〜 アンジェリーク 〜

【恋の終焉】 後編


「クラヴィス!」
アンジェリークは自分の声が震えてしまっているのを自覚した。

 会いたくて、でも、会いたくなくて、それでも一晩中脳裏に浮かんでは消えていったその姿。
 自分は間違いなくこの人に恋をしていると、嫌というほど再認識させられた昨夜。

 出不精の人がわざわざここまで自分に会いに来てくれたという事実が、アンジェリークの胸を期待に膨らませる。しかし、アンジェリークを見つめる黒水晶の瞳は相変わらず穏やかで、恋の熱情を感じさせるものは何一つなかった。
 それに気づいた時、アンジェリークは舞い上がりかけていた己の心がすっと落ち着くのを感じた。

 出会った頃のようにきらきらと輝いていた翡翠色の双眸が穏やかに凪ぐのを認めたクラヴィスは微かに微笑んだ。
「どうやら、私はおまえと共に歩んでは行けぬ運命のようだ」
優しくそして静かに言葉を継ぐ。
「永きに渡り世界を支え続けたおまえに、せめてもの餞だ。これを、やろう」
言いながらすっと差しのべた手のひらに、上品な意匠の小箱。
 そのなかには女王の意匠である神鳥をモチーフとしたペンダントがひとつ収められていた。
「これは・・・」
震える手でそれを受け取ったアンジェリークは、神鳥の目の部分に宝石があしらわれていることに気づき、戸惑った。
 神鳥の目を表現している宝石。
 それは闇の守護聖の瞳の色によく似たものだった。
 相手の反応が面白かったのか、クラヴィスは目を軽く細める。
「それは長らく私とともにあった宝石の一部だ。これから己のためだけの人生を送らなければならぬおまえの守りになるとよいのだが・・・」
  言いながらクラヴィスは二人の許に歩み寄る。
「私は、おまえと出会い、共に過ごした日々を決して忘れはしない。おまえは私に光の世界の暖かさを、そしてその優しさを、教えてくれた。それら全て、決して忘れはせぬ」
低く囁きかけるようなその声音。
 それを耳にしたアンジェリークは、自分の頬を伝い落ちてゆく涙を感じた。
 目の前に佇むこの人は、あの頃のような情熱を失いはしたが、それでも今でも自分のことを思ってくれていることを、理解した。
 訣別を心に誓ったアンジェリークにとって、それは嬉しくもあり、哀しいことでもあった。
「どうした。何故そのように哀しげな顔をする?」
黒水晶の双眸が労りの色を宿す。
 アンジェリークは涙を流したまま、ふわっと微笑む。

 この人をこれ以上自分に縛りつけたままにしておいてはいけない。

 アンジェリークは自分の言うべき、言わなければならない言葉を心の内より見いだした。

 「クラヴィス、お願いがあります」
翡翠の瞳に宿るのは、強い光だった。
 唐突なその言葉に、クラヴィスは戸惑い気味に顔を顰める。
「何だ?」
アンジェリークは真っ直ぐに黒水晶の双眸をとらえ、静かに告げる。

「私のことは、忘れてください」

 それは、いつかは言わなければならないと覚悟していた言葉。
 それでも、できることならば口にせずに済ませたかった言葉。

 闇の守護聖は意外すぎるその言葉に瞬間、硬直する。
「何故、と理由を聞いてもよいか?」
しかし素早く気を取り直し、衝撃を与えた人物に尋ね返す。
 アンジェリークは深々と首肯し、それに応じた。「私は、これからは時の流れに寄り添っていくことになるけれど、貴方はそうではありません。優しい想い出も、哀しい想い出も、時の流れにさらされることによって、それはみないつか綺麗な結晶へと姿を変えていきます。・・・・・・。だから、大丈夫。私は貴方との想い出を胸に抱いて生きていけます。でも、貴方は・・・。だから、お願いです、私のことはどうか忘れてください」
毅然とした態度で優しく告げるその姿は、世界を長らく支え続けてきた女王らしく、慈愛に満ち溢れていた。
 クラヴィスはそんな相手の態度に眩しげに目を細め、しばし沈黙した後、
「それが、おまえの望みなのだな?」
ぽつり呟いた。
 無言のまま、アンジェリークは微笑む。
「・・・・・・。わかった。私はおまえとの想い出ばかりに囚われるのはやめにしよう」
少し寂しげな笑みを浮かべ、そう囁いた。

 それは、二人の間に長らく蟠っていた想いに決着がつけられた瞬間だった。

 人には想像のつけようがないくらい長い時間、アンジェリークとクラヴィスとの間にあった想い。
 それは、愛と呼ぶには淡く、恋と呼ぶには切なく甘い想いだった。

 アンジェリークは礼儀作法に則った優雅なお辞儀をし、
「ありがとう、クラヴィス。これで思い残すことはなくなりました」
万感の想いをこめてそう告げた。

 それでもアンジェリークは恋をし続けるであろう自分がいることに気づいていた。
 『忘れて』と相手に言いながらも、自分は決して忘れないと固く誓う己がいる。
 それは誰にも譲れない、誰にも阻むことのできない、自分だけに許された『特権』。
 あの日、自ら想いの成就を拒んだけれども、それでもこの想いだけは捨てずにおこうと心に誓った。

 

 「ああ〜、間に合いましたね〜。よかった、よかった」
晴れつつある霧の彼方、少々間延びした柔らかい声が聞こえてきた。
 その声がアンジェリークとクラヴィスの間に漂う微妙な空気を見事に払拭してしまった。
 蚊帳の外に置かれる形となっていったディアは強ばっていた表情を和ませ、
「ルヴァ!」
声の主の名を呼ぶ。
「我らに黙ったままで聖地を去ろうなど、水くさいにもほどがある」
軽く笑いを含んだ凛とした声がする。
「ジュリアス!」
ディアはこちらに向かって悠然と歩いてくる二人の姿を認めた途端、こみあげる想いをこらえきれず口許を両手で覆ってしまった。
 向かい合うようにして佇んでいるアンジェリークとクラヴィスを認めたルヴァは、二人の瞳が優しい光を宿していることに気づき、そっと安堵のため息をついた。
 そんな二人の穏やかな様子に、昔、煮え切らない態度をとり続けるクラヴィスに歯がゆさを感じ、ついついいらぬ助言をして二人の間をこじらせてしまった自分が許されているような気がした。
「あ〜、クラヴィス。アンジェリークとのお話はお済みになりましたか〜?」
口にするのに躊躇いを覚えないでもなかったが、それでも気になりルヴァは尋ねていた。
「ああ。いらぬ心配をかけてしまったようだな」
至極穏やかな瞳の色で長い間気にかけてくれていた地の守護聖に返す言葉は静かだった。
 アンジェリークも同じように柔らかく微笑む。
「そなたたち、私にもわかるように話をせぬか」
女王試験の間、気丈に振る舞っていたディアの今にも泣きそうな顔を見てしまったジュリアスは涙をみせられては困るとばかりに相手をしていたのだが、背後で交わされた会話の趣旨が見えず、ついつい苛立った声音で尋ねていた。
 それを受け、闇の守護聖はいつも通りの反応を返す。
「ふっ、おまえには関係のないことだ」
はぐらかすような、からかうようなその口調にジュリアスは瞬間激昂する。
「何!?」
ジュリアスは何事も曖昧にしておくのが嫌いな性分のため、いつも言葉をはっきり綴ろうとしないクラヴィスとは衝突ばかりしているのだ。
 ルヴァは困惑気味に眉間にシワを寄せ、実に間延びした声で、
「まあまあ、二人とも落ち着いてくださいね〜。アンジェリークたちの門出が台無しになってしまいますよ〜」
両手を左右に開いて、今にも言い争いを、実際は一方的にジュリアスが言い募るだけなのだが、始めようとしている二人を宥めるようにひらひらさせた。
 ルヴァの言葉にはっと我に返ったジュリアスはわざとらしく咳き込むと、改めてアンジェリークを見つめた。
「宇宙の安寧に尽力を尽くし続けてくれたそなたへ、これをやろう」
すっと二人の女性の前に同じ小箱を差し出す。
 二人は表情を輝かせ、光の守護聖からの贈り物を受け取った。
 中に入っていたのは、女性向けの繊細な意匠の凝らされ、中央に青金石があしわられている指輪だった。
ジュリアスは少しだけ視線をそらして小さく告げる。
「以前そなたに褒められて以来愛用していた宝石の一部を使用してある」
その言葉を耳にした途端、女性二人は小さく吹き出した。  クラヴィスの眉間に不機嫌そうなシワが寄る。
 ジュリアスは困惑げに女性陣を見遣ったが、それに答える二人ではなかった。うっかり答えようものなら、恐らくジュリアスは怒りだすだろうことが、容易に想像できたのだ。光の守護聖がしたように、闇の守護聖また、自分が身につけていた宝石を装飾品に加工して贈ったなど、知らなくてもよいことである。

 表現方法はかなり異なっていたが、それでも結構似たもの同士の筆頭守護聖たちなのであった。

 女性陣の笑いがひととおり収まるのをまって、地の守護聖がやはり小箱を二人に進呈した。
 中に入っていたのは、翼の形を象ったピアスで、綺麗な翡翠が埋め込まれていた。
「あの〜、どういったものをお贈りしたらよいのかさんざん迷ったんですがね〜。オリヴィエが言うには、女性には装飾品が喜ばれるとのことでしたので・・・」
「もうその辺でよいのではないか?」
ほおっておいたらいつまでも話し続けそうな雰囲気のルヴァに、クラヴィスはすかざず釘を刺す。
「あ〜、そうですか〜?」
きょとんとした顔つきでクラヴィスを見、次いで女性陣を見たルヴァはなるほどと頷いた。

 五人の間に沈黙が降りる。
 互いに言いたいことは山のようにあったが、それでもそれを誰も口にしようとはしなかった。
 口にしなくても伝わる想いがある。
 それだけでよいのだと、皆そう思った。

 「それでは皆さま、ご機嫌よう」
アンジェリークは礼儀作法に則った優雅なお辞儀をし、涼やかな声でそう告げる。
「皆さま、いつまでもお健やかに」
凛とそう告げるとディアもまた優雅にお辞儀をした。

 二人の胸にあるのは別離を嘆く心ではなく、未来に向けて旅立とうとする暖かい心。
共に過ごした時間は人には想像のつけようもない長いものだったが、それでも一瞬の出来事のように思えもした。
 本当に色々な出来事があり、そのひとつひとつが目を閉じれば鮮明に甦ってくる。
 何物にも代え難い思い出をその胸に抱き、アンジェリークとディアは聖地を去る覚悟を新たにしたのだった。

 二人の背後で聖地の門が開いていく。

「そなたたちのもとに常に幸多からんことを」
凛とした声でジュリアスが告げると同時に、金色の光輝が二人を包みこむ。
「あなたたちがいつまでも穏やかに過ごせますように」
穏やかな声でルヴァが告げると同時に、緑色の光輝が二人を包みこむ。
「おまえたちに常に安らぎがもたらされんことを」
静かな声でクラヴィスが告げると同時に、紫色の光輝が二人を包みこむ。

  守護聖たちの祝福を受けながら、二人はもう振り返ることなく門を歩み出ていった。

 目前で聖地の門が閉じていく。
 守護聖たちはそれをただ見つめていた。
 いつかは彼らもああしてこの地を去らなければならない日がやってくる。
 しかしそれはまだ先の話。
 自分のなかのサクリアがいつの日にか失せる時まで、次代に総てを受け継がせ終える日がくる時まで、それは叶わぬことだった。

 今、ひとつの時代が終わりを告げた。

 そしてそれは同時にひとつの恋が終わったことを告げる時でもあった。

 

END

 

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