雲の故郷 2


 辛い日々が続いた。会社に勤めていたときは、いつも夜遅くまで仕事があり、生活が完全に夜型になっていたため、その習慣が残り、朝は満足に食べられず、昼食は午前中の作業の疲れでのどを通らない日が続いた。満足に食べられていたのは夕食くらいなものだった。

 また夜になると必ず4人の子供達がバイト部屋にやってきて大騒ぎになった。僕達の荷物はいつもそれでぐちゃぐちゃになってしまうのだ。特に小学校1年生の双子は腕白だった。成長したら、不良になりそうな顔をしていた。その反動かもしれないが、小学校3年生の男の子は比較的大人しかった。小学校5年生の女の子は一輪車が得意でよくくるくると庭を回っていた。それはほとんど曲芸に近かった。

 しかし、人間の体の適応力は大したもので、1週間を過ぎたあたりから、朝もどんぶり1杯くらい食べられるようになり、作業にも慣れ、体力も多少はついたようで、動けるようになってきた。

 農家の仕事は午前中に野菜の収穫・出荷で午後からは苗植えや草むしりなどになる。食事は1日5食に近い。朝食、10時頃に菓子パン等、昼食、3時頃に菓子パンやおやつ、そして夕食。朝は6時くらいに朝食をとり、7時半くらいから畑に向う。

 10時と3時くらいにはそれぞれ30分くらいの休憩があるが、3時からの休憩は午後からの仕事がそれほどないときには1時間近く休むこともあった。お昼はだいたい12時から2時くらいまで休憩だ。昼食を取り終わった後はみんな昼寝をする。やはり午後からの仕事があまりないときは休憩時間は長くなり、2時半くらいまで休みになる。

 午後の仕事が始まるときはおばさんが僕達を起こしに来る。昼寝するときはだいたいパンツ1枚でタオルケットをかけて寝ているが、一度だけ僕のモノがパンツから知らない間にはみ出ていてそれを起しに来たおばさんに見られてしまったことがあった。それ以来、何かと「私はHさんの本尊を見たよ」とからかわれることになってしまった。

 夕方は5時くらいには終わりなる。その後、畑から家に戻り、箱作りをする場合もある。翌日の出荷量が多いときは7時くらいまで、庭にライトを点して作業をした。夕食はだいたい7時半くらいからだろうか。

 集荷場の休みが土曜日のため、その日は野菜の集荷・出荷の仕事はなくなるが、それ以外の仕事があるため完全に1日休みになることはほとんどなかった。ただ、野菜の出荷のない日の作業は比較的楽だった。



 しばらくして、3人目のアルバイト、C大学の女子大生Kさんがやってきた。乗馬部に所属するすらっとした可愛い感じの女の子だった。北海道の牧場でバイトをしたかったそうだけど、定員がいっぱいになってしまっていたそうで、ここを選んだそうだ。Kさんはさすがに僕達のバイト部屋で寝るわけには行かないので、母屋の2階に部屋をもらった。彼女がバイトに来たことで僕もU君も仕事に張り合いが出てきた。

 Kさんが来てから2〜3日後に始めて丸々1日休みがもらえた。僕とU君は僕の車で美ヶ原とかにドライブに行った。Kさんも誘ったのだけど、仕事で疲れているということと荷物を整理したり洗濯したいということで僕達2人で行くことになった。汚れた作業着や下着、衣服は全部自分で暇を見つけて洗濯しないといけないのだ。僕とU君は夕食後に行なうことが多かった。ついでにお風呂も毎日入れるわけはなく、だいたい1日おきくたいだった。U君はKさんがもっと打ち解けてもいいのにと文句を言った。

 Kさんが来てからは僕とKさんが軽トラで、U君は50ccのバイクで畑に向った。Kさんは始め大人しそうな感じであったが、意外にものをはきはき言う女性だった。僕がKさんを乗せて事故を起しては行けないと思い、車をゆっくり走らせていると「Hさん、昔事故ったことあるんですか?」とこちらの気も知らないで、冷たく言い放つのだ。そして、僕が誰でもわかるようなことまで指示を出したりすると「私、猿じゃありません」と毅然と言われたりしたし、午後箱作りをしている時、なかなか現われないのでどうしたのかと思っていると「呼ばれなきゃ、ずっと寝ています」と勝気なところを見せ、僕達をちょっと驚かせた。

 作物はカリフラワー、キャベツ、白菜、レタス、サニーレタス、グリーンリーフレタス、グリーンボール(小さなキャベツ)、チンゲンサイなどがあり、出荷のときにもその種類によってかなり大変さが違う。基本的に軽いものは比較的楽で、キャベツや白菜など重量のあるものは大変だ。全体の作業としてはキャベツがいちばん大変だが、アルバイトだけの作業を考えると白菜の出荷がいちばん辛かった。

 キャベツと白菜は1箱の重量が15Kg前後になることには変わらないが、キャベツの場合は標準12個で1箱になるのに、白菜では標準8個で1箱になる。だから、次々と箱が出来てそれを運ぶペースも早めないといけない。したがって一息いれる時間がなくなり、辛くなる。ただ、作業も後半になるとおばさんやKさんが運ぶのを手伝ってくれたりして、何とかなる。

 どの作物でも流れ作業になっていて、おばさん、おばあさん、Kさんが野菜を切り、おじさんとおじいさんが大きさを選り分け僕とU君が予め置いておいた空箱に詰め、僕とU君が箱を閉じトラクターまで運び、バケットに積む。僕がトラクターをちょうどいい位置に畑の中を移動させながらこれを繰り返す。

 そしてトラクターのバケットが積み込まれた箱でいっぱいになるとおじさんとU君がそれを集荷場に下ろしに行く。僕はその間、新しくできた箱を運び、トラクターに積みやすいように仕分けをして置く。そしてトラクターが戻って来たらまたU君とそれをトラクターに積みこむ。

 出荷するための箱は前日にある程度作っておき、現場で不足分を補うという感じだった。箱作りはスピードを要求される。ホチキスを2連発、3連発で打ったり、箱をくるくると回転させながら4角を止めたりする。僕は最後までうまくホチキスを2連発や3連発で打つことができなかったが、回転させながら4角を止めるレタス類に使う箱を作るのは早くできるようになった。

 どの野菜をどのくらい出荷するということは予め農協に届け出ておく。その数よりもあまりに少ない数しか当日に出荷できない場合は違約金を取られるそうだ。だから、雨が降っても、休みにならずカッパを着て作業する。雨の日の作業は、長靴が畑の土の中にめり込み、なかなか抜けなくなるので大変だ。

 野菜が出来過ぎてしまい、価格が暴落する恐れがあるときには農協から夜の8時過ぎくらいに生産調整のアナウンスが拡声器を通して流される。「明日の白菜の出荷は20%カットでお願いします」と流されたとすると、白菜400箱を届けている場合は320箱の出荷が許される。だから、予め生産調整を意識して多めの届けをする場合もある。読みが外れた場合はそれだけ多くの労働をしなくてはならなくなってしまう。

 さらに野菜ができ過ぎると、今度は廃棄の指示が出ることになる。廃棄は野菜を指定された分だけ、畑の中に積み上げる。そして、それを農協の監視委員の人が車で巡回しながら確認するそうだ。しかし、実際にいい野菜を棄てるということはなかった。腐った物や出来の悪いものを適当に積み上げた。数もいい加減だ。監視する人も実際に棄てられた野菜の数など数えず、ただ車の窓から見るだけのようで、結構いい加減らしい。

 Kさんも日にちが経つとだんだんと打ち解けてきて、夜はよく3人で酒盛りをした。田舎のため1番近い酒屋まで歩いて行くと往復1時間半はゆうにかかった。だけど、田舎の夜道を3人でそぞろ歩くのは愉しかった。ほとんど毎日のように騒いだ。酒の飲みながら、庭でS農園の人々のものまねをやった。3人で適当に配役を決めて、コントのようなことをしていた。それにいろいろなことを話した。都会だと気恥ずかしい、愛とかSEX、それに政治の話まで大真面目に論議した。

 一度だけKさんが真夜中にバイト部屋を尋ねてきたときがあった。事情を訊いてみると部屋に大きな蛾が出たので取ってほしいということだった。U君は虫が苦手だったので、僕に頼みに来たらしい。僕は虫獲り用のアミを持ってKさんの部屋にいったが、何処を探しても虫はいなかった。たぶん、僕達が来る前に何処かに行ってしまったのだろう。だけど、次の日からU君の態度がおかしくなった。どうも僕とKさんの間に男女のことがあったと誤解しているようだった。U君だけではなく、みんな僕がKさんに部屋に行ったことを知っていた。ただ、みんなはそんな疑いを持たず、夜、虫を退治しに女の部屋に行った男と僕に喜劇的な面白さを感じたようだった。おばさんは「必要だったゴム貸すよ」などと僕に言ってみんなを笑わせていた。

 東京にいる当時付合っていた女性には手紙で長野の農家で住み込みで働いていることを知らせた。ほとんど生まれて始めてといっていい文通が始まった。僕に限らず、家族や友人、恋人から手紙は励みになった。電話番号を知らせていた友人からは夜になってから電話がかかってきたりした。

 Kさんも恋人や家族からよく手紙が来ていた。しかし、Kさんはここでのバイトですっかり価値観が変わってしまったようだった。同じ大学の友人に物足りなさを感じて始めていた。そして、ここでの体験が、この後のKさんに大きな影響を与えることになった。

 一度、U君のおかあさんからSさんに電話があった。これは後から聞いたことなのだけど、息子はちゃんと仕事をしているかと確認だったそうだ。おばさんの話のよるとU君はここに来る前にバイクを盗み、それで事故を起していて、その弁償をしていたらしい。お母さんは遠い土地で果たして息子がきちんと働いているか心配になったのだろう。

 仕事はS農園の畑だけではなく、僕とU君はよその農家の仕事まで手伝いに行くことがあった。そして、手伝い先の農家にバイトにきていた沖縄出身のAさんに出会った。Aさんは50歳前後の男性で埼玉県C市に住んでいた。夏は長野でバイト、秋になると首都圏の建築場で働くといったことを繰り返しているらしかった。始めは独身だったようだけど、去年辺りから女の人を連れて来るようになり、噂の的になっていた。

 性格は穏やかで物静かな感じの人で、長野に来る前は1ヶ月くらい東北地方を車で奥さんと旅をしていたらしい。僕はそういうAさんの生き方に強い憧れを持った。おじさんも本当に幸せな人生とか何だろうと考えさせられると珍しく思索的になっていた。Aさんには金峰山の山小屋で行なわれる怪しげなパーティに誘われたが、お盆が完全に休みにならないので断った。

 その他、僕はおばあさんがひとり暮しをしている家に電話の修理に行かされたことがあった。だけど、僕に電話の修理などできるはずもなく、ただおばあさんの話を聞くだけであった。しかし、おばあさんに感謝され、その後2〜3回遊びにいった。おばさんは僕とおばあさんが出来ているのではないかなどと、ちょっとぞっとする冗談を言って笑っていた。

 夜中に外で家族全員集ってパーティをしたことがあった。ジンギスカン鍋を中心に日本酒やビールを飲み、寿司をつまんだりした。子供達は食べるだけ食べてしまうと辺りを走り回っていたが、そのうち雲行きが怪しくなり雨が降ってきた。僕とU君はバイト部屋に戻るとアルコールとそれまでの疲れが出て寝こんでしまった。雨が上がり、花火大会をやろうと子供達が言って来たが、熟睡していた僕達は不機嫌に対応してしまった。しかし、これが幸いして丸1日休みをもらえることになった。おじさんは僕達が余ほど疲れているのだろうと気を利かせてくれたのだ。

 休みの日、バイト3人で僕の車に乗り小旅行をした。軽井沢に行き、白糸の滝を見てさらに浅間山を眺めながら北上し、野反湖まで行った。ここで昼食をとり、帰りは軽井沢で夕食をとった。おじさんから2万円のお金をもらっていたがきれいさっぱりなくなった。高校野球でたまたまKさんの出身校が試合をしていたので、車のラジオでその試合を聞きながら3人で声援を送った。

 8月のある日、若い女性がやって来た。彼女は数年前にここでバイトをしていて、現在は横浜で看護婦さんをやっている25歳の人だった。夏休みを取れたようで、3日間くらい滞在した。「せっかくの休みなのに、何で働きに来たの」と訊くと、「辛いことを経験しておけば、看護婦に戻ったとき楽に感じられるから」と言った。「看護婦の方がきついでしょ?」と訊くと「肉体的にはこっち」と言った。

 彼女は仕事に慣れているらしく、Kさんが疲れて早く寝ついたときでも、夜、庭に出て遅くまで持参のライトを点けて本を読んでいることがあった。僕とU君はよく話しに行った。彼女は20代後半に入っているのに、未だにこんなことをしている僕が気に食わないようで「あんた、人生なめてるんじゃないの?」「これからどうするつもり?」などと言い、よく説教をされた。

 しかし、僕にはそんなつもりは全くなかった。真剣に生きようとすればするほど、おかしなことになってしまうだけなのだ。これは未だに変わらないような気がする。つづく…(2003.9.23)




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