〜 アンジェリーク 〜
予想していたよりも容易に歪みを修整できたことにジュリアスが気を緩めた瞬間、誰かがジュリアスを思い切り突き飛ばし、予想外の出来事に咄嗟に反応できなかった身体が地面に強か打ちつけられていた。そして気がつけば、痛みのあまり一瞬息をつまらせた光の守護聖の首筋に、ぞっとするほどに冷たい手がするりと絡みついていた。
「クラヴィス!?」
自分を地面に組み敷いているのが闇の守護聖だと素早く悟ったジュリアスは驚愕も露わにその名を呼んだが、濃紫の双眸には暗い翳りが宿るのみだった。
氷のように冷たい指先が頸動脈を求めてゆっくりと動いていく。そしてその指が確かな鼓動を探り当てたと思った途端、徐々に力が籠められていった。
殺意の籠もったその行為にジュリアスは敏感に反応し、力の限り闇の守護聖を突き飛ばしてその魔の手から必死に逃れた。
「クラヴィス!正気に返れ!!
闇の守護聖が正気を失っていることに気づいたジュリアスはその名を叫んだが、それが相手に届くことはなく、クラヴィスは無表情のままゆらりと立ち上がり、逃した獲物を再び手中に収めようと歩み出す。
疲弊しきった身体ではそれほど長く逃げられるはずはなく、かといって相手の思い通りになる訳にもいかず、ジュリアスは葛藤する。崩壊しかけているこの宇宙を少しでも長らえさせるためにも、このようなことでクラヴィスも自分もその命を喪う訳にはいかなかった。
ゆっくりと、だが確実に闇の守護聖は歩んでいく。その視線はまっすぐ光の守護聖という獲物を捉えているが、黒水晶の双眸に宿るのは限りない虚無と限りない憎悪だった。
その視線を見返した途端ジュリアスは全身を総毛立たせ、その場に硬直してしまった。日頃のクラヴィスは怠惰を決め込んでいることが多く、時には虚無的な眼差しをしていることがあるのだが、それでもそこには確かにクラヴィス自身の意志が存在していた。しかし目前に佇み、自分に殺意を抱いている人物からはその意志が一切感じられなかった。
そこにあるのは、純粋な憎悪、怒り。
今までに感じたことがないほどの凄まじい思念に、ジュリアスは身動きがとれなくなってしまっていた。
冷たい手が、再度獲物を捉えようと伸ばされる。
ジュリアスは反射的にそれを避けようと身動いだがそれは叶わず、あっさりと死の抱擁に囚われる。傍目には熱い抱擁にも見える光景だったが、それはジュリアスの死を意味する行為だった。
抱擁された途端、ジュリアスは懐に何か固いものがあることに気づき、それが何であるのか思いだした途端、瞠目する。そしてジュリアスの顔がさっと青ざめた。
「そなた!」
先日、闇の守護聖は何も言わずに短剣をジュリアスに与えていた。そしてつい先刻闇の守護聖が口にした言葉。
『これから後の命運は、すべておまえにかかっている』
ジュリアスはその意図を察し、思い切り叫んでいた。
「正気に返るのだ!私にそなたを傷つけるような真似をさせる気か!!」
しかし正気を失っている相手にそんな言葉が届くはずはなく、クラヴィスは無表情のまま必死の色を浮かべている紺碧の双眸を見つめる。
漆黒とも見紛うその瞳を見返した途端、背筋を駆け抜ける冷たい衝撃。ジュリアスは渾身の力を込めて再度相手を思い切り突き飛ばしていた。
かなり強く地にたたきつけられているはずなのだが、闇の守護聖の表情は一切動かず、幽鬼の如き体重を感じさせない仕草でゆらり立ち上がる。そして少し遠くに逃れた獲物目指してゆっくりと歩み出す。
「クラヴィス!!」
ジュリアスは懐中にあった短剣を取り出すと思い切り遠くへと放り投げた。相手の身を傷つける道具など身につけている訳にはいかなかった。もし万が一、何かの拍子にそれが守護聖二人の命を奪い去るようなことになれば、崩壊しかけているこの宇宙も、そしてそれを必死に支えている女王も、ただでは済まないだろう。守護聖として、それは最も回避しなければならないことだった。
ジュリアスの行為を見ていたクラヴィスに僅かに表情が生まれる。ともすれば見逃してしまいそうなほどの微かな変化だったが、ジュリアスはそれに目聡く気づく。
「クラヴィス!」
相手が正気に返ってくれさえすれば無用な争いは避けられるのである。ジュリアスは必死に相手の名を呼んでいた。
声に促されるかのように、闇の守護聖の動きに乱れが生じ、足が止まる。しばしの逡巡。しかしそれもさほど長くは続かず、じきにジュリアスを求めて歩み始める。
現状を打破する術を見いだせず、蒼い瞳に苦悩の色が浮かんだ。明晰な頭脳をフル回転させてジュリアスは自分がこれからとるべき行動を模索した。
やがて光の守護聖は、宇宙の安寧になるべく翳りを落とさないようにするには二人がともに命を落とさなければいいのだと判断し、そしてこれから訪れるであろう数多の終焉を少しでも安らかなものにするために必要なのは、『光』よりも寧ろ『闇』のサクリアであろうと考え、生き残るべきは闇の守護聖だと潔く決断した。自分が突然いなくなっても闇の守護聖さえいれば、さほどの混乱をきたすことなく執務は執り行っていけるはずだと、ジュリアスは確信していた。
闇の守護聖が常に恐れている自己への執着心のなさが、感情よりも理性を優先させがちな性質が、苛烈な判断を光の守護聖にとらせようとしていた。しかし正気を喪っている以上、クラヴィスにはそれを止める手だてはない
再び闇の守護聖は光の守護聖の元へと辿り着き、冷たい指先をそっと首筋へとのばし、確かな脈動を伝えてくるその部分を探り当てた。しかし最早ジュリアスにはクラヴィスから逃れる意志はなく、存外穏やかな表情でこれから死をもたらすであろう相手を見つめた。
黒とも見紛う濃紫の双眸に宿るのは、憎悪、そして虚無。
紺碧の瞳が今度はそれに気圧されることなく真っ直ぐ見つめ返した。そしてジュリアスの口元がふと苦笑を形作る。
「私がいなくなったら、そなたも少しは悲しんでくれるのだろうか?」
犬猿の仲だと言われて久しい間柄ではあるが、二人は幼い頃からともに聖地で暮らした幼なじみの関係である。その片方が失われたとき、残された方はどんな思いを抱くのか。ジュリアスは一瞬、それを知りたく思った。
死をもたらす指先に力が籠もる。
息苦しさとともに急速にジュリアスの意識が遠ざかっていく。
クラヴィスの指先がジュリアスの胸元にある二つの指輪を通している金鎖に触れた瞬間、指輪に嵌めこまれている石が微かに輝いた。
一瞬、闇の守護聖の顔がはっきり歪んだ。しかしその輝きが失われると同時に表情はかき消えてしまった。
その一瞬の葛藤を表すかのように微かに揺るんだ指先に再び力が込められ、ジュリアスは満足に息をすることができず、意識がさらに薄れていく。すでに紺碧の双眸は焦点があっておらず、恐らくは周囲の状況など映してはいないのだろう。
だらりと地面に伸びる腕。ぐったりと闇の守護聖に預けられた身体。血の気の失せたその頬を一筋の涙が伝い落ちていった。
涙はそのままクラヴィスの手へと伝っていき、偶然にも指輪を濡らした。
それがどんな効果を生みだしたのか。
指輪は再度輝きを発しだした。先刻のように淡くではなく、その存在を誇示するかのように強く輝きだす。
そのあまりの眩さに闇の守護聖は殺意の象徴であるその手を放し、よろよろと数歩その場から後じさった。
力の失せた身体を支えていた人物に突如放りだされたジュリアスは強かに身体を地面に打ちつける。突然確保された気道からどっと空気が流れ込み、ジュリアスは激しく咳き込んだ。やがてどうにか呼吸を整えることに成功したジュリアスはクラヴィスを探して視線を周囲に巡らせる。そして苦しさのあまり潤んだ蒼い瞳が捉えたものは、全身から紫色の燐光と黒い霧状のものを交互に立ちのぼらせている闇の守護聖の姿だった。
「クラヴィス!」
必死に呼びかけたつもりのその声は掠れていたが、それでもその声音は相手に届いたらしく、黒水晶の瞳がジュリアスを見返す。それに気づいたジュリアスは一縷の望みを抱いて再度その名を呼んだ。
「クラヴィス!!」
それに呼応するかのようにジュリアスの胸元で指輪が輝きを強める。
その輝きから逃れようとしているのか、クラヴィスはのろのろ自分の面前に手を翳す。
その仕草が意味することを悟った光の守護聖は未だ悲鳴を上げている身体に鞭打って立ち上がると、金鎖から指輪を抜き去りつつ闇の守護聖の元へと歩んでいった。そして同時にサクリアを高めていく。するとそれに反応して指輪の輝きもより強くなっていくのだった。
二つの意識が身体の主導権を得ようとせめぎ合っているのか、闇の守護聖は硬直したようにその場に佇んでいる。
疲労困憊のジュリアスはやっとの思いでその傍らに辿り着くと、紺碧の双眸を微妙に翳りを帯びている白皙へと真っ直ぐ据え、大きく息を吸い込んだ。身のうちに可能な限り高められた『光』を感じたジュリアスは淡く微笑み、そっと相手の手を取るとその指に蒼い石のはめこまれた指輪を通す。
蒼い瞳に浮かぶ思いに気づいたのか、今まで負の感情のみを宿していた濃紫の双眸が揺れた。
「ジュ・・・リア・・・・・・ス・・・・・・」
闇の守護聖の唇が震えながらも一つの言葉を紡ぎだす。
「そなたに『光』の祝福を」
そんな相手の言葉が聞こえたのか、ジュリアスは優しい声音でそう告げると硬直しているクラヴィスの身体を優しく抱擁した。そして次の瞬間、二人の身体から目映い黄金の輝きが天高く向けて立ち上った。
それは光の守護聖が司る『光』の爆発だった。
その光輝を見るものがいたならば、瞼を指し貫く強い光に思わず顔を背けたほどにそれは強い光だった。
『光』は不浄のものをうち砕く破魔の力を有しており、『光』に溢れた指輪の輝きに闇の守護聖を支配していた意識が恐れを感じたことから、ジュリアスは故意に己の力を解放したのである。
ジュリアスは迷うことなく己の司る『光』を、『光』と『闇』に溢れた石を媒介にして闇の守護聖へと注ぎ込んだ。
光の奔流の中央、二人の長い漆黒の髪が空にむけて舞い上がる。
『光』が祓うのは正しき理から外れている不浄のもの、悪しき思念。すなわち『魔』である。そして『魔』が恐れるのは純然たる『光』。
いくらその身を『魔』に侵され支配されていようが、そう易々と闇の守護聖が『魔』に堕することなどあろうはずはなく、それを確信していてこそ光の守護聖は行動したのだった。
本来であれば光の守護聖にとってそれほどの労力を必要としない行為だったが、疲労の極致に達している今、強大なサクリアを制御下に置くという行為は、その心身を大いに削りとっていった。そしてそれは現実的な痛みとなってジュリアスの心臓を指し貫いた。
「くっ!」
想像以上の苦痛に涙を浮かべた蒼い視線の先でクラヴィスから立ちのぼっていた黒い霧が徐々に薄れていく。
「クラ・・・ヴィ・・・ス」
吐息とともにその名を微かに呟くと、ジュリアスはその場に頽れる。負荷のかかりすぎた心身が悲鳴をあげ、これ以上の負担がかからぬよう抵抗したのであった。
最後のあがきを示すかのように黒い霧と化した『魔』が、倒れ伏した光の守護聖の身体を包みこむように覆い被さっていく。普通であれば抵抗を示すであろう意識が喪われているため『魔』が滑りこむのに丁度良い具合だった。
『魔』が体内へ滑りこもうと触手めいた霧を胸元めがけてするするとのばした途端、ジュリアスの耳で紫水晶のピアスが光り、触手をはね飛ばした。『闇』の守りが『魔』を払い除けたのだ。
「残念だが、おまえに与えるわけにはいかぬ」
そんな低い囁きが『魔』に届いたのかどうか。次の瞬間、『魔』が形作っていた黒い霧を濃紫の燐光が包みこみ、粉々に粉砕してしまった。
霧がうち砕かれる瞬間、濃紫の双眸に暗い翳りが宿ったが、すぐにそれは消え失せ、微かに憂いを帯びた黒水晶の双眸が霧の存在していた空間を静かに見据えていた。
闇の守護聖は『魔』に浸食され疲労しきった身体を引きずるようにして光の守護聖の元に辿り着くと、力無くその場に腰をおろした。そして倒れている相手の顔を覆う漆黒の髪をそっと払い、その顔が穏やかなことを確認する。
「まったく・・・世話を焼かせてくれる」
吐息混じりにクラヴィスはそうごちた。
濃紫の視線の先、ジュリアスはいつ果てるともしれない深い眠りに就いていた。
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