〜 アンジェリーク 〜
「待たせて済まぬな」
居間の方へ戻っていくと、少年ミュールが何とも言い難い表情でこちらを見つめていることにジュリアスは気づいた。
「ん?どうしたのだ。そのように変な顔をして・・・」
何か言い足そうな視線を注いできていながら、こちらがじっと見つめると逸らしてしまう。そんな曖昧な態度にジュリアスの眉間にシワが寄る。
これから案内をしなければならない相手の機嫌が悪くなりつつあることに気づいたミュールは慌てて、
「俺、お邪魔じゃない?」
早口にそう捲したてた。
「そのようなことはないが・・・。何故、そう思うのだ?」
どうしてそんなことを言い出したのかまるで判らず、ジュリアスは率直に尋ね返す。どのようなことでも物事をはっきり明確にさせずにはいられない性分の主なのである。尤も、世の中には理屈では到底割り切ることのできない物事が数多あることも充分承知していたが。
自分を真っ直ぐ見つめてくる紺碧の瞳を上目遣い、ミュールは年の割に少々小柄でありジュリアスは長身だった、に見つめながら、
「・・・・・・。だって、あんたたち、恋人同士なんだろ?あ、俺、男同士だとか、一切偏見ないから安心してよ」
弁解気味に片手を振りながら、やはり早口にそう言った。
少年の言葉を耳にした途端、ジュリアスは硬直した。
(よりにもよって、私とあれが、恋人同士だと!?)
執務に関することであればどんなトラブルが起きようとも常に冷静沈着に対応できるのだが、こういったプライベートに関わることだと途端にパニックを起こし、一瞬思考回路が停止してしまうのがジュリアスだった。しかもそれが闇の守護聖絡みであれば尚更、混乱状態に拍車がかかってしまうのだった。ことクラヴィスに関しては、不思議なくらいに昔から冷静に対応できた試しがない。
「私とあれが恋人同士だと?どこをどう推せばそのように愉快な想像ができるのだ?」
握り拳を震わせつつ尋ねるジュリアスの瞳が、零下を思わせる氷の如き冷たい光を孕んでいた。
剣呑な眼差しにその場から一歩後ずさりながら、それでもミュールはジュリアスの問いかけにしっかり答える。
「え、だって、さっき、キスしてただろ?」
火に油を注ぐような爆弾発言をするあたり、ミュールは意外と大物なのかもしれなかった。
少年が何を指してそう言っているのか理解したジュリアスは、珍しく頬を朱に染めて、
「!!あれは・・・・・・。私の髪をあれが強く引っ張ったゆえ、顔を近づけざるを得なかったのだ!断じてそのようなことをしていた訳ではない!」
思いきり力一杯叫んでいた。興奮したせいか息があがってしまい、ジュリアスは肩で大きく息をする羽目に陥った。そしてその蒼い瞳には涙が滲む。さらに言葉を続けて強く否定したいのだが、呼吸がなかなか整わず目線で思いきり否定の意志を表現するしかなかった。
失言に気づいたミュールは、照れ隠しに頭をかく。そこへ、
「何故、そのような大声を出しているのだ?」
誤解を招くような仕草をしてくれた闇の守護聖が支度を整え、姿を現した。
何気なく声のした方へ視線を向けたミュールは、その瞬間、顔を強ばらせて固まってしまった。光の守護聖を目にした瞬間に感じられたものと同程度かそれ以上の衝撃を受けたのだ。
腰よりも遙かに長く伸ばされたその髪は艶やかな光を放つ漆黒であり、その瞳は底知れぬ闇夜を連想させるに十分な暗い色合いであった。その為なのか、身に纏う衣装は明るい色相の落ち着いた色合いのものであるにも関わらず、その人からは強く『闇』が連想された。それも安らかな眠りをもたらしてくれるだろう温かいものではなく、どんなものでも貪欲にその身の内に取り込みすべてを消し去ってしまうだろう冷ややかなものなのだ。
そのような訳だから、ミュールの顔が微かに恐怖の色を浮かべたとて仕方のないことだろう。
ジュリアスはそれに気づかず、不名誉な誤解を受ける原因を作った相手に詰め寄る。
「クラヴィス!そなたのお陰で私はあらぬ誤解を受けているのだ!」
どう責任をとるのだと言う紺碧の双眸は未だ涙が滲んだままであり、きつい光を宿しているはずのそれを常よりも和らげている。長いつきあいではあるが、その誇り高さゆえなのか、生まれ持った性格ゆえなのか、涙を浮かべている姿などほとんど見た覚えがない相手のそんな様子に、クラヴィスは珍しいものを見たと微笑んだ。
「ほお?それは済まぬことをしたな」
一応謝罪めいた言葉を口の端に登らせるのだが、端正な顔に湛えられているその微笑みが、すべてを台無しにしてしまっていた。クラヴィスだとて自分の態度が相手の癇に障るだろうことは十分承知しているのだが、習い性とはよくぞ言ったもので、今さら改めようという気にもならないのだった。
衣擦れの音をさせながら、柳眉を逆立てているジュリアスの傍らに歩み寄ったクラヴィスは、自分を見つめて硬直してしまっている少年に無関心な視線を注いだ。そして少年の顔に隠しがたい恐怖の色を認め、目を眇める。
「案内の者とは、この者のことか?」
ミュールのことを思いだしたジュリアスは一瞬にして頭を切り換え、すっと表情を消した。
「ああ、そうだ。これからこの者に賢者と呼ばれている人物の許まで案内をして貰う」
言いながらミュールの方を見たのだが、少年がその場で硬直しているのに気づいたジュリアスは不審も露わにクラヴィスを見つめ、そなたあの者を無遠慮に見つめなかったかと問う。闇の守護聖のもたらす一種独特な雰囲気に呑まれてしまったのだろうかと思ったのだ。
言うに事欠いてそれはひどかろうと吐息と共に囁きながら、クラヴィスは少年を見つめた。その途端、少年の肩がびくりと震え、クラヴィスは物憂げなため息をついた。自分が何かした訳でもないのに、こうして怯えられてしまっていてはどうすることもできない。
どうやらクラヴィスの放つ『闇』の気配に怯えてしまっているということに気づいたジュリアスはやれやれと言いたげに少年を見つめた。
自分には数瞬で順応してみせた人間がどうしてこうもクラヴィスに怯えの色を見せるのか。無意識のうちに星から枯渇しかけている『光』を求め、歪んだまま過剰に存在している『闇』に嫌悪感を抱いてでもいるのだろうか。もしそうであれば、このままミュールに案内を頼むのは非常に酷なことなのかもしれない。
そこまで考えたジュリアスは口を開きかけたが、それを闇の守護聖がそっと制した。ミュールが動きを見せたのだ。
「あんたたち、何だか賢者さまがおっしゃっていた『光』と『闇』みたいな人たちだね」
何とか抱いてしまった恐れを克服したミュールは、ぎこちない笑顔を浮かべながらも並んで佇む二人に目を向けた。二人は共に漆黒の髪をしていながらも、何故か対照的な姿をしているように思えてならず、しかしそうして並んでいるとこれ以上はないくらいに調和しているようにも感じられた。不思議な印象を与える二人に、ミュールは大いに気を惹かれた。
「でも、ジュリアス、あんたの髪は『黄金』じゃないよね」
『光』は黄金の絹糸のような髪をしているって言ってたから関係ないよね、と気を取り直した気軽い調子で言い放つ。
紺碧の瞳と濃紫の瞳が瞬間、見交わされる。視線が交わった途端、蒼い瞳が強く煌めき、紫の瞳がすっと眇められた。
そんな二人の様子に気づかず、ミュールは支度終わったんだったら行くよと足早に部屋から出ていってしまった。
振り返ることなく部屋から出ていった背中を見つめながら、ジュリアスはぽつり呟いた。
「どうやら我らのことを知る者がいるらしい」
そなたのように予言の才がある者なのだろうかとの問いかけにクラヴィスはさあなと苦笑する。未だ会うことの叶わない相手がどのような人となりであるかなど、いくら占術に長けているクラヴィスとて占具もなしに判ろうはずもない。
「賢者とやらの住まいは、ここから遠いのか?」
肝心なことを聞き忘れていたといわんばかりの口調でクラヴィスがそう尋ねると、ジュリアスは瞬間気まずそうな顔つきになった。宿の主人から具体的な距離や時間などを聞き損ねていたことにやっと思い至ったのだ。ゆえに返事を待っている相手に渋面で、判らぬと短く応じるしかなく、その返答にクラヴィスは一瞬瞠目し、そして彼にしては珍しく声をたてて笑いだしたのであった。
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