信号機

 その日は仕事で遅くなり、最寄りに駅に着いたとき時計はすでに9時を回っていました。駅を出ると線路沿いに商店街があり、僕はその人影の少ない家への帰路である通りに入りました。商店街はどの店もすでにシャッターが下りていて、それが壁のように通りの両側を閉じています。商店街といっても個人経営の小さな店が並んでいるだけですから、その壁の向こう側には人の暮らしがあるはずなのですが、その温もりを通りから感じることはできず、廃墟のように空虚な空間があるだけでした。狭い間隔に配置された無機質な街灯の灯りに包まれている通りに入ると、まるで異次元の世界に落ち込んでしまったような感覚に囚われるのです。

 だけど、その閉じた空間が必ずしも居心地が悪いかというとそんなことはなく、寂しい風景ではありますけど、僕はその通りを夜遅く歩くときいつも何ともいえない安らぎを感じていたのです。それは何にも干渉されることのない、独りだけの世界がそこにぽっかりとあったからかもしれません。僕はその世界で自由に心の手足を伸ばし、わずかなくつろぎを得ていたのです。

 仕事が終わった後、独りで夜の海岸に車で行き、微かな波の音を聞きながら何時間も過ごす知り合いがいます。彼は千葉に住んでいるため、人気のない海岸にすぐに行くことができるです。誰の干渉も受けることないそこが疲れた心を癒すことのできる彼にとっての簡易的な安らぎの空間と時間だったのでしょう。東京に住んでいる僕にはそういったこの世界から落ち込んでしまった空間を見つけることは困難でこの通りが唯一といってもいい場所でした。

 街灯が冷たい灯りを放っている商店街を抜けると辺りは途端に暗くなり周囲は住宅に変わります。道は暗いですが、家々からは明るい灯りが漏れていてそれが商店街を歩いていたときに感じていた安らぎを消し、僕はまた住み慣れた世界に引き戻されます。漏れてくるのは灯りだけでなく、子供や犬の声、遅い夕食の匂い、そして辺りは商店街を包んでいた硬質な空気が柔らかいものに代わり僕の足を家へ家へと急がせるのです。

 何処の住宅街でもそうだと思いますが、ここは日中でも人や車の通りが少ないところで、夜9時を過ぎると車の通行などはほとんど途絶え、商店街を歩いていた人達も分散されて今では自分の足音のみが感じられるだけです。そんな中で1箇所だけ、子供たちの自転車がたくさん止まっているところがあります。それはこの住宅街で開業している学習塾です。

 自宅を改装したのでしょうか、外見では普通の家なのですが、塾の看板と子供の自転車があることによってかろうじてそこが塾だとわります。教えているのは小学生だけのようで、今の時刻くらいにこの辺りを通りかかるとちょうど彼らの帰宅時刻といっしょになります。こんなに夜遅くまで勉強している彼らはがり勉で子供らしくない子供なのだろうなと思うと大間違いで、いつもみんな元気で塾を出ると大騒ぎしながら自転車に乗ったり足でかけて家へと帰っていきます。

 この日は多少時刻が早かったせいか、僕が塾の前を通り過ぎてからしばらく経ってから後で子供たちの元気な声が聞えました。授業が終わった開放感からか、塾の前でいつものようにみんなでわいわいやっていましたが、やがてそれぞれ家に向って走り出しました。

 住宅街の端に片側1車線のやや道幅の広い道路があります。ここはバスなども走る昼間は比較的交通量の多い道で信号機が設置されています。しかし、夜9時を過ぎると交通量はめっきりと減ってしまい、信号機などはほとんど無用になってしまうのです。実際に10時を過ぎるとこの交差点の信号は赤の点滅と黄色のそれに変わってしまいます。その信号機に向って僕は自宅への道を早足で歩いていました。

 その僕を塾から路上に出た子供たちの一団がある子は自転車に乗り、ある子はかけっこで大声で話しながら追い抜いていきました。狭い教室から解放された子供たちはまるで綱から放たれた子犬のように飛んだり跳ねたりしながら僕から遠ざかっていきます。そんな彼らの動きがいっせいに止まりました。前方にある信号が赤だったのです。

 赤信号に捕まった子供たちはその場所で元気な声でしゃべっています。僕はそこに止まっている彼らに追いつきました。僕は子供たちよりちょっと前に出て左右を見まわしましたが、車は全く走っていません。それならと思い、信号はまだ赤のままでしたが僕は信号無視をして横断歩道を渡りました。当然、子供たちも僕の後に続いてくるものだと思っていたのですが、彼らは信号を守りまだ反対側で待っていました。

 車が全く走っていないのに、信号が赤だから待っている子供たち…。僕は彼らをえらいと思う気持ちよりも、何か怖さを感じたのです。彼らが見ているのは目の前の信号機だけだったのです。彼らは目の前の信号だけを見て、何の疑いもなくそれを受け入れているのです。周りがいったいどうなっているのか、そんなことは気にもとめていない感じでした。

 車が来ないことを確認して歩き出せば、たとえ信号が赤でも事故にあうことはありません。しかし、信号が青だからといって左右を確認しないで歩き出した場合、事故にあうことはあるのです。車が必ず信号を守るとは限りません。

 やがて信号は青に変わり、子供たちは走りだし少し先を歩いている僕を元気よく追い抜いていきました。そしてめいめいの家の方向に散らばって行きました。

 これは今から十数年前の話しです。だけど、この時の子供たちの姿と今の日本の姿が僕には何となく重なって見えるのです。(2004.1.12)


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