自分探し


 「自分探し」という言葉が登場したのはもうかなり昔のことだ。「自分にあった仕事」を探すという意味で使われる場合が多いようであるが、本当の自分探しとはその文字通り「自分は何物なのか」ということを探すことで、仕事に限ったことではない。「自分の個性を見つけること」といってもいいかもしれない。

 社会がそれほど豊でなかったときは私達は目の前のことで精一杯であまり自分を見つめ直すということを考える余裕がなかった。その日、その日の生活を立てることに全力をそそいでいた。しかし今はある程度立ち止まることができるくらいの余裕ができた。立ち止まることによっていろいろなところに目がいくようになった。

 自分の外の世界は楽しいし、刺激に満ちている。しかし、そこには自分を変えてくれる力がないことに気づく。それに比べると自己の内面はわかりづらく、何処に境界があるのかさえよくわからない。しかし、自分を大きく変えてくれる力が潜んでいるような気がしてくる。よくわからないものを探求したいと思うのは人間の自然な感情だ。そして、自分探しをする人が多くなってきた。

 誰でも自分自身を見たいという気持ちはあると思う。しかし、それは大変困難で、ある意味危険ですらあるように思うのだ。その人の個性というものはちょっと探したくらいで簡単に見つかるものではない。人間の個性というのは深遠であり、道路の逃げ水のようにすぐ目の前に水を見つけてもその場所に行くと消えてしまい、また先に水が見え、それを追いかけるとまた…ということを繰り返すことになる。

 さらに、どうすれば自分を探せるのかよくわからない。カルチャーセンターに通ったり、ボランティアに参加したり、アルバイトでいろいろな仕事をやってみたり、長期の旅に出てみたり…。また、自分でも気づかないうちに自分を探している場合もある。部屋に引きこもって自分自身に淫してみたり、自分を確認するため自傷行為を繰り返したり…。そういった他人の目には滑稽とも映りかねない行為を真面目に行ない、悶々とする。だが、それでもそう簡単に答えはでない。


只見線

 私のことをいうと、私は意識的に自分を探そうと思ったことはない。だけど、長期の旅行にいったときなど、自分でも気づかないうちに自分自身を見ようとしていることに気づいたりする。おぼろげながら自分が何となく見えたと思う瞬間もあるが、その像をはっきりと掴むことはできなかった。そして何時の間にか逃げ水にように捕まえたと思ってもふっと遠くに行ってしまう。或いは本当の逃げ水のように存在さえしないのかもしれない。

 今も仕事を探しながら、仕事ではなく自分を探している自分に気づくことがある。しかし、自分を探すという行為は自己の内面にある螺旋階段を果てしなく降下していくようなものでいつしか底無しの沼に入り込んでしまい、それに囚われて脱出できなくなるような気がする。底無しの沼にはまり込んでもがいてみても、捕まる枝もなければ手を差し伸べてくれる人もいない。辺りには空虚な風景が広がっているだけなのだ。

 やがて、囚われた自分はだんだんと自分への関心を失っていく。自分を探すという行為の果てに何も見つけられず、不安と恐怖と喪失感に支配される。自分が自分ではないような感覚になり、自分を傷つけ始める。そして自分の生命にまでも無関心になっていく。

 自分自身を見つけるというのはやさしいことではない。はまり込んでしまえばそこから抜け出すのは難しく、場合によっては生命の危険すらもあるように思う。自分を探すということは高く飛び上がるというものではなく、地面をひたすら掘り続けるような行為だ。それでも探そうとする人はこの冒険に出るだろうし、自分でも気づかない間に果てしない旅に出てしまっている人もいるだろう。

 しかし、他人から見れば滑稽でさえあり、本人にとってはある種の危うさが付きまとう自分探しをしない方いいとは私は思わない。意識的にでも無意識でも自分探しの旅に出ていることに気づいたら、焦らずじっくりと自分と向き合いたい。人生においてそうそう、自分自身を見ようとする時間が得られることはないと思うからだ。途中で止めてしまってもいいし、またふらっと旅に出てもいいと思う。自分自身を探すというこは、他人を認めるということにも繋がっていくような気がする。

 自分の弱さを認め、自分の汚さを知り、自分の情けなさをわらう。自分自身に鍬を入れ、ひたすら耕し、何かが出てくれば儲けもの、何も出てこなくても耕すことによってある種の力はつくだろう。そして一歩一歩と歩いていけばいい。(2003.8.12)




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