〜 アンジェリーク 〜

【歪み・12】

 

 『黒の忌石』が封印されていたという土地には、一片の草木も生えてはいなかった。生きとし生けるすべてのものが石の生みだす毒気に耐えきれなかったのか、目前には荒野が広がるばかりだった。そしてその地のほぼ中央に、石造りの祠が鎮座していた。
 不毛の地と化した土地を見つめる濃紫の双眸が何かを堪えるように微かに翳りを帯びたのだが、体調が万全とは言い難いジュリアスはそれに気づく余裕がなかった。
「それでは、行くぞ」
短くそう宣言すると、光の守護聖は昂然と頭をあげ、祠へとその歩みを進めていった。一歩一歩足を運ぶ毎に徐々に強まっていく圧迫感に耐えながらもその歩みが止まることはなく、そしてそのすぐ後ろを、闇の守護聖は歩んでいた。
 自分のことで精一杯のジュリアスには自分のすぐ後をついてきているクラヴィスの方へ意識をむける余裕がなく、従って闇の守護聖の顔つきがいつにもまして表情に乏しいことに気づくことができなかった。自分の後を遅れずに歩んできているということがそんな油断を招く原因になったといっても良かった。
 表情をほとんど変えることはなかったが、クラヴィスは耐えていた。恐らくはジュリアスが耐えているであろう圧迫感と同等かそれ以上のものに、耐えていた。祠を目にした瞬間から際限なく自分を求める瞑い声音に耳を傾けないよう、ともすればひきこまれてしまいそうなほど魅惑的に響き渡る誰のものとも知れない声から意識をそらすのに全力を尽くさなければならなかった。
 祠にたどり着いたクラヴィスは、極力何気ない仕草に見えるよう細心の注意を払いつつ、なかに納められている『黒の忌石』に手を伸ばした。
 ジュリアスはそれを表情を変えることなく見守っている。
 闇の守護聖の手に一見するとただの黒曜石にしか見えない小さな石がひとつ収まった途端、石が小刻みに震えだした。それはクラヴィスの放つ『闇』の波動と、石が放つ毒気とが、互いに互いを抹消しようと激しくぶつかりあっているせいだった。
 クラヴィスの顔つきがやや険しくなる。
 それを認めた光の守護聖はすかさず己が司る『光』を石にむけて注ぐ。すると石がぴしりと小さく音をたてて見る見るうちにひび割れていった。闇の守護聖の司る『闇』とようやく均衡を保っていた毒気が新たに加わった『光』の圧力に耐えきれず、崩壊したのだ。
 それを見届けたジュリアスは一瞬表情を緩め、クラヴィスの顔を見つめた。思ったよりも簡単に石を破壊できたことに安堵のため息をついた。しかし紺碧の双眸が認めたのは未だ緊張を孕んだままの濃紫の瞳。これからが正念場であることを思い出したジュリアスは表情を改めた。
「一気に『闇』を引き上げられたこの星がどうなるのか。それは私にも想像がつかぬ」
クラヴィスは低く呟きながら、手のひらに残された石の欠片を懐から取り出した小さな袋へしまい、衣装が汚れるのも構わずその場に腰をおろし、胡座をかく。
「そして、この歪んだ『闇』を我が身に受けた私がどうなるのかも・・・」
言いながら闇の守護聖はゆっくりと瞑目した。
「これから後の命運は、すべておまえにかかっている。それを忘れるな」
低くそう囁くと、次の瞬間、クラヴィスは惑星全体にむけて自分の意識を解放した。すると長いその髪が風もないのにそよぎ、全身から紫色の燐光が立ち上った。
 凄い勢いで惑星から『闇』が引き上げられるのを感じたジュリアスは、クラヴィスの囁きに心を残しながらも、急速に失われつつあるサクリアの均衡を保つための行動に移った。その場に跪いて両手を胸の前でそっと組み、ややうつむき加減に瞑目する。そして闇の守護聖同様、自分の意識を惑星全土に向けて解放した。その途端、ジュリアスの髪が風もないのにふわりと宙に舞い、やはり全身から黄金色の輝きが放出されはじめる。

 惑星全土に向けて解放された意識のなか、クラヴィスは一旦引き上げた『闇』から自分とはなじまぬ異質な気配を探り当てるとそれを己の内へと取り込み、自分の司る正しきそれに修正したものを再び惑星へと戻していった。そしてその間空白と化した部分へ惑星のサクリアのバランスを崩さぬように注意を払われた『光』が注がれては引き上げられる。
 光と闇の守護聖は細心の注意を払いつつも大胆にバランスを整えていく。それは、この場に他の守護聖たちが同席していたら舌を巻くほどの緻密な作業だった。それを二人は顔色一つ変えず、普段の仲の悪さがまるで嘘のような息の合った連携ぶりで淡々と行っていた。

 歪んだ『闇』から取り除かれた異質な部分が自分の元へと残されていく度、クラヴィスは己の身の内に蓄積していく瞑い想いから意識を引き剥がす努力をしなくてはならなかった。歪んでしまっているとはいえ、元は闇の守護聖の分身とも言うべき『闇』だったものであり、歪みの元となった異物はそんな『闇』にしっかり浸透していたのである。そのためか、じわじわとだが確実にその歪みはクラヴィスに親和し、その意識を蹂躙していった。それにいくら抗おうにもその根底にあるのは自らの司る『闇』であり、それを変えることができない以上クラヴィスには逃れようもなかった。

 歪みが内包していた恐るべき罠にジュリアスは気づかず、少しでも惑星に悪影響が及ばぬよう己のサクリアを調整することに全神経を傾けていた。いつもならば自分の傍らにある『闇』の気配が淀んでいくのが感じ取れたはずなのだが、如何せん体調が悪すぎてその余裕が残されていなかった。

 永劫とも思えるその行為に費やされたのは、実際にはほんの数瞬に過ぎなかった。
 それでもその瞬間、世界は止まった。

 惑星全土に及ぶ『光』と『闇』の大規模な干渉に、生きとし生けるすべてのものが天空を見上げた。

 目に見えぬ何かに恐れ戦いていた心がすっと軽くなるのを無意識のうちに感じた人々の口許に優しい微笑みが宿っていた。
 目に見えぬ何かに警戒心を抱いていた動物たちの表情から緊張感が消え失せ、どこかぎこちなかったその動きにのびのびとした躍動感が戻っていった。
 目に見えぬ何かから身を守るように縮こまっていた植物たちも脅威が去ったことを敏感に感じ取り、さんさんと降り注ぐ陽光をその身いっぱいに受けようと勢いを取り戻していった。

 

 

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