昨年の暮れ、友人達と忘年会を開いた。ここのところ集って飲むことはあまりしなくなっていたのだが、僕が会社を辞めることになった昨年の9月に飲み会を開き、その時に参加できなかった何人かが、もう1回機会を作ってくれということになり、それだったら暮れのこの時期にしようということになった。 その頃、僕は精神的にちょっと不安定な時期でもあった。自分なりの生活を楽しむために会社を辞めたのだが、自分の気持ちの弱さと周囲の雑音によって、自分のやりたいことをやるといった気持ちは何処かに飛んでしまい、社会から取り残されてしまうのではないかという恐怖に苛まれるようになっていた。 会社を辞めた後はアルバイトをして必要なお金だけを手にして、残りの時間は全部自分の好きなことにあてようと思っていた。さらにしばらくの間は退職金も失業保険もあるから今まで行きたくても行けなかった冬の北海道に行って流氷を見たいと考えていたし、さらには沖縄に行ってしばらくキャンプ生活でもしてみようかなどと夢想していたのだ。 しかし、この忘年会の時期にはそういった気持ちではなく、とにかくある程度安定した会社に就職をしなければいけないという気持ちに僕の心は追い詰められていた。だから何をやっても楽しくなかった、あれ程好きだった競馬をやってもいまひとつ気が乗らないといった状態で精神状態はかなりの重症だった。 そんな中での忘年会だったが、人に会うことだけは苦にならなかった。というか、むしろ積極的に人を求めていた。だから、その日は日中からかなり入れ込んで、早くみんなに会って酒を飲みたいと希求していた。ただ1つイヤだったのは「今、何しているの?」と今の状態を訊かれることだった。 例えばよく会う友人や恋人から夜に電話がかかってきて「今、何してんの?」と言われれば、「本を読んでいた」とか「TVを見ていた」とか「食事の最中」とかその時の状態を伝えればいい。しかし、数ヶ月に一度くらいしか会わない友人と待ち合わせて食事をとったりする時に「今、何している?」と訊かれれば、それはどんな仕事をしているのかということなのだ。だから「最近、あるプロジェクトに回されて会議ばっかりだよ」とか自分の仕事を説明することになる。しかし、会社を辞め何の仕事もしていない僕はそれに答えることができない。 忘年会ではやはりそのことを訊かれた。これはむしろ当然といっていい。だって、前の飲み会の時、これから会社を辞める状態だったのだからその後どうなったのか訊くのが当たり前なのだ。むしろ、それを訊かれないということはみんながよっぽど無関心か僕に気を使っているかのどちらかなのだから…。 しかし、訊かれるとやはり心には小さな痛みが走る。みんなはそれぞれ仕事を持って毎日忙しく暮らしているのに、それに対して何にもしていない自分が酷く劣った存在に思えてきてしまう。いたたまれない気持ちというのはこういうことをいうのだろう。
こんなときは変にごまかすよりも正直に言ったほうが惨めにはならないと思い、 お金にならないこと、非生産的なことは価値のないことと刷込まれていたのかもしれない。仕事をしている以外の時間は余暇と呼ばれる。余暇とは生産的な仕事、お金になることをするための時間の余りなのだ。 小学校くらいから余暇の過ごし方が重要とかの刷込みが行なわれている。したがって勉強している時間以外は余暇ということになるらしい。だけど、子供の本業は遊ぶことなのだ。勉強なんて刺身のつまみたいなものだと思う。 しかし、こういった教育を受けているうちにいつしか僕はお金になることにしか価値を見出せなくなっていたのかもしれない。確かに仕事は大事だが、生活の一部でしかない。それがいつしか全部を覆い尽くすほどの価値観を持ち、お金をどれだけ稼いでいるかによってその人間の価値を判断するようになってしまった。 もういい加減にこういった価値観から脱却しないといけない。人生に余暇などない。すべての時間の価値は等価なのだ。家でごろごろしていようが、会社で仕事をしていようがどっちの時間に価値があってどっちの時間は価値がないとは簡単にはいえない。ごろごろしている時間に何かが生まれる場合もある。 それに時間を持て余すようになって始めて見えて来たり、聞えて来たりするものもある。僕は暇だからよく散歩をするが、忙しなく働いていた頃には気づかなかった風の匂いだとか、陽の暖かさを感じるようになった。何より散歩は私に内省的な時間を与えてくれる。音楽を聴いても胸に染み入るように音や詩が自分の中に飛び込んでくる。こういう感覚は以前あまりなかった。精神的な不安さが心を弱らせているのかもしれないが(^^;
今度また飲み会があり、その時までにまだ就職していなくて、
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