〜 アンジェリーク 〜

【歪み・11】

 

 用意された客室で明日に備えて休息をとろうとしたのだが、神経が高ぶってしまっているのか、ジュリアスはなかなか寝つけずにいた。
 隣の寝台の闇の守護聖はすでに眠りの淵にいるようで先ほどからぴくりとも動かない。
 寝返りをうった途端に視界に入ってきたその姿を半ば恨めしげに睨みつけると、ジュリアスは仰向けになって天井に視線を固定した。その唇から物憂げなため息がふと漏れた。
(そう、自分にはクラヴィスに乗馬を教えていた、いや、クラヴィスと一緒に乗馬を習っていた時期が確かにあったのだ。それは未だ二人がとても幼い時分だったが)
 そっと目を閉じると、驚くほど鮮明に幼い頃の姿がジュリアスの脳裏に甦ってきた。
(遠い記憶の彼方のなか、一人静かに過ごしている漆黒の髪の少年を無理矢理馬場へと連れだして、強引に馬に乗せた思い出が、確かに己の心のうちに存在している)
 人と触れあうのが不得手なのか、常に独りで過ごしているその姿を見ていると無性に苛々してしまい、ジュリアスは強引に自分よりいささか小さいその手をひっぱり陽光のもとへ幾度となく連れ出していた
(あの頃、自分はどうしてあれほどまでに熱心にあんなことをしていたのか)
今となってはとうてい理解しがたい思いに引きずられるまま、毎日のようにそんなことをしていた気がする。
 態度ではいささか迷惑そうにしていたが、それでもクラヴィスはあからさまに文句を言うことなく、熱心に色々なことに自分を誘おうとするジュリアスにつき合っていた。
(しかしそれもそれほど長くは続かず、いつしか自分たちの距離は離れていってしまった。決して互いの存在が疎ましかったわけではなく、ただ、同年代の子供に対する接し方がよく判らずにいただけだったのに)
不幸にもジュリアスの周囲にいたのは大人ばかりであり幼い頃より彼は“光の守護聖”らしくあることを求められ、そして彼は次代の首座を務める者として子供らしい振る舞いを許して貰える状況にはいなかった。
 いつしか二人は互いに互いの考えの相違についていけなくなり、必然として行動を共にすることが減っていった。互いに理解し合おうと努力をしてみてもそれはいつもすれ違ってばかりで、二人はそれを悲しいと思いながらも、やがて諦めるということを覚えていった。
(そう、そんなことが積み重なっていく内にお互いに遠ざかっていき、気がつけば現在のように修復不可能なまでに遠い存在と化してしまっていたのだ)
 若さからか、互いの意見の些細な食い違いが許せず、二人は徐々に互いを相容れない者と思い始めていたが、それでも互いが相手にどんなことを望んでいるのか声にせずとも判ってしまい、そのことが二人を苦しめてもいた。それほどに二人が共に過ごした時間は長い。
 それでも二人は歩み寄ろうと努力はしていた。しかしそれはある日を境にばたりと止んだ。
 あの日の出来事。
 懸命に分かり合おうとそれなりに努力を重ねてきたにも関わらず、それが功を奏さないことに諦念を漂わせ始めていた二人の仲を決定的にしたのがあの日の出来事だったのかもしれない。 そう思った途端、湖の畔で自分を鋭い眼差しで睨み据えていた今よりも幾分若い闇の守護聖の姿が浮かび、ジュリアスはそっと睫毛を伏せた。
 長い時間が過ぎ去ったというのに、現女王の女王候補時代に起きたその出来事を思い返すにつけジュリアスの心に苦い思いが走るのだった。
(自分は今でも、あの時のことを後悔しているのだろうか?)
紺碧の瞳に痛々しい光が宿る。そして無意識に漏らしたため息は重苦しいものだった。

 不毛にも思える暗い思考を振り切るように頭を振り、視線を天井から引きはがした途端、黒水晶の瞳と視線があった。
「眠れぬのか?」
静寂に包まれた部屋に相応しい落ち着いた低声が響く。
「・・・いや」
起きているとは思わなかった相手から唐突に声をかけられ、一瞬動揺したジュリアスではあったがすぐに気を取り直し、眠りを妨げないよう極力落とされた照明に浮かび上がる白皙を見つめ返した。
「これから寝ようと思っていたところだ」
声音に潜む何かを感じ取りながらもクラヴィスは特に何も言わず、ただそうかとだけ呟き、再び瞼を閉ざした。
 それを見届けたジュリアスはため息をひとつ漏らすと、少しでも眠りに就くために目を閉じたのだった。

 翌朝、ジュリアスは不本意にも闇の守護聖に起こされるという形で目を覚ました。十分とは言えない睡眠の弊害による重い頭を軽く振りつつ窓外へと視線を投げれば、すでに日は高く昇っており予定していた時間を大幅に過ぎてしまっていることを声高に告げている。それを知った光の守護聖は眉間にしわを寄せた。そして寝台の傍らで佇む闇の守護聖を睨みつける。
「・・・・・・、どうしてもっと早く起こさなかった?」
自分を起こした人物の身支度はすっかりできており、そのことから相手が目覚めてからすでにかなりの時間が過ぎているだろうことは容易に推察できた。恐らくは体調の優れない自分を気遣っての配慮だったのだろうが、それはジュリアスの誇りに抵触するものだった。
「我らには時間があまり残されておらぬのだろう」
本調子とは言い難くひどく重く感じられる身体をどうにか寝台に起こしたジュリアスは、長い漆黒の髪を乱雑に掻き上げつつ、黙然と佇むクラヴィスを不機嫌に見遣るが、そんな態度に動じる相手でもなく、闇の守護聖は館の主が用意した着替えをすっと差し出すと、そのまま踵を返して部屋を出て行ってしまった。
 その反応なさに気勢をそがれたジュリアスは渋面のまま身支度を整えるしかなかった。

 それから二人は賢者の若者が用意してくれた馬車に乗り、目的地へと向かった。
 目的地までは二日ほどの距離だったが、その間、光の守護聖は疲弊した身体を休めるためにか、ほとんどの時間を眠り続けたのである。
 「ジュリアス、目を覚ませ。食事の時間だ」
幾つか食器が載せられた盆を片手に微睡みの底にいるであろう相手に声をかけるクラヴィスだったが、返事が返ってこないことを知り、軽くため息をついた。
(相当、体力が奪い去られているという証・・・か。私の力も大したものではない)
自嘲気味に口許を歪め、入るぞといいながらジュリアスの寝室代わりに設えた空間へと足を踏み入れる。
 毛足の長い絨毯を敷き詰めたその上に更に厚手の毛布を敷いて作られた寝台のなか、ジュリアスは微かな寝息をたてていた。
(窶れた・・・な)
意志の強さを如実に表す紺碧の瞳が瞼に閉ざされているためか、いつもの苛烈な印象はなく、ただありのままの素顔が覗いていた。
(滅びゆく宇宙を少しでも長らえさせようと、寝食を削って無理を重ねているに違いない)
この惑星を訪れてからこっちジュリアスにまとわりつく疲労の翳りはこうして休んでいても薄れるどころかかえって濃厚になっていく気がして、クラヴィスは気が気ではなかった。
 他人の気配を感じ取ったのか、天空の高処を思わせる蒼い瞳がゆっくりと開き、自分の傍らで心配そうに見つめている闇の守護聖の姿を捉えた。
「どうやら眠ってしまっていたようだ。すまない」
言いながらジュリアスは上半身をその場に起こし、顔に落ちかかる髪を無造作にかきあげた。そしてすっとクラヴィスの方へ両手を差しのべる。
「?」
相手の意図が咄嗟につかめず、クラヴィスは困惑げにその手を見つめる。
「食事を持ってきてくれたのだろう?」
そう促されてはじめてクラヴィスは自分がこうして訪れた理由を思い出し、少々慌てて食事の載せられた盆を相手へと手渡した。
 成人男子が食する量としては少ない食事をやや持て余し気味に口に運んだジュリアスは一息つくと、食事の間中傍らで黙然と座していたクラヴィスへ視線を投げかけた。
「目的の地まで、あとどれくらいなのだ?」
すべての食器が空になっていることを確認しながら、クラヴィスは何でもないことのように淡々と答える。
「半日ほどといったところだ」
 それを聞いたジュリアスはそうかとだけ呟くと、そっと睫毛を伏せて俯いてしまった。
 かけるべき言葉を見いだせず、クラヴィスはその手から盆を受け取るとその場を後にした。

 一人残されたジュリアスは俯いたまま、膝の上で広げた右手をじっと見つめた。その表情はやや強ばっている。
 風など入ってきていないはずなのに、不意にその長い髪がふわりと宙に舞った。そして紺碧の視線の先で、光球が何の前触れもなく生じた。
 熱の感じられない黄金色に輝き渡る光球が、手のひらからやや距離を置いた中空に浮かんでいる。
 それは、ジュリアスが光の守護聖たる証であり、高密度の『光』のサクリアが生みだした輝きであった。
 その光輝を認めたジュリアスはふっと表情を緩め、ゆっくりとした仕草で光球が載っている己が右手を閉じていった。すると出現したときと同様に一瞬にして光球は姿を消し、後には『光』が存在していた余韻のような微かな煌めきが漂っているのみとなった。

 

 

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