その猫は捨てられた猫だった。だけど、それは人間ではなくて、自分の親に忘れられてしまった猫だった。 発端はノラ猫が家の物置に子供を産んだことだった。当時、住んでいた家は一軒家で父はペンキ屋だった。物置には塗料の缶だとか梯子やいろいろな工具、スプレーを使うときのコンプレーサーなどが置かれて雑然としていた、その物置の天井に近い部分の壁が割れて、狭い空洞ができていたのだが、そこにノラ猫が子供を産んだ。 物置に行くと、子猫の鳴き声がたえずしていた。それから推測すると4〜5匹はいるようだった。うちの家族はとりあえず放っておくことにした。親猫は子供を産んだばっかりで気も立っているだろうし、別にそこに住みつかれても困ることはなかったからだ。僕は学校から帰ってくると真っ先に物置に直行して、子猫の鳴き声を聴くことが日課になっていた。だけど、鳴き声を聴くだけで決して梯子をかけて、その天井に近い空間を覗こうとはしなかった。 そんな日が数日続いたある日、いつものように学校が終わり猫の鳴き声を聴きに物置に行ったが、何も聞えなくなっていた。そのことを母にいうと、きっと引っ越してしまったんだろうと言われた。あの空間は子供を産むための産室のようなもので、もっと居心地のいい住処に行ってしまったようだ。親猫が子猫を一匹づつくわえて移動する姿が目に浮かんだ。 ノラ猫一家が引っ越してしまい、ほっとしたような寂しいような夕食をとり、茶の間で父が見ているナイターをいっしょにぼんやり見ていると、微かに子猫の鳴き声が聞えたような気がした。ノラ猫一家が帰ってきたのかと、僕と弟は裏の物置に走った。うちの物置は独立した建物ではなく、茶の間のちょうど裏にあった。物置に行くと確かに子猫の鳴き声が聞こえた。だけど、それは数匹で鳴いているといった感じではなく、一匹だけのか細い声が聞えているだけだった。僕は梯子を用意して、壁に立てかけて上り、壁が割れてそこにできている空洞を覗きこむと、子猫が一匹だけ取り残されていた。 早速、このことを両親に相談するとそのうち親猫が取りに来るから、放っておけと言われた。しかし、翌日になっても物置にはそのような気配は全然なく、ただ子猫の悲しそうなか細い鳴き声が時折聞えるだけだった。そしてこのままでは飢え死してしまうということで家で飼うことになった。 物置に取り残された子猫は茶と白のトラ模様で首もすわっていないで、すぐにでも壊れてしまいそうだった。慎重に掌で包むとか細い声で何かを訴えるように鳴いていた。まだ固形物が食べられなかったので、スポイドでミルクを与えて育てた。学校から帰ってくると真っ先に子猫のところに行って様子を見た。オスだった。名前はタンコロとつけた。何でそんな名前をつけたのか、今は記憶がない。たぶん、ゴロがよかったからだろう。 始めは弱々しく、すぐにでも壊れてしまいそうなタンコロだったが、順調に成長していった。僕と弟に毎日触られて育ったせいか、何をしても怒らない猫になり、それは他人に対しても同じだった。僕は猫はみんなタンコロのように穏やかな動物だと思い、親戚の家にいる年寄りに育てられた猫に触ろうとして、威嚇された時はびっくりしてしまった。他の猫も威嚇まではいなかなくても、警戒して逃げてしまう猫がほとんどだったので、あらためてタンコロの性格の良さが気に入っていた。弟は「タンコロの歌」を作詞・作曲してひとりでよく歌っていた。 ただ、タンコロを一番可愛がっていたのは母だった。食事も家族とほとんど同じものを与え、ときにはタンコロ特性のメニューだったりして、僕は軽い嫉妬を覚えたりした。したがってたまに市販のキャットフードを買って与えてもあまり喜ばなくなってしまい、家族が食べている物をほしがった。そうすると必ず誰かが与えていたため、タンコロは始めの弱々しさが嘘のように立派すぎる体格になってしまい、毛並みも輝いていた。 飼い始めて1年を過ぎた頃から外遊びがだんだんと激しくなっていった。1日に1回食事に帰るとすぐにまた何処かに出かけてしまう。ある日、裏の家からうちの猫がヒヨコを襲ってかみ殺してしまったと苦情がきた。普通なら形だけでも謝るのだろうが、うちの母はむきになってしまい、猫が動くものに興味を持つのは当たり前の習性だと言い、猫がいるような場所で遊ばせる方が悪いというようなことを言い、お宅の不注意だと言った。裏の家の奥さんは憤慨して帰っていった。 タンコロはのんびりした猫であまり俊敏な動きはできないと思っていたが、よくセミをとってきた。そしてそれを僕や母の前において誇らしそうにしていた。どういうつもりだったのだろう。いつも世話になっているから、贈り物のつもりだったのかもしれない。たまにケガをして帰ってくることもあった。背中に噛まれて血が固まったような痕があったこともあったし、片目が腫れてしまいほとんど開かなくなってしまったこともあった。僕が目のふちを指で押すと黄土色の臭い膿が出た。そんなときは2〜3日家でゆっくりしていた。 2年目を過ぎると家にいることはほとんどなくなっていた。1日に1回は帰って来ていたのが2〜3日に1回になり、それがやがて1週間に伸び、そのうち2週間に1回くらいしか帰ってこなくなった。それも帰ってきてエサを食べるとまたすぐに何処かに出かけてしまう。グルメのタンコロのことだから、残飯をあさって食べるなどということはあまり考えられなかった。性格が穏やかで誰にでも慣れてしまうタンコロだったから、おそらくうちの他に何処かの家でもエサをもらっていたのだろう。2週間というサイクルを考えると4〜5軒あるいはそれ以上の家で飼い猫の役割を演じていたのかもしれない。そう考えると全くヤクザなとぼけた猫だった。 帰ってくる期間はどんどん延びてある日を境に全く戻って来なくなってしまった。車に轢かれたのではないかとか、病気で動けなくなっているのではないかと母と僕と弟は近所を探したけど、タンコロを見つけることはできなかった。飼っていた期間は3年弱だった。まだまだ寿命が尽きるには早過ぎる。家族の中では車に轢かれたという説が有力だった。だけど、僕はタンコロが何処か大きな家に入り込んで可愛がられているような気がした。死体は見つかっていないのだし、そう考えたほうが楽だった。そして、またセミでもとってそこの家の家族の前に差し出しているタンコロの姿を想像した。(2003.6.5) |