〜 アンジェリーク 〜
クラヴィスを一人残し、宿の主人の姿を求めて廊下を歩み始めた途端、ジュリアスは全身を包みこむ圧迫感に襲われ、思わず低く呻いた。この星に降り立った時に比べればそれは格段に弱い力でしかなかったが、自分の内から『光』が少しずつ奪い去られていく感覚は確かにあり、手足の先がだんだん冷たくなっていくのが感じられた。
(クラヴィスが傍に居らぬようになった途端、これでは・・・。先が思いやられる・・・な)
心の内で愚痴めいた言葉を言いながら、無意識に震える指先でそっと耳にある紫水晶のピアスに触れる。その途端、圧迫感は見事に消え去り、ジュリアスはほっと安堵のため息をついた。そして倦怠感の濃厚な身体を引きずるようにして重い足取りで階下へと降りていった。
宿屋の主人はすぐに見つけられた。というよりは、主人の方がジュリアスを見つけて近寄ってきたという方が正確だろう。どうやら昨日突然に、病人、勿論ジュリアスのことだ、を連れてきて、最高級の部屋を気軽に借り受け、病人を医者に診せる素振りも見せずにいた泊まり客がかなり気になっていたらしい。しかも主人が見かけたのは病人に見えたジュリアスなのだから気にするなという方が無理だった。
「お客様、お加減の方はよろしいのでしょうか?」
如才ない口調で静かにジュリアスの傍らに歩み寄っていく間、主人は相手がどんな人間なのか値踏みするような眼差しを、穏やかな視線のうちに隠しつつ注いだ。
目前に佇む人物は、主人が見たこともないような端正な容貌の主であり、一切の身動きをしなければ端麗な人形とも見紛う、硬質的な雰囲気を漂わせている人物だった。が、その蒼い瞳を見れば、ただ単に秀麗なだけの人間ではないことは一目瞭然だった。
少々風変わりな衣装を身に纏っているけれども、その衣装は極上の品であることは間違いなく、そしてその立ち居振る舞いは優雅の一言に尽きた。それだけ見てもかなり身分の高い人物であることは容易に見て取れ、その身から漂う威厳と気品は隠しようがなかった。
どうしてそんな身分のある人物が供の一人もなし、どう見ても闇の守護聖は従者には見えなかった、に、このような場所にいるのだろうか。
瞬時にそこまで見てとった主人はどう対応すればよいのか、迷った。が、それもほんの数瞬のことだった。
「宿の主と見受けるが、二、三、そなたに尋ねたきことがある。少々よいか?」
凛と響くジュリアスの声に、主人はうっかり聞き惚れてしまった。職業柄、色々な人間と接触する機会が多いのだが、これほどに良い声を聞いたのはこれが初めてだった。
「私に判ることでしたら、如何ほどでも」
自分を真っ直ぐ見据える紺碧の瞳の鋭さにはっと我に返った主人は慌てて返答する。
守護聖以外の人間が自分を見つめる時、必ずといっていいほど硬直してしまうことを知っているジュリアスは主人の反応を気にした風もない。
「この地について詳しい者、特に歴史や伝承などに精通している者に会いたいのだが、そのような者に心当たりはないだろうか?できれば、この地に限定されず世界について詳しい者の方がよいのだが・・・」
「歴史や伝承に・・・詳しい方・・・ですか」
蒼い瞳をまっすぐこちらに据えたその唇から漏れた意外な言葉に、主人は思わず鸚鵡返しに呟く。目前の麗人はどうやら自分が予想している人種とはどこか違うらしい。それでも主人は宿泊客の要望にできるだけ添おうと頭をフル回転させた。
「そういったお方をお探しということでしたら、街はずれに住まわれている賢者さまをお訪ねになられてみてはいかがでしょうか」
大変気さくなお方で、突然の訪問客でもお話を伺いにきたとおっしゃれば歓迎してくださる方ですと、主人は機転を利かせて言い添える。
「その者が住む場所は、ここからは遠いのであろうか?」
できればこれからでも訪れたいのだがと質問を重ねるその肩から、漆黒の髪が胸元にむけてさらりと落ちる。それを無意識に払う仕草に主人は瞠目した。
「そうでございますね、賢者さまのお住まいは、ここからでしたら徒歩にておいでになられましても、さほどお時間はかからないことと存じます」
ふむと短く応じたジュリアスは思案顔で主人から視線を外した。
(さて、これからどうするべきか。その者に会いに行くのは構わぬが、黙って出て行こうものならあれもうるさいことであろうし・・・)
体調が万全とは言い難い現状を鑑みるに、単独行動は得策とは言えず、かといって、疲れているであろうクラヴィスを無理に誘うのも気がひけてしようがない。珍しく、ジュリアスは判断に迷ってしまった。
主人は微動だにせず泊まり客の次の言葉を待っている。
しばらく考えこんだ末、ジュリアスはそれでもきっぱりとした口調で告げた。
「そなたに頼みたいことがある。我らはこの地には不案内ゆえ、誰かその者の許まで案内してくれる者を手配してくれまいか?無論、礼はする」
主人は愛想よく微笑み、
「それならば、うってつけの人間がおります。宿の手伝いもせぬとんだ愚息ですが、賢者様の許へはしばしば足を運んでおります。後ほど、お部屋の方へ伺うよう申しつけておきましょう」
それでよろしいでしょうかと尋ねるられ、ジュリアスは鷹揚に頷いた。少しでもクラヴィスを休ませてやれる時間が増えることにこしたことはない。だが、事情が事情であるためそう長い間休息をとらせるわけにもいかないのが少々やりきれなかった。が、それを表情にだすような愚かなまねはせず、それでは頼むと短く言い、部屋へと踵を返すジュリアスだった。
その背中を見送った主人は、その姿が視界から完全に消えた途端、大きく息を吐いた。そして、風変わりな宿泊客と向き合っている間、自分がかなり緊張していたことにはじめて気づく。一体どんな身分の方なのか、と少々思いもしたが、宿泊客の素性に必要以上に感心をもってはいけないという暗黙の鉄則を思いだし、それ以上の思考を止めた。
部屋に戻ったジュリアスは音をたてぬよう細心の注意を払って寝室を覗いた。すると案の定、クラヴィスはまだ眠ったままだった。疲労が色濃く漂うその寝顔を見てしまったジュリアスは、起こすのも忍びないと一旦扉を閉じる。そして居間の長椅子の上に無造作に投げ置かれていた、クラヴィスが買い求めておいてくれただろうこの地の衣装に着替えはじめた。
この地の民族衣装らしきそれは、自分が普段身に纏っている裾の長いそれらと基本的にあまり形が変わらないもので比較的安易に着替えることができた。
上衣は薄手の生地を幾重にも重ねた柔らかい材質を使用したものであり、生地と同色の糸による複雑な刺繍が施された美麗なもので、恐らく身分の高い者が着用する部類のものだった。そして足首まで覆う長い裾には両脇に長いスリットが入っており、そのままでは素足が覗いてしまうものなのだが、ズボンを着用することでそれは免れることができた。同僚の夢の守護聖辺りならば、堂々と己の足を自慢げに見せるかもしれなかったが、ジュリアスはそんな風に素肌をさらす趣味など持ち合わせていなかった。
殊更ゆっくりと着替えを済ませたジュリアスは、さて仕方がないクラヴィスを起こそうかと思い立ち寝室へ続く扉を開けようとした。そこへ、部屋の入り口を無遠慮にノックする音が響いた。
乱雑なそのノックの仕方にジュリアスは不機嫌な顔つきになったが、恐らく先程宿屋の主人に頼んでおいた案内人が来たのだろうと検討をつける。
「鍵は開いている。入るがよい」
さほど大きな声ではないのだが凛としたその声は実に通りがよく、扉越しでも相手に伝わった。
「あんたかい?賢者さまの許へ連れてってくれっていうお客さんは・・・」
といいながら室内へ入ってきたその人物は、自分がこれから案内するであろう人間の顔を見て口を大きく開けてしまった。
腰まで届くくらいに長く伸ばされたその髪は漆黒であるにも関わらず、天空の高処を思わせる紺碧の双眸の為なのか、その宿泊客からは強く『光』が連想された。それも柔らかい春の日差しのような温かいものではなく、すべての隠された事象を暴き立て、誰の目にも明らかにさせずにはおかない強く厳しいそれなのだ。
自分の姿を見て硬直してしまう人間など見慣れているジュリアスは落ち着いた声音で声をかけた。
「それでは、そなたが我らを案内してくれる者なのだな」
と声をかけられた途端、案内人は硬直が解けたらしく、二、三度目を瞬かせた。そして改めて宿泊客を見つめる。
「あ、ああ、俺、ミュールってんだ。あんたは?」
立ち直りの早い性格らしく、すぐにジュリアスの容姿に奇跡的に順応を果たした少年はにかっと笑った。
「私はジュリアスという。私と連れをその者の許まで案内してくれればよい」
とても珍しい順応の早さに苦笑を浮かべたジュリアスは、連れはまだ休んでいるゆえ、起こしてくるまでの間少々そこで待っていてはもらえぬかと言い、少年をその場に待たせると寝室へと赴いた。
長椅子に横たわっているその顔は先刻よりはいささか顔色もよくなっており、起こしても大丈夫そうだと思ったジュリアスはそっとその上にかがみ込み、その身体を軽く揺すった。
「クラヴィス、起きぬか。手がかりがあったゆえ、これから出かけるのだ」
かがみ込んだ途端、漆黒に染め抜かれた髪が一房、寝顔に落ちかかる。それを感じたのか、クラヴィスはうっすら目を開けた。
「もう少しだけ、寝かせておいてくれぬか」
ぼんやりと蒼い瞳を見つめながら、眠気の濃厚に漂う掠れがちな声音で呟くと、再び濃紫の瞳が瞼に閉ざされる。
そんな相手の態度にジュリアスは眉間にシワを寄せた。
「そなたが一緒に行かなくてどうするのだ。ことは『闇』に関することなのだぞ」
私一人が行ってどうにかなるようなことではないと言うその姿は、表情とは裏腹にいつもの首座らしさが欠落した不安定な様子だった。
「もう、起きぬか。案内の者を待たせてあるのだ」
声音に含まれる不安げな響きにクラヴィスはそっと吐息をつくと、再度目を開けた。すると、視界の片隅に漆黒の髪が入った。緩くウェーブがかったそれに心惹かれたクラヴィスは何気なく指先に絡めとり、軽く引っ張った、つもりだったのだが存外力が入っていたらしい。ジュリアスが痛そうに顔を顰めた。
「こら、私の髪を引っ張るでない。痛いではないか」
少しでも痛みを和らげようと間近まで寄せられるその顔をじっと見つめる。いたずらを咎めるような光を湛えた紺碧の双眸の奥底に輝く強い光を見つけたクラヴィスは、心の内で安堵のため息を吐いた。そしておもむろに長椅子から上半身を起こした。
起きる意志を見せた相手にジュリアスは満足げに微笑むと、あまり待たせるなと言い置き、再び居間の方へと戻っていった。
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