〜 アンジェリーク 〜
翌早朝。
問題の惑星へ赴くため、次元回廊が開かれる場所まで足を運んだクラヴィスは、一瞬息を呑んだ。
先に来ていた光の守護聖が誰だか判らず、そして次の瞬間それがジュリアスであることに思い至り、驚いた。髪の色が違うだけでこうも周囲に与える印象が異なるのものなのかと、驚いたのだ。
その身に纏う衣装は執務を離れた時の平服で、それ自体は見慣れたものなのだが、腰まであるその髪が、今は自分と同じ闇色に染められている。ただそれだけのことなのに、同じ顔かたちをした別人がそこに居るのだという錯覚を覚えてしまいそうになった。
「久方ぶりの早起きで、まだ眠気がとれぬのか?」
自分をじっと見つめたまま何の反応もしない相手を怪訝に見つめる紺碧の瞳だけがいつもと変わらず、強い光を湛えている。顔を縁取る闇色のなか、天空を思わせるその蒼い瞳だけがいつもの通りだった。
二、三度目を瞬かせたクラヴィスは軽く吐息をつき、黙然とジュリアスの傍らに佇んだ。
その場に居合わせた女王補佐官ディアはクラヴィスの戸惑いを理解し、そっと微笑む。自分とていつもとまるで印象の違う首座の姿に違和感を強く感じているのだが、それが自分一人だけではないことに笑みを誘われたのだ。
「ジュリアス、クラヴィス、あなた方がこれから赴こうとされている惑星は、惑星全体を包みこむようにして電磁波障害が起きているとの報告が王立研究院よりもたらされました。つまりこちらとの交信手段が一切ないことになります。ですのである程度の時間を区切り、こちらからお二人の許に迎えをよこしたいと思います。よろしいですか?」
さっと優秀な女王補佐官としての凛然とした態度に改まったディアは、最後に確認した。
「あちらの時間で約一週間後、お二人をお送りした地点に再度次元回廊を開く手はずを整えておきます」
ですからそれまでにはそこにお戻りになっていてくださいねと告げる声音は、少し不安げだった。
首座と次席を務める筆頭守護聖が両名ともに聖地を離れることなど、滅多にないのだ。危急の際に判断を下さねばならない立場の人間が二人共にいなくなるのは得策とは言い難い。
それでもこれから二人が訪れる惑星の問題点が『光』と『闇』に関わることである以上、この決定は覆しがたいものだった。
「それでは、お二人ともよろしいですか」
耳に心地よい穏やかな声音がそう問いかけた。
光と闇の守護聖は同時に首肯する。
ディアは手にしていた錫杖をそっと掲げ高らかに告げる。
「それでは次元回廊を開きましょう。女王陛下の御心のままに」
振り下ろされた錫杖の指し示す先に、音もなく大きな扉が現出する。
恐れる風でもなく、ジュリアスは大きく開かれた扉の向こう側へ足を一歩踏み入れる。
「ジュリアス」
その背中へクラヴィスは無意識のうちに呼びかけていた。
何だと言いたげに振り返ったジュリアスはふっと微笑んだ。紺碧の双眸に少々不安げな顔つきの闇の守護聖が写っていた。
最近お目にかかることの少なくなった柔らかい微笑みにはっとした闇の守護聖は、軽く頭を二、三回振り、自分の心に忍び込んだ言いざし難い翳りを振り払うと、いつものように少々重たげな足取りで扉の内側へ踏み込んだ。
ディアの目の前で次元回廊の扉が静かに閉じていく。
「お二人ともどうかご無事で」
無意識のうちに紡がれた言葉は、不安の翳りに揺れていた。
◇
次元回廊が開かれたのは、惑星でも中規模程度の人口を有する都市を眼下に見下ろすことの出来る小高い丘の上だった。
空は晴れやかに澄み渡り、惑星に起きている異常事態など感じさせるものなど何ひとつ感じられなかった。
最初に惑星に降り立ったのはどうした不思議か、後から回廊へ足を踏み入れたクラヴィスだった。
惑星の大気をその頬に感じた途端、闇の守護聖の黒水晶の瞳が滅多に見せない焦りの色を浮かべ、背後を振り返る。その視線の先、少々遅れて光の守護聖が地を踏みしめた。
緩やかに波打つ長い髪は漆黒で、常とはあまりにも異なっていたが、それでも身の内より溢れくる『光』の気配は押さえようがなく、彼が光の守護聖であることを声高に告げていた。
自分を見つめる視線の強さに、ジュリアスは戸惑いを覚え、
「クラヴィス」
相手にそっと呼びかけたつもりだったが、それは叶わなかった。
惑星に降り立ったと思った瞬間、万力で全身を締め上げられるかのような圧迫感がジュリアスを襲ったのだ。
名を呼ぼうと開きかけたその唇から洩れるのは、苦鳴にも似た喘ぎばかりで上手く言葉を綴れない。自分が今、呼吸をしているのかしていないのか、大地を踏みしめて立っているのかいないのかすらジュリアスは判らなくなっていた。
ただ感じるのは、自身を苛む冷たい波動、そして暗黒。それは自分の知っている闇とはまるで異なる不気味な気配だった。
突然の強い衝撃に、ジュリアスは己の意識を保つことが出来ず、そのまま気を失ってしまった。
ぐらりと倒れかけたジュリアスをクラヴィスは咄嗟にその手に抱きとめ、その身体が地面に叩きつけられるのをあわやと言うところで免れた。抱きとめた身体を大事そうに抱えたまま、クラヴィスは衣装が汚れるのもお構いなしに草地に腰を下ろし、完全に意識の失せてしまった相手の身体を抱え直す。腕のなかでがくりとのけ反ったその顔は、血の気がまるで失せていた。
そのまましばらくの間、ジュリアスの意識が戻るのを待っていたが一向に目覚める気配はなく、クラヴィスは仕方ないと言いたげにため息をひとつつくと、その身体を抱きかかえるようにして眼下に広がる都市へと目指して歩みだした。
◇
ジュリアスが意識を取り戻したのは、夜も大分更けた頃合いだった。
紺碧の双眸に見慣れぬ天井が写り、未だ意識が覚醒しきっていない頭には現状が把握できなかった。何故か異様に重く感じられる身体を意志の力で無理矢理動かして寝台から降りようとしたところへ、よく聞き慣れた声が聞き慣れない響きを宿して鼓膜を震わせた。
「無理はするな。もう少し休んでいろ」
声のした方向へ視線をやると、見慣れぬ衣装に身を包んだ闇の守護聖が佇んでいた。その手にはなにやら食器を持っている。
「私は一体どうしたのだ?」
と問いかけたつもりだったのだが、舌が縺れてしまって上手く言葉を操れず、声も掠れてしまっていていつもの凛とした響きが欠片もない。それに衝撃を受けたジュリアスは大きく目を瞠り、己の喉元に手をやった。自分の身に一体何が起きているというのだろう。
動揺も露わなその姿にクラヴィスは重く吐息をつくと、手にしていた食器を傍らの小卓に一旦置き、寝台の横に置かれた、恐らくは自身で運び入れたであろう長椅子に腰をおろした。そして翳りを帯びた蒼い瞳を見つめた。
不安げな光を宿した蒼い双眸が縋るように、黒とも見紛う濃紫の瞳を見据える。それを認めた途端、クラヴィスは下唇をそっと噛みしめた。
(すでにこの星の影響を受けはじめているのか)
そうでなければこのような気弱げな様子など人前で晒すような人間ではないことは、つきあいの長いクラヴィスにはよく判っていた。例え心の奥底ではどれほど苦しんでいようとも、そういった素振りを決して見せようとはしない性格であることを知っていた。
それが今は一体どうしたことだろう。容易く脆い面を見せている。
それが知らしめる事態の深刻さに、クラヴィスは焦りを感じずにはいられなかった。
「おまえはこの星に来るべきではなかったようだ」
濃紫の瞳を長い睫に半ば隠しながら、闇の守護聖は低く呟いた。
「何?」
いつものように小気味よく問い返したつもりのジュリアスだったが、実際には聞き取りにくい掠れがちの声が小さく洩れるのみだった。
「この星の『光』と『闇』のバランスの崩れが原因なのか判らぬが、『闇』の性質が大きく歪んでしまっているのだ」
淡々と自分がこの星に降り立った時より感じたことを、クラヴィスはなるべく相手にも判るような表現を選んで口にする。
「感じられぬか?歪みきった『闇』が絶え間なく、おまえの身内より溢れくる『光』をいっそ貪欲なまでに貪っているのが・・・」
そう問われ、ジュリアスは少し考え込む顔つきになった。目覚めた時より何故かあらゆる行動が億劫で何もしたくないという気分に襲われて仕方ないのだ。それを不思議に思いこそすれ、その原因について考えようとしない時点ですでにジュリアスはいつもの彼ではなかった。
「この星・・・に・・・降り立った・・・・・・時に・・・感じた・・・・・・圧迫・・・感が・・・・・・それ・・・か・・・・・・」
縺れた舌を精一杯操り、やっとの思いでジュリアスはそう返答する。鈍りがちな思考をそれでも一生懸命回転させてそれだけの言葉を口にした。
重々しいため息をつきつつ、クラヴィスは寝台へ横になるよう促し、ジュリアスはそれに素直に従った。
「そうだ。『光は闇より生じ、光は闇の内へと還る。然し光なくして闇は存在し得ず』。これが『光』と『闇』の正しき在り様だ。だが、ここでは違う。『闇』は一方的に『光』を貪り、搾取し続けているのだ。『光』は『闇』より何も与えられておらぬ。ゆえにこの星の『光』は貪られるままにその姿を消していく。そこへおまえが現れたのだ」
クラヴィスは一旦言葉を切り、痛ましげな視線を『光』を司る者へと注いだ。こうしている間にも刻一刻、その身内から強引に『光』を奪われ続けているであろう人物を見遣る。
「このままだと、おまえの身が危うい。だが、聖地へ戻れるのは・・・」
ジュリアスはふっと苦笑を浮かべると、口にしても詮無きことを言うものでもないと囁き、そっとその両目を閉じた。
あまりにも唐突な出来事にクラヴィスは慌てて立ち上がり、己の手をそっと寝台に横たわるその胸元へ持っていった。その手のひらに確かな鼓動が伝わってくる。どうやら疲労のあまりジュリアスは眠りに就いただけだったようだ。
何とも紛らわしいことをと、苦笑交じりに寝顔を見つめる濃紫の双眸に強い光が浮かんでいた。
「おまえを失うわけにはいかぬ。宇宙も女王もおまえを未だ必要としているのだ」
どんな手段をとろうとも一緒に聖地へ戻るのだと、クラヴィスは一人固く決心するのだった。
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