〜 アンジェリーク 〜
光の守護聖が去ってからしばらく後、ランディはオスカーとテラスで休息をとっていた。
館で立ち働く女性たちが心を込めて入れてくれた紅茶を至福の表情で口に含んでいるオスカーの傍らで、ランディは眉間にしわを寄せた小難しい顔つきで手の平で包んでいるカップの液面を見つめている。
去り際にジュリアスが口にした言葉をいくら反芻してみても言葉に秘められた思いを読み解くことができず、そんな自分に少々苛立ちを感じながらも、それでもランディは自分なりに意味を探ろうとしていた。
胸に抱いている思いを隠すのが下手な、つまりは自分の感情に素直な反応を見せる風の守護聖の葛藤をしばらく暖かい眼差しで見守っていたオスカーだったが、一向に思考の迷路から脱せそうにない様子に苦笑を浮かべる。
「ランディ、館のレディたちが淹れてくれた紅茶がすっかり冷めちまったぜ。彼女たちに悪いと思わないのか?」
そう言われて初めてランディは自分がかなり長い時間自分の思いに沈み込んでいたことに気づいた。慌ててカップの中身を一気に乾し、笑いの滲んだ薄青色の双眸に向けて照れ笑いを見せた。
給仕として傍らで控えていた綺麗な女性がその様子に笑み誘われ密やかに笑い声をたてると、ランディの顔はますます赤味を増していく。それを見た女性はさらに笑いを深めていった。
ほおっておいたら何時までもそうしていそうなその様にオスカーはやれやれと軽いため息をつく。
「なあ、ランディ。俺に何か聞きたいことがあるんじゃないか?」
女性に対して免疫のまるでないその反応をもう少し楽しんでいたいでもなかったが、このままにしていたら後で再び思考の迷宮に陥るだろうことが判ってしまう以上、少しでもそれを軽いものにしてやりたいと思うのだ。勿論、その期待に完璧に答えてしまうつもりがないのもまた事実だった。人間、自分で色々悩んでこそ成長が見られるというものである。
風の守護聖はその場で居住まいを正し、表情も真剣なものに改めると疑問を口にした。
「オスカー様、先程ジュリアス様がおっしゃっていた『汚れ』とは何ですか?俺には何のことかさっぱり・・・」
炎の守護聖はそれにすぐには応じず、新しいお茶を持ってくるよう傍らの女性へと甘く囁く。
心地よい声音で優しく囁かれた女性は頬を紅潮させながらも二人の前から空になったカップをソーサーごとさらうと洗練された動きで踵を返し、すぐさま新しいものを用意してきた。
僅かに伏し目がちで新たな紅茶を口に運びながらオスカーは下がっているよう命じると、女性は深々と頭を垂れ館のなかへと戻っていった。
なかなか口を開こうとしない相手に微かに苛立ちながらもランディは言葉を待った。
新緑の薫りを一杯に含んだ涼風が炎の守護聖の赤い髪をさらりと流す。
一息入れたオスカーはカップをソーサーへと戻すと伏し目がちに低く呟いた。
「ランディ、お前は何のために剣を手にしようと思った?」
その声音は普段の態度から想像のつけようがないくらい静かなもので、ランディは顔をひきつらせる。自分の方が質問したはずなのに質問を返され戸惑いを感じながらも、それでも律儀に答えようと思考を巡らせた。
一番最初に浮かんだのは『格好いい』、そんな他愛もない言葉だったがそんな単純な理由だけではないことをランディは自覚していた。剣を学びたいと思うきっかけになった思いもすぐに思い出せたが、それも今の自分にとって正確な答えではないと思った。この地で暮らすようになってから徐々に育っていったかけがえのない思い。それが恐らくは自分のなかの真実だと思ったランディは素直にそれを口に上らせた。
「尊敬する陛下を少しでもお守りしたい。それが理由です。俺は陛下をお守りする騎士になりたいんです」
真っ直ぐなその答えにオスカーはゆっくり顔をあげ、微かに口元を歪める。半ば予想どおりの、半ば意表をつくその答えに自然と笑みが浮かんでいた。
「なるほどな、それは立派な心がけだ」
珍しく純粋に賞賛しているその声にランディはどう反応してよいのか判らず、気まずげな表情になった。いつも自分のことを半ばからかうような態度で接してくる相手だけに下手な対応を見せたら後々何を言われるか判らない。しかし自分の思いを隠すことが下手なことに関しては他の追随を許さないランディだけにそんな思考の流れはすべてオスカーには見通されていたが、オスカーはそれをネタに相手をからかうでなく、ふと表情を真剣そのものにして言を継いだ。
「俺もそうだ。俺も陛下の剣となり楯となり、あらゆるものからその身をお守りするのが俺の役目だと思っている。俺は俺の剣に懸けて全身全霊陛下をお守りするだろう」
薄青色の瞳に情熱の炎を浮かべて真摯に語るその態度はまさに高潔な騎士に相応しく、ランディは感動で胸が一杯になった。
「俺はそんなオスカー様だからこそ尊敬してるんです。俺、オスカー様みたいな騎士になるのが夢なんです」
憧れ一杯の熱い眼差しに破顔したオスカーは再度紅茶で喉を潤した。
「ありがとうよ、坊や」
自分が口にした言葉に照れを感じたランディはぐいっとカップの中身を一気に飲み干す。
それを見る薄青色の双眸が不意にきついものとなり、炎の守護聖が纏うその空気が一気に鋭いものへと変化した。
「だがな、剣を手にするということは、綺麗事だけじゃ済まないんだ。騎士を志すということはそう簡単なことじゃない。判るか?」
真剣極まる態度ながらも殊更に曖昧な物言いをするその様が解せず、また言いたいことの本質を悟ることができず、ランディはただ判りませんと答えるしかなかった。
それをどう見て取ったのか、オスカーは未だ熟しきれずにいる幼い弟を見守る兄のような暖かい眼差しになり、ふっと笑み崩れた。
「どうやらまだおまえには早すぎる話題だったようだな。まあ、そのうち嫌でも判る時がくるだろうさ」
焦る必要は全くないんだと呟く声音の奥に潜む違和感にランディは怪訝な顔つきで真向かいに座している端正な顔を見つめた。
「オスカー様?」
物問いたげにその名を呼んだがオスカーはそれに答えようとはせずさらに言葉を紡ぐ。
「まあ、焦らずに自分のペースで行くがいい。おまえにはおまえなりの学び方がある。その時おまえがそれを乗り越えられるかどうか、俺には正直判らないが、多分おまえはそれを乗り越えられるだろうさ」
木立をすり抜けてきた青葉の清涼な香りを含んだ薫風が二人の間を吹き抜ける。その風が、遠くから緑の守護聖の声を拾って二人の元へとそれを届けた。
「ランディ〜、一緒に丘へ行くって約束、今日だったよね〜」
声に誘われてそちらを見遣れば両手を大きく振りながら満面の笑みを浮かべて走ってくるマルセルの姿があった。
それまで自分の考えに囚われていたランディはあっとした表情で立ち上がり、慌てて炎の守護聖に暇乞いを告げると急ぎ足でマルセルの元へと駆け寄っていった。
つい先刻まで悩んでいたのが嘘のようにさっさと立ち去ってしまった後ろ姿を見送りつつ、オスカーは口中で言い残した言葉を小さく呟く。
「だがな、できることなら俺もおまえがいつまでも『無垢』でいられるよう願っているぜ。知らなくて済むんだったら知る必要なんかないんだからな、汚れなんてものは・・・」
誰にともなく呟かれるその言葉を口にするオスカーの眼差しは暗く、表情も苦渋に満ちたものへと変わっていた。
幼い頃より聖地に在ることを求められていたジュリアスが何時いかなる状況でそれを知り得たのかオスカーにはまるで判らなかったが、ジュリアスは間違いなく『汚れ』を知っており、それを苦悩の果てに乗り越えてきたことが剣を構えてみせた瞬間に理解できた。
剣を志した者が必ず通らなければならない関門。それがどれほどの苦悩と悲哀を秘めているのか、それは体験した者にしか判らないだろう。
それをジュリアスが知っているという事実がオスカーの胸を塞いだ。
端正なその顔を苦痛の色が一瞬よぎったが、オスカーはすぐに表情を消し瞑目した。
どれくらいの間そうしていたのだろうか。
目を開けた時にはすでに哀惜を纏った翳りなど微塵もなく、いつもの陽気なそれに戻っていた。
オスカーはその場で大きく伸びをひとつするとすらりと椅子から立ち上がる。
「極上の酒が手に入ったんだった」
ぽんと両手を軽くうち合わせ、良いことを思い出したと一人ほくそ笑む。夕方にでも酒を片手に機嫌伺いに行こうと思いついた炎の守護聖の赤い髪に緑の薫りをたっぷり含んだ涼風が絡み、それを揺らした。
風に乱された前髪を手ぐしで整えながら、オスカーは今日の予定をどうするか考えつつ館へと戻っていった。
人気の絶えたテラスに穏やかな朝の陽光が惜しみなく降り注ぎ、心地よい薫風が我が物顔で吹き抜けていった。
END
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