雲の故郷 3


 働き出して1ヶ月もすると、毎日毎日が楽しくなってきた。仕事は楽しいなんて…それは瞬間、瞬間ではあったけど朝が来るのが楽しみだなんていうことはなかったように思う。

 朝、4時くらいに洗濯機の回る音で目が覚める。おばさんが家族のものを洗濯している。僕はその音を寝床で聞きながら何ともいえない安らぎを感じていた。外はまだ薄暗いけど、だんだんと明るくなっていく。気持ちが高まってきたら、ふとんをたたみ、作業服に着替える。6時くらいにおばさんが朝食の用意が出来たことを知らせにくる。

 やっと口に押し込んでいた朝食も何時の間にかどんぶり2杯くらいは楽に食べられるようになっている。食べ終わった後はちょっと休んで、かわいいKさんを助手席に乗せて仕事場である畑に出発する。キャベツだろうが、白菜だろうが、俺がどんどん運んでやるという気持ちになる。体を動かすと心も動く。そして気持ちはどんどん前に前に進む。

 10時の休憩はみんなで並んで座り、パンをぱくつきジュースを飲む。場合によっては取れたてのレタスとハムのサンドイッチだ。おばさんは気の利いた冗談をいって僕をからかいみんなを笑わせる。そして、ふと腰を上げると目の前には常に八ヶ岳の雄大な姿があった。八ヶ岳は常に僕達を温かく見守ってくれていた。山岳信仰というものが、山の麓で働くと何となくわかるような気がした。

 キャベツ、白菜は力がものを言う仕事だが、レタス類はちょっと複雑な工程がある。キャベツや白菜は切った物を大きさによって選り分けそのまま箱に詰めればいいのだけど、レタス類の場合は切り口を水で洗わないといけない。これも基本的には僕とU君の仕事だ。だから、おばあさん、おばさん、Kさんが切ったレタスの切り口を携帯用の水吹きで洗い、頃合を見てレタスが詰められた箱を閉じ、運び、また頃合を見て切り口を洗う。これをうまく回転させないと作業の効率が悪くなってしまうのだ。力仕事ではU君に負ける僕は、レタスの収穫になると張り切った。こんなところで会社勤めの経験が活きて来たりする。

 ある日、U君と2人でSさんのお兄さんの畑仕事を手伝いに行ったことがあった。午後から行き、仕事は4時くらいに終わった。僕とU君は軽トラに乗り、畑のあぜ道を走り、開拓記念碑に行った。途中で買った缶ジュースを飲みながら雄大に広がる八ヶ岳や青く澄み切った空を見ていた。

 「ここは雲の故郷のようですね」
とU君がしみじみと言った。僕は彼の横顔を見た。彼は空を見ていた。僕も空を見上げた。そこには白い大きな雲の塊がいくつもいくつもあり、風に乗り流れていた。
「ここで雲が生まれて、いろいろなところに流れていくような気がします」
と彼は言った。僕もそんな気がした。きれいな雲だった。僕達はこれから一体何処に流れていくのだろうと思った。

 8月31日、まずU君が学校が始まるということで自宅に帰っていった。野菜の出荷の仕事をしながら、U君が乗った車を見送った。バイト部屋は広くなったが、ひとりでは空間がありすぎ寂しくなった。夜になり、明日、家に戻るKさんがふいにバイト部屋にやってきた。手にはジュースを何本か持っていた。ふたりでそれを飲みながら、いろいろなことを話した。「やっぱり、お酒の方がよかったわね…」とKさんは言い、自分の部屋に戻っていった

 9月1日、Kさんも家に帰り、バイトは僕ひとりになった。仕事量は大幅に減っていた。9月に入ると出荷の仕事はまだあるが、午後に行なう苗植えや草むしりの作業はあまりなくなった。午後になるとおばさんとふたりで畑に向う日が多くなった。

 みんながいるときは僕をからかってばかりいたおばさんだけど、ふたりきりになるとしみじみをした話をすることが多くなった。よく、考えてみるとあまり力のない僕を常におばさんはかばってくれていた。「力は確かに強くないけど、その分活動量が多いから、今まできたバイトの中でもHさんが一番だよ」と僕を過去最高のバイトと言ってくれたりして、僕を涙ぐませるのだった。

 暇な時間ができた僕は近くの温泉巡りなどをしていた。しかし、僕の本心は温泉巡りなどしたくなかったのだ。畑に出て仕事がしたかった。キャベツや白菜の出荷をしたり、レタスの苗を植えたりしたかった。しかし、確実に仕事はなくなっていった。最後の時が近づいているのか思うと気分は暗くなった。

 のちに青森県のリンゴに大打撃を与えた台風19号が来たのもこの頃だった。おじさんとおばさんと僕は畑の土が流失しないように台風の中、作業した。

 9月も中旬を過ぎると、午後の仕事はほとんどといっていいほどなくなり、午前中の仕事も時折休みになった。おじさん達は「いつまで居てもいいよ」とか「彼女も呼んでふたりでバイト部屋で住んだら」とか言ってくれたけど、仕事もそうないのにいつまでもやっかいになるわけには行かなかった。

 おじさんと山に冬用の薪にする木を切りに行ったり、おばさんと畑を巡回したりといった仕事が中心になっていった。僕はおじさんと相談の上、9月21日までということにしてもらった。ちょうどこの頃、僕にKさんから手紙がきた。



 Hさん                      _
 お元気ですか?そろそろ右手不随とかなって     _
 いませんか?                                  _
 Hさんにも1ヶ月間本当にお世話になりました。     _
 おばさまのおっしゃるとおり、私たちが会えたのも  _
 やはり何かの縁なのですよね。                   _
 私はHさんとU君に出会えて本当に良かったです。    _
 今、私はそちらでの生活のすべてがなつかしくて    _
 たまりません。こっちはムシ暑くて、人がうよ      _
 うよしていて建物がぞろぞろたちならんでいて、    _
 (千葉だけど)すべてがうっとうしいです。         _
 友達の言う事がバカバカしく思え、いろんな友達    _
 から電話がきましたが、誰とも会う気になれま      _
 せん。3日〜6日までサークルの合宿で山中糊へ      _
 行きましたが、人のうようよいる、うるさくて      _
 きたないただの観光地で、私はムリヤリ笑い      _
 ムリヤリさわいで疲れはてて帰ってきました。      _
 長野の山が畑が広いS邸がなつかしいです。         _
 チンゲン菜も少しは大きくなりましたか?           _
 レタスは出荷しおわりましたか?                  _
 ムギは芽を出しましたか?ベニスズメのヒナは      _
 育っていますか?チーはあいかわらず              _
 欲求不満ですか?                               _
 私は今、一体何をしていいのかわかりません。      _
 しばらくこの状態が続くと思います。              _
 でも今がいろんな事を考え直す時期なの            _
 かもしれませんね                               _
                                               _
 彼女さんからの手紙来ていますか?私からの手紙    _
 より何十倍もうれしいとは思いますが、だから      _
 といってやぶって燃やしたりしないで下さいよ。    _
 全くクールでドライでしめっぽいんだから。        _
 いつまでいらっしゃるかわかりませんが、老体      _
 にムチうってがんばって下さい。うそですよ、うそ。 _
                                                _
 本当にありがとうございました。                  _
 いつか絶対会いましょう。絶対ですよ。             _
                                                _
         では 又                        _
                                                _
                                                _


 封筒には「彼女さんからじゃなくて露骨にガッカリしないでください」と書かれていた。僕にはこのKさんの手紙に書かれた気持ちがよく理解できた。ここでの生活は僕にも同じような、気持ちの変化を起していたからだ。建前やどうでもいい情報に埋もれていた都会の表面だけの生活に比べ、ここには生きているというここ何年も味わっていない実感が確かにあった。

 9月21日、僕は山盛りの野菜と2ヶ月半分の給料をもらい東京に向かった。中央高速は激しい雨が降っていた。それはこれからの僕の生活を暗示しているようだった。


その後、
僕は沖縄に行ってサトウキビの収穫の仕事でもしようと思い、母親に言った。母はそんないい加減なことでは仕方ないと泣き、僕は結局その涙に負け、再び会社員になった。そして、その会社に11年勤めることになる。

U君は広島のある島で果実の収穫・栽培のアルバイトなどをやり、そこで知り合った人と結婚して、現在はその島に住んでいる。

Kさんは大学卒業後、派遣社員となったが満足できず、南米を2年に渡り働きながら旅をした。その後、再び派遣社員になった。(2003.10.4)






終わり



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