私はこれまで会社を5つ変わっている。最初の会社を辞めた後、私はバイクで2週間くらいの旅行に行った。場所は信州だった。旅行先からは友人や家族、会社の元上司などに絵葉書などを出していたって「健康的な旅」だった。ちなみに今まで私が会社の中で尊敬できると思った上司はこの絵葉書を送った人だけだ。 家に帰ってきてからすぐに次ぎの仕事を探しはじめ、すぐに見つかった。これは会社を辞める前からの計画通りだった。まず、旅行に行き、帰ってきてからすぐに次ぎの勤め先を見つける。当時、何の迷いも疑問もなかった。そう、この時の旅行はただ単なる骨休め、気分転換くらいの意味しかなかった。いろいろと疑問はあったが、それはまだそれほど深刻ではなかった。 次ぎに辞めたときも当初の計画は前とほとんど同じだった。まず、旅行に行って、帰ってきてから次ぎの職場を探す予定だった。そして、これもほとんど予定通りに行くように思えた。会社を辞めた後、今度は車で2週間くらいの予定で旅に出た。東北・北海道と周り、日本の最北端の宗谷岬まで行って帰ってくるという予定だった。宗谷岬まではゆっくりと行って、帰りはダラダラせずに、できるだけ早く帰る予定だった。ところが宗谷岬まで行き、南下の旅が始まると何故か家に帰りたくなくなってしまったのだ。宗谷岬からの帰路はあっちに行ったり、こっちに寄ったりと遅々として進まない旅になってしまった。できるだけ長い期間、旅を続けたいために車の中での野宿を繰り返しお金を節約した。2週間くらいの予定は1ヶ月になってしまった。 旅行から帰ってきた私はもう会社で正社員として働くのは止めようと思っていた。それは会社で正社員として働くことが鬱陶しく、その頃読んだ本の中に‘会社なんて時間をかけて人の才能を潰していく所’と書かれた箇所があり、私も全くその通りと思ったからだ。そのことを当時、付合っていた彼女にいい、当分はアルバイトでやっていこうと思うと言った。そうするとそんないい加減なことではダメ、ちゃんと正社員として勤めるまで会わないと彼女に言い渡されてしまった。私は仕方なく、正社員の仕事を探し、まあまあ中堅の会社に採用された。しかし、私はその会社をわずか3日で辞めてしまい、長野の農家に住み込みでバイトすることになってしまった。 それは自分でも全く予想していなかった展開だった。職場に何となく馴染めず3日が過ぎ、翌日、会社に行く気が起きず風邪と偽って休んだ。書店に行って何気なくFrom Aを買って家で読んでいると、農家でのバイト募集がいくつか載っていた。私はかねてから自然の中で働きたいと思っていた。それまではいまひとつ決断できないでいたのだが、この時は急に東京を離れて働きたくなってしまったのだ。 親にそのことを話した。猛反対されると思っていたが、すんなりと納得してくれた。たぶん、新しい会社に勤めてからの私の状態に何かしらの危惧を持っていたのだろう。夜になり、From Aに掲載されていた長野の農家に電話をして決めてしまった。そして私は会社にお詫びの手紙を書き、それを投函して翌日に車で長野に向けて出発した。 長野に着いたその日の午後から畑で仕事をした。慣れない農作業のため、始めは体力的に辛くて仕方がなかった。朝も7時くらいから仕事が始まり、それまでの夜型の生活パターンとは全く違うため朝食などはほとんどとることができなかった。しかし、人間の順応性はすごいもので1週間も経つと体が慣れて来て何とかなるようになり、2週間がすぎると今までの都会の生活でほとんど食べなかった朝食もどんぶりでご飯をお代りするくらいになっていた。ようするにそれだけ食べないと体が持たなかったのだ。 農家では1日5食に近かった。朝食、10時くらいに菓子パン2つくらい、昼食、3時過ぎにおやつ、そして夕食、場合によってはこの後バイト同士で酒盛り…。昼の休憩は2時間くらいあり、高原の気持ちいい風が入ってくる離れのバイト部屋での昼寝はほんとに気持ちいいものだった。収穫したレタスのその場でパンに包み、ハムを挟んで食べたりした。特に真正面に大きく聳える八ヶ岳は雄大で仕事の合間によく見上げていた。仕事が早く終わった後などバイト同士で軽トラに乗り、畑のあぜ道をのんびりとドライブしたりした。精神的に豊な暮らしだったと思う。生まれて始めて何のストレスも感じないで仕事ができ、楽しいと感じた。まさしく私にとっての黄金の日々だった。 しかし、夏が終われば仕事はほとんどない。他の学生のアルバイトは8月末で、私も9月末にまた東京にと戻った。その頃、私はもう会社で働く気は全くなくなっていた。そして冬でも仕事があると聞いた沖縄に行こうと思っていた。しかし、この計画は親と彼女の大反対にあってしまった。彼女の方はまだ何とかなりそうだったが、親に泣かれてしまい、私はついに沖縄行きを断念して、東京で正社員として会社に勤め働くという親のいう「真っ当な暮らし」をすることにした。この時、私が沖縄行きを決断できなかったのは、母親の涙のせいだけではなかったような気がする。私自身にもやはり「真っ当な暮らし」をしていないと将来どうなるかわからないという不安が強くあったのだと思う。 幸にして仕事は見つかり、私は再び会社員になった。何の気なしに働き出したのがよかったのか、その会社では11年も働くことになってしまった。そしてこれは前にも書いたことだが、会社に居続けることが怖くなり退職をした。「真っ当な暮らし」が実は真っ当ではないのではないかと思い始めていた。 しかし、退職するとまた社会から取り残されてしまうのではないかという恐怖が襲ってきた。それまでは毎日々、判で押したような生活に嫌気がして疑問を感じていたのに、会社を辞めたら、毎日満員電車に積めこまれ揺られながら通勤し、忙しそうに働いている友人達を見るとうらやましく感じ、そういう生活をしていない自分が苦痛になったきた。そして、ついに耐えきれずまた正社員として再就職をしてしまった。 しかし、就職をしてしまうと前から燻り続けていた疑問がまた再燃してしまい、また離職した。しかし、離職をして無職になっても「真っ当な暮らし」をしていない恐怖はその力が衰弱してしまったようで、前のように強い不安感や恐怖心に囚われることはあまりなくなった。朝の通勤ラッシュを見てもうらやましいなどと思わなくなった。どうやら私にかけられていたマインドコントロールが弱まり、まともな状態に戻りつつあるのかもしれない。 始めて転職したとき、私の心はがっちりとマインドコントロールされていたように思う。会社を辞め、旅行に行ったが、それは次ぎの会社を見つけ、働くまでの息抜きという気持ちが強かった。息抜きが終わったらまた会社に勤めて「真っ当な暮らし」に戻るのは当たり前だった。2回目の転職の頃から私は徐々に覚醒してきたように思う。本当にいわゆる「真っ当な暮らし」に何の疑問もないのかと…。 私はいつの間にか正社員として会社で働くことが「真っ当な暮らし」であり、定職を持たない人ははみだし者という考えに支配されていたように思う。そうすると望むと望まざるとに関わらず、「真っ当な暮らし」でなくなると社会から取り残されたような感覚になり苦痛になる。しかし、一般企業で働くということは利潤の果てない追求であり、どんな美辞麗句を並べようとひいては金儲けでしかない。いかにして効率的にお金を稼げるかだけなのだ。そんなものにどれほどの意味があるのだろうか? そんなものにそれ以上も、それ以下も意味はない。しかし、いつの間にかその金儲けのためだけの集団に属して歯車になり、骨身を惜しまず働くことがもっとも賢い生き方であり、安心できる生き方になってしまった。まるでマトリクスの世界だ。 … 私達はほとんど無意識のうちに死体から抽出したピンクの液体で満たされた小さなカプセルの中に入れられ、線で繋がれてシステムに微弱な電流を提供するだけの存在になってしまったように思える。そしてその線が外されて現実が見えると不安と恐怖でいっぱいになる。そして現実を直視しないですむようにまたピンクの液体で満たされたカプセルの中に戻り線で繋がれ、マトリクスの世界に戻る。 … 正社員でないと不安になるのも、それは今まで植付けられてきた常識に心が縛り付けられてしまっているからだ。大切なのは素の自分、裸の自分に戻ることのように思う。よく、‘早く働かないとそのうち働くのがイヤになっちゃうよ’と友人から忠告を受ける。それはまさしくその通りなのだが、私は働くのがイヤになりたいのだ、会社に勤めることがイヤになりたいのだ。(もう十分イヤになっているけど…)もういやでいやで仕方ないという状態になりたいのだ。そこから出発しないと、またマインドコントールが復活してしまうような気がする。 もちろん、世の中このような青臭い考えで渡りきれるものではない。生きるためには最低限のお金は必要だ。私のように才能のあまりない人間がお金を得るためには、どんなかたちだろうと会社で働くのが一番てっとり早い。しかし、その時にどういう気持ちで働いているかということは重要だ。出発点さえ常に確認できていれば、体は縛られても心は縛られなくなるのではないだろうか? 好むと好まざるとにかかわらず会社を辞め、無職なって立ち止まると、それまで見えなかったものが見えたりする。そして死ぬまでにできるかどうかわからないが、本当に自分にあった生活が見つかり、それを手に入れられればと思う。今はこの世界がどんなところなのかじっくりと見ていたい、そう、マインドコントロールのとけるまで…。(2003.6.15) |