業後、大手銀行に就職したが「いつか僕も先輩たちのようにリストラされるのではないか」と不安になり、わずか半年で退職し、実家に戻った。そして公認会計士の勉強を始めた。その勉強の過程で企業の財務諸表に詳しくなり、インターネット上の短期的な株取引で利ざやを稼ぐデイトレーダになった。

 その日常は午前7時半頃に起床、新聞やTVで海外の相場や経済ニュースを見て、取引開始前の売買注文を分析してその日の市場動向を予測する。そして国内で取引がある午前9時から午後3時までパソコンに向い、モニターの株価グラフを見つめながら、日に数回から数十回売買をする。

 1000万円儲けた日もあれば、それ以上に損をした日もあった。取引を始めて3年余り…これまでの利益は約1億2000万円という。名古屋のテレビ塔からばらまいた紙幣は経営破綻した足利銀行の持ち株会社だったあしぎんファイナンシャルグループ株を破綻直後に約600万株買い、値上がりした時に約550万株売った儲けが元手だった。

 この記事では何故男性がそのような行動をとったのかということを解明しようとしている。デイトレーダといえば聞えはいいが、その生活は‘引きこもり’そのものだった。ゲーム感覚でパソコンに向い、誰とも会話のない日が続く。孤独感に苛まれ、「市場から利益をもぎ取るだけで、世間に何のプラスも生み出していない」という思いが強くなり、「この世界に自分がいてもいなくても同じ」という空虚感に支配されだす。

 親と顔を合わせるのも辛くなり、実家を離れてホテルなどを転々とするようになる。そうしているうちに「金をばらまいたら面白い。クリスマスなら許されるだろう」といういたずら心が芽生える。

 記事の中でこの男性は「何回か瞬時に大金を手にしたが、喜びより空虚さが残った」と語っている。この言葉を信じれば人はただお金だけを手に入れても幸福とは感じないものらしい。お金だけいくらあっても虚しいだけ…というのは真実のように思われる。この男性に限らず、金も名誉も地位もある人がそれほど幸福ではなかったという事実を僕達はかなりの人数知っているからだ。

 この男性のデイトレードで儲けたお金を空にばらまくという行為は、儲けたお金に対する復讐であり、それまでの自分の人生の否定のように思われる。自分の人生の否定というと思い当たる映画がある。黒澤明監督の「生きる」だ。

 この映画の主人公である志村喬演じる市役所の市民課長は30年間無遅刻無欠勤で役所に通っている。‘何もしないことが仕事’という役所の中でただ定時に出勤して椅子に座り、時間がくれば帰るという日々の繰り返しで、生きているのか死んでいるのかわからない毎日だった。そんなある日、胃の調子がよくない日が続くため、彼は病院に行く。胃がんに彼は侵されていたのだ。医者は診断の結果を何とか誤魔化そうとするが、彼はその態度から自分が胃がんであることを確信してしまう。

 彼はそれまでの自分の人生を振り返り、言い様のない虚しさに襲われる。唯一の心のよりどころでもあるひとり息子は彼の家の2階でその妻といっしょに住んでいるが、彼は自分が入る込む隙間を見出せず、相談することも気が引けてしまいできないでいる。そして彼は役所を無断欠勤するようになり、胃がんであるにも関らず、自分のそれまでの人生に復讐するように酒びたりの毎日をおくる。それまでの人生への反逆なのだ。

「完全な自己否定は自由以外の何物でもない」とはドイツの哲学者シュテルナーの言葉であるが、彼らは儲けたお金を塔からばらまくことで、または30年間無遅刻無欠勤で通った役所を無断欠勤し酒浸りの日々をおくることでそれまでの人生を否定した。好むと好まざるとに関らず、その瞬間彼らの心はそれまで自己を縛り付けていた鎖がとかれ自由だった。問題はその先にある。

 酒びたりで役所を休み続ける彼の家に役所の女子職員がやってくる。彼女は役所を辞めようと思っていたのだが、それには課長の認印が必要だったからだ。それがきっかけとなりふたりはいっしょに遊ぶようになる。パチンコにいったり、あんみつを食べに行ったり、夕食をとったりという日々が続く。しかし、新しい勤め先まで押しかける彼がだんだんと彼女にとって気持ち悪い存在になっていく。彼が彼女に惹かれたもの…それは彼女の活力だったのだ。

 彼はその秘密を彼女から聞き出そうとする。彼女が言ったことは「ただ、働いて、食べて」という答えだった。しかし、彼はそこからわずかな光を見出し、生き始める。棚上げになっていた汚水がたまる空き地を公園として整備する仕事に全力を尽くすようになるのだ。

 虚しさの象徴のような紙幣をばらまくことはその男性にとって、それまでの人生への反逆であり否定であった。それまでの自分を否定したことにより、それまでの自分から解放された。決行のあと男性は「すっきりした」と言っている。しかし、虚しさは今も消えていないとも言っている。

 これからは否定した自分を肯定できる自分につくりかえていく作業が始まる。それはほんとに長く曲がりくねった道になるだろう。だけど、自己否定をまた繰り返しながらもその道を一歩一歩、歩いていかないといけない。そして人間にはその力があると信じるしかない。

「警察から厳重注意を受けた時、両親が心配そうな顔で現われた。ばらまきも取引と同じように自己完結したと思っていたけど、大事な人に迷惑をかけたんだなと気づいた。これからは外に出て他人と交流を持ちたい」と男性は語ったそうだ。(2004.1.28)


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