何もない空間を、クラウドの身体はゆっくり舞い降りていく。微睡みの中にいるのか、穏やかな顔は目を閉ざしていた。
何処までも果てしない空間を降りていく内に、徐々に俯いていた姿勢が仰向けへと変わっていく。そして完全に仰向けの状態になったとき、地底に辿り着いたかのように落下が止まった。
クラウドは瞑目したまま、ベットの上で眠りに就いているような体勢で中空に漂う。時間の流れが感じられない、ただ不変に存在するかのような空間の中、クラウドはただ一人存在していた。
一瞬とも、永劫とも、どちらとも感じられる時間が経った頃、不意にクラウドの傍らに二つの存在が姿を顕した。
どちらもまだ若い人間の姿をとり、一方は栗色の長い髪の女性、もう一方は奔放に跳ねる黒髪の青年だった。
二人はクラウドの傍らに音もなく歩み寄るとその顔を覗き込み、再生が無事済んでいることを確認して互いに微笑みあった。もう皆の元に帰しても大丈夫だと判断した二人は嬉しそうに微笑みあった。
女性が一歩クラウドに歩み寄り、目覚めを促すようにそっとその秀でた額に手を載せた。
手の感触に促されるように意識を取り戻したクラウドは、手の平から伝わってくる優しい波動に慕わしさを覚え、無意識のうちに言葉を紡いでいた。
【母さん・・・?】
その波動はクラウドの心身を優しく慰撫し抱擁する。
【また! 何度目かな 母さんって呼ばれたの】
クラウドの呼びかけに少し反発を覚えた女性は、苦笑混じりに背後に佇む青年へ振り返り、口を軽く尖らせる。自分はまだまだ若いのに、どうして誰も彼もが自分を母と呼ぶのだろうかと少し憤慨する。
青年は少し苦笑いを混ぜながらも優しく笑みを浮かべ、
【いいじゃないの 慕われて】
そんな軽口を返してきた。
二人のやりとりを耳にしながらも、クラウドはその目を開けることは叶わなかった。せっかく二人に再会できたのに、その姿を一目でも良いから目にしたいのにと思うのだが、身体は頑なにそれを拒む。
女性は頬を少し膨らませ、青年からそっぽを向いてしまう。乙女心を理解してくれない青年に対して、少しだけ腹立ちを覚える。
そんな女性の様子に青年は軽く肩を竦めるだけで、特に言葉を紡ごうとはしなかった。
女性は再びクラウドへと視線を戻し、改めて眠っているようなその姿をじっと見つめる。
【こんな大きな子 いりません】
この場にこのまま留まって欲しいけれども、それはしていけないことと、女性は己を誡める意味も籠めてそう呟く。
【残念 おまえの居場所 ここにはないってよ】
青年も女性のそんな思いを理解し、軽口にしてそれに応えた。
二人のそんな会話を最後に、再びクラウドの意識は闇に飲み込まれていった。
二人の目の前で、クラウドの身体がゆっくり下降し始めた。
女性の新緑の瞳が、それを切なそうに見送る。
それを見ていた青年は無言のまま女性の元へと歩み寄り、その肩をそっと抱き寄せた。
クラウドが在るべき世界へ戻っていくのを、二人はただ黙って見つめていた。
◇
クラウドの下降が不意に止まり、やはり何もない空間のただ中に放り出された。
どこからともなく灰色の大きな狼が姿を顕し、眠りに就いているクラウドの左肩に鼻面を軽く押しつけた。
クラウドが小さくうめき声を上げるが、意識を取り戻す気配はない。
それから何度か狼はクラウドの臭いを嗅ぐように鼻面を動かしたが、やがてすうっとその姿が消えていった。
狼の姿が消えると同時に、クラウドは心にずんと重い物が入り込んできたような感触に襲われ意識を取り戻す。
自分のために命を懸けてくれた二人に対する、慕わしさ、罪悪感、後悔の念、実に様々な思いが胸にあふれ出すのを感じた。それは長らくクラウドが目を背け遠ざけてきた数々の思い、心の一部を封印することでなかったことにしてきた重くつらい思いに違いなかった。
それが今総て己の心に帰ってきたことを、クラウドは実感していた。
不意に、温かい幾つもの手が自分に触れていることをクラウドは理解した。ゆっくり目を開けてみれば、視界に数人の子供たちの姿が映る。そして自分の身体が水の中に漂うように浮いていることを自覚した。
「お姉ちゃんがね クラウドがここにくるからって」
利発そうな目をした少女が、そんなことを話しかけてきた。
クラウドは少し戸惑い気味に身体を起こして周囲を見回してみれば、其処はあの教会の中だった。
「おかえりなさい」
不意にそう声をかけられ、声のした方を見遣れば、ケット・シーを抱えたマリンがはにかんだ表情を浮かべていた。
カダージュと闘いを繰り広げている最中立ち寄ったとき床から溢れだした水が、今ではちょっとした大きさの池を形作っている。その池の淵、教会の入り口から入って一番近い淵に仲間たちの姿を、蒼い瞳が認めた。
クラウドの無事な姿を認めた仲間たちは、よくやった、無事で良かったと、それぞれ頷き嬉しそうに顔を綻ばせていく。
一時は諦めていた己の生還を噛みしめながら、クラウドは強い眼差しを皆に注いだ。
「ただいま」
自然にそんな言葉が洩れた。そう言うことが出来ていた。
不意に人語を解する不思議な獣の一族であるナナキが傍ら進み出てきて、
「まだ星痕が消えていない子もいるんだ」
ティファの後ろに隠れるようにして佇んでいる少年の存在を示唆した。
「ああ」
それに気づいていたクラウドは深々と頷き、少年を迎えるべく腰まで届く水の中を皆のいる場所へ歩み寄っていく。
自分の後ろに隠れて出てこようとしないデンゼルを、ティファはそっと優しく押し出し、両肩に手を添えた。
「さあ 治してもらうのよ」
耳元に温かく囁きかける。
それでも少年は勇気が少し足りないのか、表情を強張らせたまま立ちつくしていた。
やっと二人の元に辿り着いたクラウドは、少年を誘うように右手を差し伸べ、
「もう 大丈夫」
総ての不安は取り除かれたのだと、少年を元気づけるように言葉を紡ぐ。
「頑張って」
それを証明するように、ティファが囁きを重ねる。
それで決心がついたデンゼルは大きくこくりと頷くと、クラウドの方へ一歩足を踏み出した。
緊張のあまり身体を硬くしている少年をできるだけ優しく両手で抱き上げると、クラウドはそのままその身体を水中へと下ろす。不安を拭い去れないのか、少年の顔は少し青ざめているのを、クラウドは認めた。
一刻も早くそんな少年に笑顔を取り戻してやりたくて、クラウドは両手で水を掬いとりそれを少年の頭上からふりかけた。
その水が予想以上に冷たかったのだろう、デンゼルは身体を竦ませた。そして水の降りかかったところを庇うように両手を頭にやった。その手のなかで、星痕が緑光とともに薄くなり消えていった。
常々額に感じていた違和感が消え失せていったから、忌々しい黒い痣は消えたのだろうと理解できるのだが、それでも治癒した実感は乏しく、戸惑いがちに俯いた視線の先、水面に自分の顔が映っていることをデンゼルは知った。恐る恐る長めの前髪を掻き分けてみると、其処には最早黒痣はなく、白い滑らかな肌があるのみだった。しかしそれでもまだこれが現実に起きたことだと信じられず、デンゼルは自分が唯一自分のヒーローと認めている青年に視線を投げかけた。
視線の先で、デンゼルのヒーローはもう大丈夫だと言いたげに力強く頷いていた。
そうして初めて、デンゼルは自分が死の恐怖から逃れられたことを理解した。思わず唇から喜びの声が漏れる。この気持ちを少しでも家族と分かち合いたくて、デンゼルは喜色満面振り返った。
星痕症候群の醜い痣が綺麗に消え去った少年の顔はとても清々しく、そして喜びに溢れていた。
その明らかな奇跡に、周囲にいた人々からどっと歓声が沸く。
病気に罹っていた子供たちも早く病気を治そうと、次から次へと水の中へ飛び込み始めた。
それを助長するかのように、
「さあ じゃんじゃん飛び込め」
シドがそう叫びつつ拳を振り上げる。その傍らではユフィが嬉しそうにその場で片手を振り回しながら、
「治った 治った」
はしゃいでいる。
不治の病と称されていた病気が完治し、激しい苦痛から解放された子供たちはその姿に相応しい笑顔を浮かべながら、水の中ではしゃぎ回っている。
そんな子供たちの中を、時々水をかけられたりしながらも、クラウドはゆったりとした歩調で歩んでいた。 自分ばかりだけでなく、たくさんの子供たちも救ってくれた綺麗な水の存在に、心から感謝の念を送っていた。そんな自分の表情が満ち足りた穏やかなものになりつつあることを自覚しないまま、クラウドは嬉しそうに元気な笑い声をたてる子供たちを見つめていた。
仲間たちの方に視線を遣れば、ティファと視線が合う。その顔に浮かんでいる嬉しそうな笑みに、クラウドはさらに表情を和ませた。
子供たちが救われたことに何度も何度も感謝の言葉を思いながら、ふと教会の入り口の方へ視線を巡らせると、其処に見覚えのある姿形の女性が一人、しゃがみ込んでいる子供たちと何か話し込んでいた。
栗色の長い髪を高く結い上げ、それをピンクのリボンで纏めている女性。
すぐに女性の正体に思い至ったクラウドは、まさかという思いに駆られた。まさかこんな所に彼女が居るはずがないと、自分の目の錯覚だと思った。
クラウドの視線の先、女性はやがてゆっくり立ち上がり、教会の入り口へと向かう。その入り口には、扉に凭れるようにして青年が一人佇んでいた。
青年の横顔を認めた瞬間、クラウドは二人が其処に今確かに存在していることを実感した。
唇が震える。涙が溢れそうになる。
そんなクラウドの気持ちを見透かしたかのように女性はゆっくり振り返り、綺麗な笑顔を浮かべてみせた。
【もう だいじょうぶ だね】
優しくそう呟き、再び教会の入り口へと向かっていった。
戸口に佇んでいた青年も、クラウドと視線があったことを知ると、片手を軽くじゃあなという感じに振り、そのまま女性の後を追いかけるようにして、女性共々光の中へ姿を溶け込ませていった。
「うん 俺は・・・ 一人じゃない」
二人が消え去っても、自分を包み込んでいる二人の優しい気持ちを、自分は感じている。
それだけではなく、自分を包み込んでいる仲間たちの温かい思いを、自分は確かに感じている。
そんな仲間たちがいたからこそ、その思いに導かれて自分は此処に戻って来られたんだ。
そんな仲間たちがいるからこそ、二人が望む自分の居るべき場所は、間違いなく此処なんだ。
二人にもらった命だから、今度は最後の一息まで諦めず生き抜いていこう。
二人に助けてもらった命だから、今度は自分が誰かのためにこの命を懸けてその誰かを守ってあげよう。
そう決心したクラウドは、久しぶりに心の底から笑みを浮かべた。
END
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