〜 アンジェリーク 〜

【歪み・8】

 

 市場を抜けるとそこはもう街のはずれだった。

 一口に街のはずれといっても、そこは裕福な家庭が多く集う閑静な住宅街で、先刻まで感じられていた人々の息苦しいくらいの活気とはまったく無縁の場所だった。
 しばらくそんな町並みを進んでいき、さほど規模の大きくない屋敷の前でミュールがその歩みを止めた。
「ここだよ。賢者さまのお住まいは・・・」
言われ二人は同時に屋敷に視線を投げた。そして屋敷の内から漂いくる不可思議な雰囲気を感じ、互いに視線を見交わした。
 交わる視線のなか、互いに同じことを感じているのを知る二人だった。
 紺碧の双眸がふと嬉しそうに館を見つめている少年に注がれた。
「ミュール、ここまでの案内、ご苦労であった」
声音に含まれる響きに何を感じたのか、ミュールの表情が少々硬くなった。それに気づいたジュリアスは苦笑を浮かべ、
「そなたはここで帰るが良い」
なるべく優しい口調を心がけ囁く。
「何でだよ?俺、一緒にいると迷惑なのかい?」
賢者さまに会ってお話聞くだけなんだろうと少年はここで追い払われてたまるものかと必死に言うが、それに心動かされるような光の守護聖でもなかった。これが年若い守護聖たちであったならば、恐らく少年の心情を慮るあまりついつい同行を認めてしまったであろうが。
「我らはこれからとても大事な話をしなければならぬ。恐らくそなたにはあまり面白い話ではなかろう」
幼子を宥めるかのような柔らかい口調で少年をこの場から立ち去らせようとするジュリアスのそんな様子に、闇の守護聖は興味津々といった眼差しを注いでいた。何だこうした優しい態度もとろうと思えばとれるのだなと、変なことに関心してもいた。日頃年若い守護聖たちに対して厳しい態度をとることが多く、それが常なのだろうと思っていただけに、眼前で繰り広げられる光景はいたく面白かった。
 ゆっくりその場で腰を屈めたジュリアスは、少年と目線を同じ高さにしてその顔をじっと見つめた。
「それに、そなた、たまには父の手伝いをしてやるのもよかろう?」
父上が宿の手伝いをせぬと嘆いておられたぞと、優しい調子ながらも多分少年にとって一番痛い部分をつく。すると少年はジュリアスの予想どおりに傷ついた表情を浮かべて蒼い瞳を見つめ返したが、やがて一切の表情を消して俯き下唇を噛みしめた。そしてしばらくの間沈黙していたが、やがて顔を伏せたまま微かに震える声音で、
「わかったよ。俺、ここで帰る。じゃあね!」
ミュールはそれだけの言葉をやっと口にすると、別れの挨拶をする隙を二人に与えず市場の方へとかけだしていった。
 硬い表情のまま走り去る背中を見送ったジュリアスは蒼い瞳を闇の守護聖へと注いだ。
 紺碧の双眸に宿る傷ついた光に、クラヴィスはやれやれとため息をついた。己が傷つくくらいなら最初から口にしなければよかろう、己の言葉で相手がどんな反応を返すかなど十分判っているだろうにと思う。
 光の守護聖ジュリアスは、周囲が想像しているほど物事に対して冷淡なわけではなく、また、心動かされないわけでもなかった。ただ首座としての立場上、自分の心を殺さなければならないことが数多あり、それをさも平然として行っているよう振る舞えるだけの心の強さを持っているがために、周囲から冷酷非情な人物というあらぬ誤解を受けているのだ。
 無論クラヴィスはそのことを十分承知していたが、特にこれといってジュリアスの助けになるようなことをする気はなかった。それがジュリアスの選んだ生き方であり、全くの他人である自分が関わりを持つようなことでもないと思っていた。だから今回も何も言わず、蒼い瞳を静かに見つめ返すのみだった。
 しばらく濃紫の瞳を見つめていたジュリアスだったが、やがて表情を改めると低く呟いた。
「行くぞ」
告げた途端、屋敷の内より扉が開かれ、ジュリアスは咄嗟に闇の守護聖を背後に庇うようにして身構える。そうであったから、ジュリアスはその背後でクラヴィスが少々悲しげな表情をしたことになど気づくはずがなかった。
「ようこそおいでくださいました」
涼やかな声音が凛と響く。
 声に誘われるようにして注いだ視線の先で小柄な若者が深々と頭を垂れている。その若者から先刻感じた不可思議な雰囲気を感じ取り、光と闇の守護聖は目的の人物がこの若者であることを理解した。
「長らくお待ちいたしておりました。至高の御方々よ。わたくしの代にて尊き御身に見えることができましたこと、望外の喜びでございます」
最上級の礼をとったまま、若者は歌うようにそう告げると、二人を屋敷の内へと招じ入れた。

 

 若者に案内されるまま屋敷の最奥に位置する部屋まで足を運んでいった二人は、部屋に入る寸前履き物を脱ぐよう促されて少々戸惑った。履き物を脱ぐのは基本的に寝台にて休む時くらいのものであるから、こうしてそれを促されると正直面食らってしまう。
 しかし『郷に入りては郷に従え』という言葉があるように、その地の習慣に異を唱えても何ら得るものはないであろう。
 実にすまなそうに履き物を脱ぐよう申しでる若者の顔を見つめたまま、ジュリアスはふと思いだした。以前地の守護聖ルヴァの館を訪れた時に『お茶を一服いかがですか』と、館の主に“茶室”という不思議な部屋へ招かれたことがあったのだが、その時もこうして履き物を脱がなければならなかったのだ。そして今回もそれと同じことであろうと一人納得し、あっさり己の習慣を捨てて履き物を脱ぐと部屋へと足を踏み入れた。
 クラヴィスは微かに苦笑を浮かべ、その後に続く。若者に促されて部屋へと入っていくまでのわずかな時間の間に様々に思いを巡らせていたであろうジュリアスの思考の流れが想像できてしまい、可笑しかったのだろう。
 招じ入れられたのは特にこれといった調度品のない部屋だった。ここに至るまでの道すがら、あちらこちらに一目で良いものであることが判る品々が上品に飾られていただけに、殺風景といえるこの部屋は不思議な空間のように感じられた。
 足首まで簡単に隠れてしまう毛足の長い絨毯が敷き詰められた部屋のほぼ中央に、大きめのクッション、美麗な刺繍が施されている、が、いくつか点在している。どうやらそれに腰を下ろすのがこの部屋での作法のようである。
 つまり椅子というものが存在せず、絨毯の敷かれた床に直接に腰を下ろすというのがこの館での習慣らしかった。  部屋に足を踏み入れた途端、二人はすっと目を細めた。室内に漂う侵しがたい清浄な空気を感じ取ったのである。
 その空気から、ジュリアスは闇の守護聖の執務室を連想し、軽く睫を伏せた。
 何故だか常にひんやりと、さりとて決して冷たいものではないその雰囲気、完全な暗闇ではなく薄暮に閉ざされたその空間、そして、望めばいつでも安らがせてくれるであろう優しい心地よさ。
 常に前を見て歩み続けていくことを己に課しているジュリアスとは決して相容れないそれらを、この部屋は強く感じさせてしまうのだった。この部屋に足を踏み入れた時からこのままこの身を横たえてしまいたい欲求が強く感じらてならなかった。
 ジュリアス自身意識していなかったが、その上体が不安定に揺れる。
「ジュリアス?」
相手の突然の変調に、クラヴィスは動揺も露わにその名を呼び、肩を掴み軽く揺する。その途端、軽く揺れた頭ががくりと仰け反った。
「ジュリアス!」
完全に力が抜けてしまったその身体をどうにか受け止めてその場に腰を下ろす。そして慌ててその顔を覗きこんだ黒水晶の双眸が次の瞬間、安堵の光を浮かべた。
「まったく・・・。驚かせてくれる」
呟くその声音は少々呆れ気味だった。
「『光』の御方はどうされたのでしょうか?」
聞き慣れないその声にクラヴィスは一瞬目つきを鋭くしたが、すぐに自分たちが現在いる場所がどこであるか思いだし表情を改めて声のした方角へ視線をやる。
「疲労困憊しているところにこの部屋へ案内されたのだ。大方、ここの雰囲気にあてられて眠ってしまったのだろう」
いつも気を張って過ごしているから疲れも相当溜まっていたはずだと若者へ説明ともつかないことを告げるその瞳に哀しげな色が浮かんでいた。昨夜ほどではないが、それでも常に比べればジュリアスの顔色は優れない。これではかなり調子が悪かろうとは思うのだが、強情なところが大いにある光の守護聖がそう簡単にそれを公言するはずがなく、積極性に大いに欠けるクラヴィスもそうそう手を差し伸べることはしなかった。
 だからといって相手のことを互いが思いやっていない訳ではないのだから、実に不思議な関係の二人である。
「このままこれを休ませてやっていてもよいか?恐らくおまえの話は私が聞いておけば事足りるだろう」
との言葉に若者は慌てて首肯し、手近にあった大きなクッションを闇の守護聖へと手渡した。無言のまま受け取ったクラヴィスはそれを枕代わりに意識の失せた身体をそっとその場に横たえる。すると今度はそっと上掛けが差しだされた。今度は微かに礼の言葉を述べて受け取り、ジュリアスを起こさぬよう気をつけながら掛けてやる。そして少しでも安らかな眠りが訪れるよう『闇』の力を疲れ切っているその身へ送った。
(思っていたより消耗が激しい。表面上はいくらでも平気なように取り繕えようが・・・。危うい・・・か)
疲労の色濃く宿る寝顔を見下ろす濃紫の双眸が翳りを帯びる。自分たちに残された時間は想像以上に短いらしい。闇の守護聖は珍しく、焦りの表情を浮かべた。
「これを『光』と呼ぶ以上、我らがどのような者であるのか、おまえたちは理解しているのだな?」
若者の方を見ることなくクラヴィスは低く呟く。その口調は冷ややかな威圧感を漂わせていた。
「貴方様は『闇』の御方であらせられます」
深々と頭を垂れ、若者はうやうやしく告げる。
「では、告げよ。おまえの知ることすべてを。我らに伝えなければならぬすべてを」

 闇の守護聖の言葉に従い、若者は自分の一族に伝わる伝承を淡々と口にした。

 

 

歪み7へ 歪み9へ
アンジェリークトップへ

 

 

壁紙提供:Heavn's Garden