走り出す欲望


 僕が子供の頃を考えてみると、自分の生活圏にいない他人と知り合うということはまず出来なかった。遠距離の人と話す手段としては電話があったが、その性質上、全く知らない人に電話をかけることはできないし、知らない人間からかかってくるということもなかった。繁華街に遊びに行くにしても、それは家の近所にある繁華街で、知らない街の情報は皆無だった。だから家の近所で近くの友達と遊んでいた。

 情報源はTVとラジオ、それに新聞、雑誌、本などといった活字媒体からだったが、今に比べればはるかに情報量は少なく、子供が読む雑誌なんて週刊○○といったマンガ雑誌と‘小学○年生’とか、‘学習と科学’くらいなものだった。

 当然、性に関する情報もほとんどなく、唯一の情報源は当時、ワースト番組に指定されたウィークエンダーの再現フィルムだった。それををどきどきしながら見ているだけだった。学校の放課後の居残り自習などで男子だけになると、ウィークエンダーの話題でもちきりになったほどだった。

 情報がいかに少なかったかの例として‘69殺人事件’を上げることができる。これは当時、ウィークエンダーで取り上げられた事件だが概略を説明すると、夫が東南アジアに会社の同僚たちと買春ツアーに行った。もちろん妻への名目は仕事での出張ということにしていた。そこで夫はSEXで始めて69という行為を知った。69(シックスナイン)といえば今の人ならたいてい知っていると思うが、一応説明すると、お互いの性器をそれぞれの口で愛撫する行為だ。その時の体位が69という数字に似ていることからこういう名称になったようだ。

 夫は69という買春ツアーで始めて知った行為を家に帰ってからも忘れることができず、それを妻に強要するようになっていった。しかし、妻はそんな行為、聞いたこともなければ見たことも考えたこともなかった。やがて妻はその悪寒の走るような行為を必要にせまる夫に悪魔が憑いたのだと考えるようになっていった。東南アジアで悪魔が夫に憑き、それがこのおぞましい行為をさせようとしているのだと信じるようになり、ついに夫を殺してしまったのだ。

 69という行為は今でも抵抗がある人は多いはずで、いやな人は絶対に応じないだろう。しかし、それを相手が要求したとしても悪魔が憑いていると考える人はまずいないはずだ。それは情報化により、やったことはないにしてもそういった行為があるということは誰でも知っているからだ。だから好き嫌いの問題にできる。しかし、当時はそういった情報は皆無に近かった。そういった行為があると知っていた人も多くいたはずだが、不幸なことにその妻は知らなかった。そして悲劇的な結末になってしまったのだ。

 人が成長してくるとだんだんと未知に人と知り合いたいという欲求が出て来る。僕がその始めとして熱中したのが市民無線だった。市民無線の場合、電話と決定的に違うのは知らない人としゃべることができることだ。無線機から‘どなたか聞いていましたら、応答お願いします’と呼びかければ電波の届く範囲だったら誰かが話しかけてきてくれるかもしれないのだ。僕もそういったことが何回かあった。しかし、市民無線の最大の欠点は電波の届く範囲がえらく狭いということだった。だいたい、都会では半径5Kmが精一杯だったような気がする。そのうちパソコン通信が出て来るが、これは完全にマニヤが中心になっていて、確かにいろいろな人とは知り合えたがある意味狭い範囲だった。

 そうこうしているうちにテレクラというものが出てきた。伝言ダイヤルなどのサービスも開始され、それまでは知り合い同士のコミュミケーションツールだった電話が突如として不特定多数と知り合えるツールの王位についてしまったのだ。それまでは欲望を叶えるには何処かの特定な場所でその道のプロを相手に行なっていたのが、テレクラの登場により場所も人も拡散して一般家庭に侵入を始めた。そしてインターネットが徐々に一般に浸透していく。

 ネット上にはありとあるとあらゆる欲望を具現化したサイトが登場するようになる。それまではテレクラまで足を運ばなければいけなかったのが、自宅にいながらいろいろな情報にアクセスできるようになる。またメールによって相手の時間を気にすることなく、連絡できるようになった。自分の書きたい時に書き、読みたい時に読むことができる。僕達はまた非常に便利なツールを手に入れたのだ。

 そして携帯電話の爆発的な普及により、何処にいても情報にアクセスできるようになった。もはや壁はほとんど取り払われ、好きな時間に好きな場所で取り出したい情報を手に入れ、発信したい情報を送り出す最強の手段を獲得することになった。

 人はもともとあくなき性的欲求を持っている。しかし、昔はその欲望を形にする手段がなかった。女の子の使用済みパンツがほしいと思ったとしても、手に入れる手段がなかった。それに高度経済成長時はまずは豊になることが目標であり、わき目をふるということがあまりなかったように思う。しかし、豊になってしまった今、もう目標はない。まわりを見回しても豊さに変わる別の価値観や目標が見つからない。僕達の関心は本来人間の持っている本能に集約され始めた。グルメブームなどもその一環だろう。そして、ふと辺りを見まわすと欲望を満たす手段があちこちにあることに気づく。

 女の子の周りには援助交際やブルセラでお金を手軽に稼ぐ手段が溢れている。当然、お金がほしいと思う女の子はそういったものに手を染める人も出て来るだろう。若い女の子と交際したいと思ったり、彼女達が身につけた物の匂いを嗅いでみたいと思う男性がいれば、その手段はいくらでもある、欲望の赴くまま行動するだろう。渋谷で小学生6年生の女の子4人が拉致されて、マンションの一室から見つかった事件もそれほど異常な事件ではないような気がする。

 人間が変わってしまったのではない。昔はただ、情報も手段もなく、それほど裕福でもなかったからやりたくてもできなかっただけなのだ。まずは豊になるという目標があったから、一時的に封印されていただけだったのだ。今、その目標もなくなり、封印は解かれた。情報化によりみんなの欲望が形になり手に入れる手段ができ、それがさらに情報として氾濫する。そして僕達の欲望は走りだし、やがて暴走になっていく。高度情報化社会とは欲望が剥き出しの野獣たちの社会なのかもしれない。(2003.8.5)




皆さんのご意見・ご感想をお待ちしています。joshua@xvb.biglobe.ne.jp

TOP INDEX BACK NEXT