〜 アンジェリーク 〜
創りだされた薄暗がりのなか、闇の守護聖は熱心にとは言い難く、さりとて怠惰という訳でもなく、自分の元へと回されてきた書類に目を通していた。
与えられた仕事はきちんとこなすが、それ以上のことは決してしようとしない。そんな態度がジュリアスの叱責を買う原因のひとつなのだが、クラヴィスにとってはどうでもよいことだった。
ジュリアスもすでに諦めているらしく、クラヴィスへ回す書類は必要最小限にとどめている節がある。それでも顔をあわせれば職務怠慢だと口うるさく言うのだけは止められないらしいのだった。
書類に不備がないか丁寧に内容を読み返し、自分が納得できれば書類の最後に署名を入れる。そうでなければ、納得できない理由を簡潔にまとめた文章を添えて、首座の元へと戻す。
いつもと同じことをいつもと同じようにこなしていき、最後の一枚に署名を入れようとした時、執務机の一隅に据えられている水晶球が微かに光を放った。
訝しげに光を見つめた双眸がそのなかに何を捉えたのか、驚愕に瞠られる。それでもすぐに一切の表情を消し、常と変わらない様子を取り繕ったが、書類へと走らせるペン先が微かに震えていた。
傍らに控えていた秘書官に決済済みの書類を渡して首座の元へ届けるよう命じ、そしてそれ以外の側仕えの人々には呼ぶまで下がっているよう控えの間へ追いやった。
自分以外の気配が完全に絶えたのを感じた途端、クラヴィスは嘆息した。
「ようやく、その翼を休められる刻が来たのだな」
誰にともなく呟いたその唇が、音もなくひとつの名前を形作った。
書類の半分ほどを消化し終えた光の守護聖は、一息入れようと衣擦れの音をさせて立ち上がり、テラスの方へとその足を進めた。
大きく開け放たれた窓から心地よい風が吹き込み、ジュリアスの豪奢な黄金の髪を翻す。軽く髪を押さえていたずらな風をやり過ごしたジュリアスは、窓外の景色へ視線を投げる。新女王の即位に伴い急速に安定を取り戻した宇宙を思ってか、紺碧の双眸が柔らかく和んだ。
そこへ、王立研究院から光の守護聖を名指しにして贈られてきた品物があるという知らせが届けられた。
自分を、守護聖本人を名指しにして品物が贈られてくることなど滅多にないだけに、ジュリアスは怪訝な顔つきで知らせを持ってきた王立研究院の主任の顔を見つめた。
苛烈という表現に相応しい鋭い視線を向けられた主任は顔を強ばらせたまま、早口で差出人の名前を告げる。
その名前を耳にした途端、ジュリアスはすべて理解した。
主任に労いの言葉をかけ、届けられたという品物を受け取ると、ジュリアスは室内に居るすべての人間に向けて退室するよう命じた。
一人残されたジュリアスは嘆息すると、品物が収められている箱を開封しようと手を伸ばしかけ、その手が微かに震えていることに気づき、苦笑する。どうして自分がこれほど動揺しているのか、理解できなかった。
箱のなか、極上の布地に大切そうにくるまれて収められていたのは、上品な造りの小箱。
全部でそれは五つあった。
それらの中身をいちいち確認するまでもなく、それが何であるのかジュリアスには判っていた。
一旦開封しかけた箱を戻し、ジュリアスはため息をついた。そして再び窓外に広がる景色へを視線を投げた。
◇
執務時間もとうに過ぎ、世界が夜の帳に覆われた時刻。
先触れもなく地の守護聖の館を訪れた者がいた。
館の主はその人物の姿を見て目を丸くしてみせたが、ふわっとした微笑みを浮かべて相手を招じ入れた。
「おやおや貴方もなんですか、ジュリアス。今日は二人ともどうしたんでしょうかね?」
突然の訪問者、光の守護聖ジュリアスは、ルヴァのそんな台詞に引っかかりを感じ、反射的に問うていた。
「誰か来ているのか?私は邪魔ではないのか?」
一旦自分の館に戻ってからこちらに足を運んだらしく、執務中の正装ではなく、シンプルなデザインの平服を身に纏っているその姿は幾分柔らかな印象を周囲に与えている。
いえいえそんなことありませんよ〜といつもののんびりとした穏やかな調子で否定すると、ゆったりとした歩調でジュリアスを客間まで案内する。
自分以外の来客が誰なのか敢えて告げようとしないルヴァの態度から、ジュリアスはそれが誰であるのか悟った。
「あれが来ているのか。珍しいこともあるものだな」
いつものような皮肉な調子ではなく、ただ単に事実を述べているだけの口調に、ルヴァは思わず足を止めて振り返りジュリアスを見つめた。
ジュリアスもつられてその場で足を止め、館の主の顔を怪訝に見返す。
灰色の瞳の視線の先で黙然と佇むその姿は、強い光を宿した天空の高処を思わせる紺碧の瞳も、黄金の絹糸の如く輝くその髪も、いつもと何ら変わる様子はないのに、それでも常より少しだけ鋭さが喪われている。
「何か、あったんですか?ねえ、ジュリアス」
こうして私的に訪れてきたのだからきっと執務のことではないことは判っていたから、そう尋ねる地の守護聖の声音は気軽なものだった。といっても、地の守護聖ルヴァはその人となりからなのか、公的、私的の区別なく常にのんびりと穏和な態度を崩すことはなかった。勿論、危急の場合にはルヴァもそれなりに振る舞うことは可能だったが。
ジュリアスはそれに応じることなく、ルヴァに先を急がせた。
案内された客間の一隅に据えられた椅子に、闇の守護聖クラヴィスが腰を下ろしてくつろいでいた。
「珍しいところで会うものだな」
他人の館に居るということもあるのか、珍しくクラヴィスの方からジュリアスに声をかけてきた。司る力の性質のせいなのか、いつもはジュリアスの方からクラヴィスに働きかけることが多いのだ。
ジュリアスはこれも珍しく、闇の守護聖の言葉に目を眇めただけで言葉を紡ごうとせず、館の主を見遣る。
「そなたたち、夕餉は済ませたのか?」
ええ、とっくにというルヴァの言葉を受け、ジュリアスは微かに微笑むと、光の館から届けさせた酒を楽しもうと持ちかけた。
何だか釈然としないものを感じつつも、軽く両手を打ち合わせ、
「それはいいですね〜、早速用意させましょう」
とルヴァは言いつつ、酒の支度を手配するため客間から出ていった。
その背中を見送ると、重いため息をひとつついたジュリアスはクラヴィスに向かい合うようにして置かれている椅子に腰をおろし、俯いてしまう。
クラヴィスはただ黙然とそれを見つめていた。
その場に残された二人の間に、重い沈黙が落ちる。
それはまるで互いに相手に言いたいことはあるのだが、それを言い出すタイミングを掴みかねているようだった。
その沈黙に最初に耐えられなくなったのは、ジュリアスの方だった。
すっと顔をあげて相手の顔を見つめ、
「あっ・・・」
何か言いかけ、それでもそれを言葉にすることができず、不自然に閉ざされた唇が微かに震える。その一連の態度が自分でもらしくないとは思うのだが、何故かそれを改めることができず、ジュリアスは困惑した。
クラヴィスは珍しくも言い淀んだ相手に視線をあわせると物問いたげに片眉を引き上げて見せたが、ジュリアスはそれに応じることができず俯いてしまう。
しばらくの間そんなジュリアスを見つめていたクラヴィスだったが、不意に何か納得顔になりそっと視線を逸らした。
「おまえにも、わかったのか」
窓外に視線を投げやり、クラヴィスは吐息とともにそう呟く。
一瞬、ジュリアスは瞠目して闇の守護聖の横顔を見つめたが、すぐに睫を伏せてこくりと頷いた。何と答えを返したらよいものか判らず、ただ、頷いた。
気配でそれを感じたのだろうクラヴィスはさらに小さい声でそうかとだけ呟いた。
再度二人の間に落ちた沈黙は先刻のものと微妙に色を変えていた。そこへ、
「お待たせしてすみませんでした〜」
館の主が酒肴の席を整えたと告げたのだった。
二人は互いの瞳を見返そうとせず、少々不自然な感じに互いから視線を逸らしたままルヴァを見遣った。
「どうしたんですか?二人とも。私の顔に何かついてるんですか?」
二人の視線を同時に感じルヴァは少々慌てる。
強い光を宿していた紺碧の瞳がふっと揺らいだ。
虚空を思わせる黒水晶の瞳が何かを浮かべた。
いつもの二人らしくないそんな様子に、ルヴァはやれやれといいたげな重いため息をつき、滅多に見せない真剣な眼差しを光の守護聖へと注いだ。
「何があったんですか?ジュリアス」
しかしジュリアスはその問いかけに応じず、そっと目を伏せるのみだった。
「貴方は知っているのでしょう?クラヴィス」
クラヴィスもまたルヴァの言葉に答えようとはせず、ただ目を眇めるのみだった。
あまりに埒のあかない態度に珍しく苛立ちを感じながら、ルヴァはその優秀な頭脳をフル回転させてらしくなさすぎる二人の振る舞いの原因について色々推測してみたが、特にこれといって思い当たる節がなく、当惑気味に筆頭守護聖たちを見つめた。
不自然な沈黙が再び室内に訪れる。
やがて三人のなかで一番気の長くないジュリアスが沈黙に絶えきれず、身動ぎした。
その途端、ジュリアスの懐から何かが落ちた。
コトン。
微かに音をたてて足許に落ちたそれに、三人の視線が集中する。
それは、綺麗な造りの小箱だった。
それを目に留めた途端、ルヴァはいつもとは異なる二人の態度の理由を理解した。
静かにジュリアスの面前に歩み寄ると、そっとその小箱を拾い上げ中身を確認する。
上品な布に大切そうにくるまれているのは、いつか聖地を去りゆく人に贈り物として捧げた翡翠のピアス、女王の翼をイメージして作らせた可憐なピアスだった。
中身を確かめたルヴァは伏し目がちに小箱のふたを閉じ、それをクラヴィスにそっと差しだす。
「これは貴方に・・・。私が持っていても仕方のないものですからね〜。そして、ジュリアス、もう一つは貴方が受け取ってください」
穏やかな優しい口調で静かに囁く。
光と闇の守護聖二人はルヴァの言葉に黙って頷いた。
「それではこちらへいらしてください。お酒の用意ができてますからね」
早くいらしてくださいねと言いつつ、ルヴァはさっさか部屋を出ていってしまった。
その背中を追うように慌てて衣擦れの音をさせて立ち上がったジュリアスの手を、小卓越しにクラヴィスが掴んだ。
何をするのだと言わんばかりにジュリアスは片眉を引き上げて相手を睨みつけた。
ふっと自嘲気味に口許を歪めた闇の守護聖はそっとその手を放し、紺碧の瞳を見据える。
二人はしばらくの間、互いを見つめ続けていたが、やがて口を開いたのはクラヴィスの方だった。
「おまえの元にあるもの。それはおまえにやろう。煮て食うなり焼いて食うなり好きにしてくれ」
私のいいたいことはそれだけだと低く呟くと、ジュリアスの傍らをすり抜けて、先に客間を後にした。
去りゆく背中を見送っていたジュリアスは、重いため息をひとつつくとその後を追った。
それから三人は、光の守護聖が持ってきた極上の酒を片手に、とりとめもなく他愛ない話を交わし続けたのだった。
夜明けまで、ただひたすらに。
そうしていなければいけないとでもいうように、ただ話し続けていた。
END
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