三峡下りの旅

                           1996・8/15〜8/22



三峡下り

松尾芭蕉が片雲の風に誘われて、漂泊の思いやまず、さすらいの旅に出かけたように、私も夏休みを前にして、「今年は旅しないの?」と道祖神がしきりに誘うのであった。そうなると、心が落ち着かず、かねてから思っていた長江三峡下りの旅に出かけることにした。実は2009年の三峡ダム完成をめざして、来年の11月から堰止めが開始されるのだ。そこで水没する運命にある三峡の風景を心に焼き付けておきたかった。と同時に、10年前には立ち寄ることができなかった張飛廟・白帝城・屈原廟にも、機会があれば是非訪れたいと思っていたからだ。「もう三峡下りも今年が最後だから・・・・・・」 妻の許可を得るのに訳はなかった。



 最近の中国は近代化の波が押し寄せている。飛行場に降り立つと、大陸のにおいとでも言おうか、独特のにおいがしたものだが、訪れるたびにそのにおいが薄らいでいくのが何とも残念だ。決していいにおいとはいえないが、私はあの(五香粉のような)においに中国を感じ取っているのだ。台風12号の通り去った8月15日、広州から入り、その日のうちに重慶まで飛ぶ。



スルーガイドの蒋さんに、「初次見面。請多関照。(初めまして。どうぞよろしく)」とおきまりの挨拶。ここから3泊4日の船旅が始まった。この4日間は日本の慌ただしい時の流れが慢慢的(ゆっくりと)流れる。時も心も・・・・・・。この気分は最高である。とにかく旅に出たらその土地の流れに自分を合わせることだ。











今回の船は中国郵政の“中驛号”(1450トン)で、部屋もホテル並でグッド。しかし、早速のハプニング。何とトイレットペーパーがないではないか。(でもトイレがあるだけましか。とにかく中国で完璧を求めては駄目)おまけにこの服務員は英語がもう一つ通じない。「請給我手紙」何とか通じた。中国語では「手紙=トイレットペーパー」なのだ。語学は本当に必要に迫られないと、つまり使わないと上達しないことを改めて感じた。








1日目は広く悠揚とした長江の船旅を楽しむ。沈みゆく夕陽はまさしく山水画の世界そのもの。2日目は下船し、三国志で名高い張飛廟へ。ダムが完成すれば200メートル水位があがるので水没してしまう。やがて別の場所へ移されるそうだ。





そして瞿塘峡にさしかかる頃、山の上に劉備を祀った白帝城が見えてくる。450段余りの石の階段を30分かけて登る。その横を往復200元(2700円)で請け負ったかごかきが汗だくだくで通り過ぎる。しんどいがぼろい儲けだ。この道をあの李白も登ったのだ。そう思いながらやっと辿り着くと、入り口に「早に白帝城を発す」の石碑が立っている。汗びっしょりになりながらも、さわやかな風が吹き抜け、疲れもしばし忘れることとなる。この時ばかりは冷えていないミネラルウォーターも美味しかった。













白帝城を過ぎると、8キロほど瞿塘峡が続く。両岸は断崖絶壁、しかし「両岸の猿声啼きやまざるに」と詠われた面影は今はない。雄大な景色の後は、比較的穏やかな巫峡が44キロ続く。山水画を描く才を持ち合わせていないことを悔やむ。いつも思うことだが写真におさめてもそのときの感動は伝わってこない。全身ゾクゾクするような感動を得られるのも旅ならではだ。










3日目は楚の憂国詩人、屈原の故郷で下船。屈原記念館を訪ねる。やがて三峡下りのクライマックス、西陵峡に入る。全長76キロの最も長い峡谷。途中、中国四大美女の一人王昭君の故郷、香渓を通過し、その後現在三峡ダムの工事が行われている現場も見ることができた。
















かつて毛沢東が視察に訪れ、かねてからの計画がいよいよ本格的に開始される。付近には近代的な工場が建てられ、ひとつの新しい町が建設されつつある。13年後の三峡下りでその変貌ぶりをこの目で見てみたいものだ。










いよいよフィナーレの葛州覇ダムを通過。上流、下流を行き来する船が、ここを通過する際には、水位調節が行われる。かれこれ1時間近く待っただろうか、二つの水門を閉じてロックされたゲートの中で、水位が短時間に20メートル前後上下する様子はとにかく圧巻である。そして宜晶を抜け、沙市までの全長700キロ近い3泊4日の船旅は、まさしく三国志・漢詩の世界を髣髴とさせる旅であった。
その日は沙市で停泊し、翌朝バスに乗り換え、更に荊州故城・赤壁・黄鶴楼・岳陽楼を巡る旅は続いた・・・・・・・。









下船し、かつての江陵の町にある唐代に建てられた州故城を訪れた。そして孫権と劉備の連合軍が曹操の戦船を大敗せしめた赤壁に立ち寄ったが、6月の洪水で岩壁の「赤壁」の文字は見ることが出来なかった。









武漢の町のシンボルは何と言っても黄鶴楼。漢詩でも登場する江南三代名楼の一つである。蛇山に聳え、楼閣からは長江が一望できる。三国時代、呉による建立と言われるが、その後数々の修復が繰り返され、現在の建物は1985年に再建されたもの。中はエレベーターが設置されている。黄鶴楼には鶴にまつわる伝説が数多く残されている。















岳陽は洞庭湖に面する小都市で、李白や杜甫、白居易らが詩を吟じた有名な岳陽楼がある。前には洞庭湖が広がり、折しも落日が湖面に当たり、いやが上にも旅情をたたえていた。












次に1970年代に2000年前の夫人のミイラが発見され脚光を浴びた長沙の町に入った。秋の紅葉が美しいと言われる景勝地愛晩亭を訪れた。毛沢東の題辞がかかっている。











広州に戻った我々は、お決まりの中山記念堂・陳氏書院をまわり、8日間の中国の旅を終えた。