〜 アンジェリーク 〜
剣を構えた瞬間、ジュリアスの表情が改まる。その表情は静謐そのもので、およそランディが常日頃想像している熱気とは正反対なそれだった。
つられるようにしてランディも慌てて剣を構えたが、いつもの稽古とはまるで異なる雰囲気に無意識に怯えを感じた。
剣を構えたまま二人は微動だにせず、時間だけが過ぎていく。
風の守護聖は少しでも相手の隙を見つけようと神経を研ぎ澄ませて探るのだが相対する人間が違うせいか、なかなかそれを見つけ出せず時間ばかりが過ぎていった。
光の守護聖は特に表情を変えるでなくただその場に佇んでいる風情だった。ただその手に剣を携えているということが異彩を放っている。
好対照的な二人の姿を、何故か炎の守護聖は痛ましげな表情で見守っていた。
「来ぬのか?」
不意に、ジュリアスは低く呟いた。
それはいつまで経っても打ち込んでこない風の守護聖にしびれを切らしたという風でなく、実に淡々とした声音だったのだが、そう声をかけられた瞬間、ランディは馬鹿にされていると思いこみ、頬に朱を散らした。
「とりゃあ!」
勢いのあるかけ声と共にランディは素早くジュリアスに飛びかかっていったが、冷静さを欠いたその太刀筋では相手にかするはずもなく、剣先は虚しく宙を切り裂く。それから二筋、三筋とランディは勢いのまま打ちかかるが、そんな状態であるから相手と剣を交わらせることはできなかった。
目前の若者の内側にある未だ未熟な部分にジュリアスは微笑ましさを感じずにはいられなかったが、それが表情にでることはなかった。もし万が一それが相手に知れたりしたら完成にはほど遠い発展途上中の精神のこと、自分が今抱いている思いは侮辱としか感じられないであろうから、ジュリアスは己が抱いた感情を押し隠す。
構えていた剣先が微かに下がったことに気づいたランディは好期とばかりに打ち込んだ。少しの気の乱れも見せずにいたはずなのに突然崩れたその隙をランディは見逃さなかった。
ランディにとってそれは会心の一撃だったが、それはジュリアスにあっさりかわされてしまい、逆に手の中の剣を取り上げられてしまった。
渾身の力で飛び込んだのを逆に相手に利用され見事にバランスを崩したランディは無様にその場で尻餅をついてしまった。
自分の剣が宙高く跳ね上げられるのを半ば呆然と見上げるその首筋に鈍い光を放つものがすっと当てられる。それが剣先であることを理解したランディは背筋を駆け抜ける悪寒を押さえることができなかった。これが真剣勝負だったら自分は間違いなく今死んでいたのだ。自分に死をもたらす立場にある人間がどんな顔をしているのか、ランディはふっと顔を巡らせ、絶句した。
光の守護聖は何の表情も浮かべていなかった。ついさっきまでは確かに微かにでも表情があったのだが、それがすべて拭い去られていた。ただその蒼い瞳に強い光が宿るばかりだった。
風の守護聖が顔を強張らせるのを見たジュリアスは自分の振る舞いに相手が畏れを抱いたことを敏感に感じ取り、剣を納めると苦笑を浮かべて見せ、地面に座り込んでいる相手に手を差し伸べその場で立ち上がらせた。
「なかなか見事な太刀筋であった」
淡々とした口調でそう告げられ、ランディは顔を朱に染めた。一合も打ち込めずにいた自分を気遣っての言葉だと思ったのだ。
「ありがとうございました」
憮然とした面持ちながらも精一杯そう言葉にしながら、ランディは深く頭を垂れた。
紺碧の双眸を微かに眇め、ジュリアスは殊更にゆっくりとした口調で言葉を紡いでいった。
「そなたの剣はそなたの性質そのままに真っ直ぐだ」
はっとした表情でランディは顔をあげ、首座の守護聖が語ろうとしていることに耳を傾けた。そして以前似たようなことを、炎の守護聖にも言われたことを思いだした。
『おまえの剣は単純なんだ。綺麗に型にはまっている分、次の手が俺には読めてしまう』
未だ幼さの拭いきれないその顔に浮かんだそれを正確に読み解いたジュリアスは優しい笑みを口元に湛え、言を継ぐ。
「それゆえ私にはそなたの太刀筋が読めてしまう。型をただなぞっているだけでは剣の腕を磨くことにはならぬ。その奥にあるものを見極めよ。無論、型というものはあらゆる事の基礎となるべきもの。それを疎かにするなど愚か者のすることだがな」
風の守護聖が注いでくる真剣な眼差しの奥に潜む情熱に気づき、ジュリアスは目前の若者が未だ年若いのだということを改めて実感した。だから、本来ならば自分の心に秘めておくつもりだった言葉を口にしてしまったのかもしれない。
「だが、そなたはそのままのそなたがよい。そのまま『無垢』でいるがよい。何も自ら望んで汚れることはないのだ」
そう言ってしまってからジュリアスは自分が今口にしたことを理解し、驚愕に目を瞠った。
傍らで二人のやりとりに耳を傾けていたオスカーも同様に驚きも露わにジュリアスの横顔を見つめる。
言われた当人はと言えば、少々抽象的な物言いだったためか、ジュリアスが言わんとしていることを理解しきれずきょとんとした顔つきで狼狽気味なその白皙を見つめていた。
「ジュリアス様」
呆然とした声音で名を呼ばれ、ジュリアスははっと我に返り、自分を見つめる空色の瞳に気がつくとさっと表情を内心の読みとらせない首座らしいものへと改めた。そして手にしていた剣を炎の守護聖へと返す。
「そなたの庭をすっかり借りてしまったな。礼を言う」
穏やかな笑みを湛えて館の主へと視線を投げれば、気遣わしげな光を宿した薄青色の瞳があった。しかしその光が浮かんでいたのはほんの数瞬のことだった。
「ジュリアス様、今度はこの俺と是非とも手合わせをお願いいたします」
ランディばかりに稽古をつけることはないでしょうと、朗らかな口調でそう告げる青い瞳に浮かぶのはどこか楽しげな光で、つい今し方見たはずの哀しげな色などどこにも見受けられない。
「急用を思い出した。そなたとの手合わせはこの次に機会を設けよう。そなたも無理をせず養生するがよい」
オスカーの機転に内心安堵のため息をつきつつ、ジュリアスは苦笑混じりにそう言い置き、炎の館を辞していった。
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