小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会トップ

もう犠牲を出さないために

東京過労死を考える家族の会 中原のり子
1979
年、北里大学薬学部卒。
同年小田原市立病院薬剤部に所属し中原利郎と出会う。

現在銀座楽天堂薬局勤務。
東京過労死を考える家族の会。過労死遺族「心のケア」を考える会に所属
全国の保団連・医師会からの依頼を受けて本年1月より講演活動を行なっている

<要旨>
夫の遺書に書かれた小児医療の問題点の改善に取り組んでいる
医師の当直は、過重労働の温床だ。当直は夜間勤務であり労働であることを明確にしなければならない。
○医師の過重労働は、医師の健康だけでなく患者の健康も脅かす。

「小児科医師・中原利郎先生の過労死認定を支援する会」 http://www5f.biglobe.ne.jp/~nakahara/ を発足し、支援を募っている。

●夫の突然の死

  中原利郎は、東京の下町で生まれ私立開成高校を卒業後千葉大学に進学し小児科医師になりました。子どもが大好きで、子どもと関わる仕事の小学校の先生か小児科医師になるのが小さい時からの夢だった、と聞いていました。夫・利郎は、生真面目なとても快活な礼儀正しい人でした。

  都内の病院に赴任当初、当直体制は内科・小児科共同で月2〜3回、21時以降自宅待機が月4〜5回で、比較的緩やかな勤務体制でした。しかし96年4月から常勤医師6名で小児科単独の当直体制が始まりました。東京都の夜間診療と乳幼児救急当番も受けるようになり、深夜の急患も多くなり、厳しい当直体制になっていきました。

  99年の1月に6人いたスタッフが定年退職や転職で4月には3人に半減することになりました。定年退職者の部長の後任に中原が部長代理になり、大きな責任を背負う事になりました。3月には8回に及ぶ当直があり休日は2日でした。疲労は、その月を境に眼に見えて彼の心身をむしばんでいくことになったのです。その年8月16日朝6時40分、中原利郎は、真新しい白衣を身にまとい、勤務先の病院の屋上にそびえ立つ、病院名の書かれた煙突の上から投身自殺しました。享年44歳でした。

「少子化と経営効率のはざまで」

  夫の死後、小児科部長室執務机の上に「少子化と経営効率のはざまで」と横書きされた便箋3枚が置かれていました。夫の突然の死に「そんなことがあるわけが無い!」と混乱する中で、この文書を読み「嗚呼、夫はこの遺書を多くの方に読んでもらい、過酷な小児医療の現状を訴えたかったのだ。それを伝えるのが私の努めなのだ」と思いました。

  疲労困憊する中、よく口にしていた同じ言葉が、そこには綴られていました。遺書といっても、ここには個人的な事情や感情についてはほとんど何も書かれておりません。表に整理しましたような、小児医療が直面する問題点ばかりが、書かれています。

労災申請

  先ず夫は働きすぎで命を落としたことを証明してもらおうと考えました。2001年労働基準監督署に労災申請しました。しかしながら「業務に起因する疾病とは認めない」という事で、2003年3月不支給決定がおりました。そこで2ヵ月後に都労働局に再審査請求を求めました。しかし2004年3月に審査官から「審査請求棄却」の書類が届けられました。そこで5月に日本全国を管轄する労働保険審査会に再審査請求しました。そして、審査会の決定を待たず労基署の決定を変更させるための行政裁判を提訴しました。

  労災保険の支給申請とは別に2002年12月、勤務先の病院に管理責任を問う損害賠償訴訟も提訴しています。両裁判の判決は、もう間もなく判決が下される見通しです。

当直の労働性

  何故、夫の死が業務に起因しないのか。労働基準監督署に決定理由を聞きに行きました。その時に分かった事は、「当直は労働時間と認められない」という事実です。これを知った時は大変驚きました。そして、月8回の当直は、長時間勤務でも、また過重労働でもない、との説明を受けました。私は「それなら月に何回以上当直をしたら過重労働になるのですか」と尋ねました。でも、説明にあたった監督官は無言で返事をしてくれませんでした。実態を理解しない理由を持っての判断は納得できません。

  労働法規で「当直」という言葉は、ほとんど労働実態のないことを前提にした留守番としての宿泊業務をさしているのです。労災認定や裁判では「当直だから」勤務時間にカウントしないという理論が平気で主張され、まかり通っているのです。

  一般的な労働者は、残業時間が月100時間を超えたら労災認定されるケースが多いのですが、医師の当直は労働時間とは認められないため残業時間にも算定されないのです。

  
EUの最高裁では、医師の待機時間も勤務時間である、という判例がすでに出ています。またアメリカでは、3年ほど前、研修医の労働時間が週80時間までに制限されました。その結果、医療事故が減った、という研究報告がされています。日本でも、患者さんの安全を守るために、医師の労働条件をきちんと法的に整備する時期に来ているのではないでしょうか。

医師・歯科医師の労災申請

近年、医師の過労死が増え、労災申請されるケースが多くなっています。この表は、私が知りえた限りで、医師・歯科医師の過労死・過労自殺が労災申請された例を一覧にしたものです。

1番の茨城の外科医師の労災認定には、死後13年の月日を要しています。時間外労働は、平均すると月170時間が算定されました。この先生は「動機は、毎日の生活に心も体もつかれ、精神的に参ってしまい、休息したいということです」最後のメモに遺し自宅で亡くなりました。

 3番の女性小児科医は、夫の遺書にも記載されていますが、夫と同窓の方です。この女性小児科医と同僚だった千葉康之先生という方は、この過労死事件をきっかけに、医師の過重労働の研究に取り組んでおられます。千葉先生が書かれた文章を御紹介します。

『宿直中にクモ膜下出血で意識不明となり、2週間後に死亡するという事件が起きました。その時のことは今でも鮮明に私の脳裏に焼き付いております。意識も呼吸もなく気管内挿管をされ人工呼吸器に固定され、見る影もなく痩せ細った姿は、誠に見るも無残でした。これが小児医療に全精力を捧げた挙げ句に、過重労働にさいなまれた医師の成れの果ての姿なのかと虚しく、怒りさえ覚えました。 

最近では、医療事故の防止や職員の健康管理の面からも改善の必要性が認識され始めております。』

この表は、千葉先生が、学会で発表されたものです。医師の過労、特に当直による睡眠不足は、医師の過労死などの労働災害に結びつくだけでなく、医療過誤の温床となり、交通事故などにも結びつくことを、示しています。医師の命を守るためだけではなくて、患者さんの命を守るためにも、医師の過労、睡眠不足を防がなければならない、ということなのです。医師の超人的な努力により医療事故が発生しなかったとしても、あまりの心身への負担の結果、医師自身の健康が破壊され悲しい結果のデータは、これ以上不要です。

●小児科学会と国の政策の動向

  小児科学会は、本年4月23日に開かれた日本小児科学会学術総会で、「小児医療のグランドデザイン:小児医療改革のまとめと今後の展望」と題したシンポジウムが開かれ、ここで小児科医のストレス調査の結果が発表されました。多くの小児科医の先生が共通して感じている職業性ストレス要因は、@際限のない責任、A慢性的な緊張感、B就労時間のあいまいさ という結果でした。

大学附属病院勤務医の第一位は余暇の少なさ

一般病院勤務医の第一位は際限のない責任、

診療所勤務医の第一位は慢性的な緊張感でした。

  国の政策としては、医療制度改革の審議がなされました。野党は、今年を医療崩壊元年になるのではないかという危機感をもって、医療の安心・納得・安全法案の議員立法の確立を目指しました。小児医療はもちろん、産科医の減少による医療事故や撤退。偏在的な医師不足・過重労働による医師の集団退職の問題を掘り下げて審議されましたが、あっさりと医療費抑制政策が通って幕を閉じました。

今年4月6日、衆議院本会議では代表質問の中で、中原の遺書「少子化と経営効率のはざまで」の一部が小泉首相・川崎厚生労働大臣の前で読み上げられました。

厚生労働委員会では、川崎大臣に危機的な小児救急医療の現状について、中原の事案を挙げながら勤務医の勤務条件の抜本的な改善が必要だと提言されました。

中原の遺書が、与野党の政争の道具にされるのではなく、日本の小児医療を良い方向に変えていくための超党派の動きのきっかけになることを、願ってやみません。

小児科医師・中原利郎先生の過労死認定を支援する会

2003年の3月、「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」立ち上げて頂きました。労災認定を求める11703名分の署名を2004年1月に東京労働局に提出しました。適正な裁判を求める署名は13686筆を2005年10月公判開始直前に提出しました。厚生労働大臣宛に小児医療改善を求める署名は、全国から2万筆を越える膨大な束となって、直接手渡すチャンスを待っている状態です。支援の会の会員数は現在280名になり、HPのアクセスはのべ4万件になりました。

また、支援の会から前・尾辻厚生労働大臣に対して3点要求しました。

1、医師が病院で「当直」と称して担っている役割は労基法が想定している「当直」ではなく、夜間の勤務であり労働に当たることを明確にしてください。
2、過労自殺の認定基準に用いられている心理的負荷表は、医師が日常的にさらされている強度の負荷を評価するのに適切ではありません。医療のような特殊な職場での心理的負荷を正当にする仕組みを作ってください。
3、独立法人化された旧国立病院・国立大学病院では、労基法の趣旨に沿った医師の労働が労基法によって指導されていると伺っております。過去の労災についてもこうした趣旨に則り、早期に労災の認定がされるようにしてください。

●妻として母として

医師の自己犠牲精神だけに寄りかかった医療はもう限界だと思います。夫も亡くなるまで、子どもに「医者にだけはなってくれるな」と言い続けていました。その言葉に反して、医学部に進学した長女が、この春研修医として羽ばたき始めました。目指すは小児科医師だと申します。夫の命を奪った小児医療の現場に、母として娘を送り出す気持ちは、言葉では言い表せません。私たち家族のような思いを、今後二度と誰も味あわずに済むように、そして心ある若者を、安心して医療の現場に送り出すことができる社会に変えて行けるように、これからも活動してまいります。

●参考文献

1)鈴木敦秋「小児救急『悲しみの家族たち』の物語」
2)「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」

       http://www5f.biglobe.ne.jp/~nakahara/
3)「シンポジウム 小児医療を考える 大丈夫!? こどものお医者さん」http://www.bb.e-mansion.com/~kuki/
4)月刊保団連 2006年2月号 「小児科医の遺言状」
5)川人博「過労自殺と企業の責任」

小児には発達があり未来がある
  

小児科研修医 千葉 智子1982年、中原利郎・のり子の長女として千葉県に生まれる。
2000年3月光塩女子学院高等科卒業。2006年3月昭和大学医学部卒業。

2006年4月地域医療振興協会 神奈川県横須賀市立うわまち病院勤務。


  この春、大学を卒業し4月から横須賀市立うわまち病院で初期臨床研修を始めました。現在は1ヶ月の地域研修ということで、六ヶ所村の尾駮診療所に来ています。外来や検査などをして、地域医療の現場で必要な知識と技能を磨いています。

  
しかしここまで至るのには、紆余曲折があり、そのことについて書き残しておこうと思います。

  
私は昭和571月22日、小児科医の父・利郎と薬剤師の母・のり子の長女として生まれました。愛情いっぱいに何不自由なく成長したのですが、小学校にあがる直前に腎機能が少し悪かったことがありました。その時に父の診療を受けました。本来ならば入院治療が必要なところだったようですが、父の配慮の下、外来治療で済みました。その時の父の姿が非常に印象的でした。父が私の細い血管から採血する時、始めに「ちょっと痛いけど、10数えるうちに終わっちゃうから一緒に数えようねー」と言いました。そして泣いて怖がる私の体を押さえる看護師さんと3人で、数を数え始めました。

  
「いち、に、さん・・・」
  
それまでは順調でした。しかし、
  
「は―ち―、きゅ―――・・・」
  
となかなか終わりません。今考えると、注射針が少しずれて再び血管を探していたのだと思いますが、数秒して「はい、じゅう――!!」と無事に終了しました。その時に、3人で笑いあいました。不安でいっぱいだった私の心は一気に溶けました。帰る時も、父がスタッフの方々と話しをしている姿をみて、きっと周りのスタッフ、そして、患児とその家族から信頼されているのだろう、と感じたことを今でも覚えています。

  
高校3年になって、進路の決定をする際、このような自分の経験もあって医師を目指そうと思い、両親に相談しました。その時に父から「医者なんてろくな職業じゃない!」と強く反対されました。そこで父が小児科医として充実した日々を送っていると思っていましたが、日々の業務に過度のストレスを感じて疲労しているのだと感じました。それから進路について相談することが怖くなり、目標はとにかく勉強する日々が続きました。

  
そしてその夏、久しぶりの家族5人そろった旅行から帰ってきた翌日に、父は帰らぬ人となりました。医師という人の命を救う立場の人間が自ら命を絶つ、当時は許せない気持ちでいっぱいでしたが、そうせざるを得ないくらいに精神的に追い詰められていたのでしょう。受験勉強まっさかりの時期にこんなことがあり、自分自身の進路について母に相談しました。すると 「智子のしたいようにしなさい。お医者さんを目指す、といっても私は賛成はしないけど、応援はするから!」このように言ってくれました。

  私は、医師の労働条件を整える為に厚生省で医系技官として働きたいと思いました。それからは、一心に勉強しました。何かに一生懸命に取り組んでいないと心が壊れてしまう気がしていたからです。


  
春、医学部に合格し、部活とバイトに明け暮れる毎日で、3年生までは臨床にそんなに興味がありませんでした。しかし小児科の系統講義の際に、当時の小児科教授の語った「小児には発達があり、未来があり、病気が治る可能性がある」という言葉で、私の気持ちが大きく変わりました。父が命を削ってまで小児科医として頑張っていた原点を見たような気がしたのです。小児科医は子供たちの長い未来を作ってあげられるのはないか。。。

  
私は、地域医療振興協会に所属し、横須賀市立うわまち病院で初期臨床研修を受けています。父は、地域の中学の校医として、またサッカーのコーチとして地域に溶け込むように小児医療を行っていました。その姿を思い浮かべながら、地域医療、小児医療についても考える毎日です。小さな診療所には、子供からお年寄りまで様々な年齢層の色々な疾患の方々がみえます。その方々それぞれにベストな医療を提供できるように、そして私が医師になることを生前には認めてもらえなかった父に、医師として生きていくことを認めてもらえるように日々勉強しています。研修医になって思うことは、やはり患者さんとの対話の大切さ、です。相手が何を思っているか、そのことを常に意識しなくてはならない、ということです。

  
一日一日を大切に、素敵な医師になれるように頑張っていこうと思っています。

「月刊保団連」2006年10月号掲載

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