〜 アンジェリーク 〜

【歪み・3】

 

 翌朝目覚めたジュリアスは、昨晩あれほど強く感じていた倦怠感、圧迫感がかなり薄れていることに気づいた。どうしてなのだろうと思いつつ何気なく室内を巡らせた視線の先で、長椅子で寝込んでいる闇の守護聖の姿を見つけた。そして『闇』の波動が室内に満ち溢れているのに気づく。
(どうやら、クラヴィスに大分迷惑をかけてしまっているようだ)
恐らく歪みきった『闇』に抗しきれずにいる自分を守るために、少しでも両者の接触を断ちきるために、クラヴィスは防護壁のように己の『闇』を室内に満たしたのだろう。それがかなり大変だったろうことは、寝顔の顔色の悪さから推測できた。
(無茶を・・・する)
ジュリアスは先刻まで自分がかけていた上掛けをそっとかけてやりながら思った。

 いくら守護聖が己の身内にサクリアが溢れているのを感じていても、そのサクリアがどこからもたらされるものなのか誰も知らず、そして身内に保有できるサクリアの限界量、行使しうるサクリアの臨界点など知るよしもなかった。
 無理に使い続ければ、ある日突然サクリアを失い、守護聖の任を解かれるようなことも起こりうるのだ。また、無理にサクリアを行使し続けた結果、サクリアの制御を失い、自己崩壊を起こして自滅したという前例とてあるのだ。
 守護聖によって制御されていないサクリアは純粋な『力』、荒々しい『力』でしかなく、多くのものを傷つける牙を持った恐るべきものでもあった。
 無論、守護聖の制御下にある場合、多少の使い方ではそれほど恐れるものでもなかった。

 クラヴィスはそれを充分知りながら、ジュリアスを少しでも守るために宇宙の安寧に関係なく『闇』を使ったのだ。

 物憂げなため息をつき、ジュリアスはそっと寝台から降り立った。そして、窓際へ歩み寄り思いきり窓を開ける。
 窓外から入り込んだ陽光は柔らかく、また、同時に室内へ侵入してきた風は涼やかだった。
 窓を開ける音に気づいたのか、それとも差し込む光が眩しかったのか、はたまた忍び込んできた風を頬に感じとったのか、とにかくクラヴィスは目を覚ました。うっすらと開いた黒水晶の瞳に捉えられたのは、心地よい風になびく艶やかな黒髪だった。
 一瞬、それが誰のものであるか判らず、二、三度目を瞬き黒髪の主の背中を見つめた。背筋を真っすぐぴんと伸ばしたその背中は見覚えのある人物のものだった。
「ジュリアス。具合はどうだ?」
睡眠が十分とは言えず少しばかり頭痛がしていたが今はそんなことを言っている場合ではなく、クラヴィスは怠そうに前髪をかきあげつつ上体を起こす。すると、昨日よりは意志の強さの窺える蒼い瞳と視線が交わった。
「ああ、昨日よりは余程いい」
風に乱された黒髪を手で軽く押さえ、窓枠に背を預けるようにして佇む。そして長い睫をそっと伏せ、
「そなたには、いらぬ負担をかけている。すまぬ」
囁きにも似た小さい声で告げる。
 よもや光の守護聖から謝罪めいた言葉を貰えるとは思っていなかったクラヴィスは瞠目する。かえって無茶ばかりするなと小言のひとつでも貰うとばかり思っていたのだ。
「もしやと思って私が勝手に為したことだ。おまえが負担に思う必要はない」
苦笑を浮かべつつ、軽い調子で言い放つ。そしておもむろに長椅子から立ち上がると、ジュリアスの傍らへと歩を進めた。いささか乱暴な仕草で立ち上がったため、ジュリアスがせっかくかけた上掛けが長椅子の足許に蟠る。それを認めたジュリアスは少々渋面になった。
「同じ立場に置かれたならば、おまえとてそうするであろう?」
少々からかう口調でクラヴィスがそう言うと、ジュリアスは片眉を引きあげ、相手を見つめる。当然ではないかと言わんばかりの表情に、クラヴィスはではお互い様ではないかと微かに笑んだ。
「どうやら、私の司る『闇』でその身を包んでいれば、おまえもいくらか身体が楽ということか」
聖地にいる時に比べればその表情からやや厳しさが損なわれているが、それでも昨晩見てしまった気弱げな素振りは片鱗も見受けられず、クラヴィスはひとまず安堵の吐息をつく。そして窓外へ視線を流した。
「ジュリアス、おまえのピアス、私のものと交換してくれぬか?」
晴れやかな青空が外界の明るさに微かに細められた双眸に写りこみ、黒と見紛うその瞳の色が紫であることを証立てている。
 ジュリアスは声に出さずに、その横顔へ何故と問いかけた。
 ふっと口許を苦笑に歪め、闇の守護聖は言を継ぐ。
「それを媒介にして、おまえに『闇』を送るためだ
代わりに私のしているものをおまえにして貰わなければならぬがな、と説明する。
 躊躇いがちにジュリアスは首肯し、そっと青金石のピアスをはずすと、己の手のひらにそれを転がす。
 それを目にしたクラヴィスは、やはり己の耳を飾っていた紫水晶のピアスをはずすと、僅かな躊躇も見せずにそれを相手の耳につけてやり、自分は青金石のそれを受け取って空いた耳にそっとつける。そして光の守護聖の耳元で光る紫色の輝きに満足げに目を細めた。
「応急処置に過ぎぬが、何もせずにいるよりはましであろう」
やけに耳に優しく響くその声音にジュリアスは何も言えず、相手を見返した。どうしてクラヴィスは己の命の危険を承知の上で自分を助けようとしてくれるのか、判らなかった。顔をあわせれば悉く衝突してしまう自分たちなのだ。しばし濃紫の双眸を見つめていたが、やがて常より不安定に揺らいでしまう己の心をどうにか抑えることに成功したジュリアスは静かに問うた。
「クラヴィス、そなたの言う正しき『闇』とは何だ?」
意表をついた問いかけにクラヴィスは軽く瞠目したが、瞬時に平静な顔になるとすぐには応えず、先刻まで自分が休んでいた長椅子へと戻っていった。
「いきなり何を聞くのかと思えば・・・。首座ともあろうものが、そんなことも知らぬのか?それでよく職務が務まるものだな。感心なことだ」
いつもの如く揶揄する響きも露わな言葉を返しつつ、長椅子にその長身を預ける。しかしそれは殊更にいつものように振る舞おうとしているのに過ぎなかった。その証拠に濃紫の瞳には常にない翳りが宿っている。
 ジュリアスは目を眇めて気怠げな仕草で長椅子に身を預ける様を見つめていたが、すぐに視線を逸らして窓の外に広がる町並みを見遣り、
「私はそなたの忌憚なき意見を聞きたいのだ。戯れ言はよすがいい」
小気味よいその口調とは裏腹に、蒼い瞳にはやはり翳りの色が濃く、今は嵐の大海を思わせる暗い色合いを見せていた。
 たとえその顔を見ることがかなわなくとも、その口調から不安定な心の内を感じとり、闇の守護聖は重いため息をつく。
「正しき『闇』。・・・・・・。そうだな。それは『恐れ』と『安らぎ』、この相反するものを矛盾なく内包するものとでもいうべきか。人は皆、無意識のうちに『闇』に潜んでいるであろう災いを恐れ、また『闇』に包まれて一時の安息を得ることを良しとする。『闇』に抱かれて得られる安らぎは、最も『死』に近しいものであり、また、『死』そのものをも意味する。ゆえに、人は『闇』に『恐れ』を感じ、また、『安らぎ』を求めるのだ」
ここで一旦言葉を切り、クラヴィスは窓際に佇む姿を見つめたが、ぴんと背筋を伸ばした背中は微動だにせず、ただひたすら窓外へと視線を注ぎ続けていた。生真面目と言えば聞こえはいいが、実に頑固な光の守護聖は、人の話を聞くときも常に真剣そのものだ。それがいつもの彼らしい態度であるのだが、今はどうしたことだろう。聞いているのかいないのか。恐らくは聞いているのであろうが、その反応の無さ、無関心な様子に、闇の守護聖は戸惑いを覚えた。しかしそれは表情に出ることはなく、クラヴィスは言を継ぐ。
「しかし、この星に満ちている『闇』は、その身の内に『恐れ』しか抱いておらぬ。『安らぎ』を持たぬものなど、『闇』とは呼べぬ。これは私の司る力とはまるで異質なものなのだ。異質であるがゆえに、正しき『光』たるおまえをそのように責め苛み、蝕んでゆこうとしている。そして、正しき『光』ゆえに、おまえにはその浸食を止める手だてがない。際限なく『闇』が『光』を求めるなど、本来ならばあり得ぬことだ。『光』と『闇』。これらはバランスよく存在しておらねばならぬ。だが、ここではそのあり得ぬことが起きている。それほどに、この『闇』は歪みきっているのだ」
そう締めくくったクラヴィスは軽く目を瞑り、どさっと長椅子の背もたれにその背を預けた。
 その音を聞きつけたジュリアスは室内へ視線を戻し、片手で顔を半ば覆って軽く仰け反っている、珍しくしゃべり過ぎて疲れたと言わんばかりのその態度に笑みを誘われた。が、すぐにその笑いを収めて一切の表情を消したきつい表情を浮かべると、
「では、その歪みを正しき方向に導く術はない、と?」
多分すでに何か策を考えているであろう相手にさらに問いかける。ことが『闇』の範疇だけに、異なる力を司る自分では適切な対処方法が判断しきれず、そしてそんな自分が歯がゆくて仕方がなかった。その思いが口調に出てしまっているのだろう、クラヴィスがそっと苦笑を浮かべるのを、紺碧の双眸が捉えた。
「いや、術はある」
笑いを隠そうとせず、闇の守護聖が短く応じる。
「それは?」
打てば響くような問いかけにさらに苦笑を深くし、クラヴィスは静かに窓際に佇む姿を見遣った。

 

 

 
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