〜 アンジェリーク 〜

【恋の終焉】 前編


 次代の女王を決定するための女王試験が開始されてからすでにかなりの時間が経とうとしていたある日。

 意図的に作りあげられた夜に閉ざされ静まりかえった闇の守護聖の執務室。
 室内にはカードを繰る微かな音が響いていた。
 気怠げにカードを繰っていた闇の守護聖クラヴィスその人の手が、止まった。

 カードは何を告げたのか。

 クラヴィスは口許をふっと歪めてカードをしばらくの間眺めていたが、やがてそれを一息に崩すと、重いため息をつきつつ椅子にその背をどさっと預けた。
 瞑目したまま、仰のいた顔を片手で覆う。
「解き放たれた小鳥は、二度とは戻らぬ運命か」
誰にともなく呟かれた言葉は謎めいていて、それを解き明かすことができるのは、いった本人のみだけだろう。

 

 大きく切り取られた窓から遠慮なく陽光が降り注ぐ光の守護聖の執務室。
 首座を務める光の守護聖ジュリアスは、王立研究院から届けられた女王試験の最新情報に目を通していた。
 ちょうど別件で首座の元を訪れていた地の守護聖は、黙然とそれを見守っている。

 一通り目を通し終えた後、ジュリアスは、彼にしては珍しく、ほっと安堵のため息をついた。

 終末へ向かって坂道を転がり落ちるように、徐々に不安定さを増していく宇宙を出来うる限り存続させようと、寝る暇を惜しんで日夜努力し続けている疲労が拭い去れていないその顔に、明らかに希望の色が宿る。
「ルヴァ、次代の女王がもうすぐ決まるぞ。そうすれば、我らの宇宙も救われるのだ」
その日が待ち遠しいことだと嬉しげに告げる首座の顔を、地の守護聖ルヴァは少々複雑な思いで見つめていた。

 次代の女王がその座に就くのを見届けたアンジェリークはほっと安堵のため息をつくとともに、一抹の寂しさを感じてもいた。
 目前では年少組の守護聖たちが新しい女王を取り囲んでわき返っている。

 自分の後を継ぎながらも新しい世界の女王となった少女。

 たった今、自分と同じ名をその身に帯びていた少女にとってその名は意味をなさぬものと化し、代わりに自分にとってそれが唯一の身の証となったのだ。

 アンジェリークは先刻のものとは種類の異なるため息をそっとつき、視線を女王たちから逸らした。
 自分が女王候補だった頃よりともにあった年長の守護聖たちが、無邪気にはしゃぎ回る年少者たちとは異なり、自分に何か言いたげな視線を注いでいることに気づいたアンジェリークは、晴れやかに微笑んでみせた。
「新女王の許、これからもあなた方のお力で、よりよき宇宙を導いていかれますよう、お祈り申し上げます」
ふわっと優雅にお辞儀をすると、背中へかけられる複数の声を、目に見えない手で殊更に耳を塞いで拒絶しながら、謁見の間を後にした。

 これ以上彼らとともにいたら何を口走ってしまうかわからない自分が恐かった。
 何よりも自分を見つめていた闇の守護聖の柔らかな視線がたまらなく哀しかった。
 自分からあの人との決別を決めたのに、それでもあんな風に見つめられてしまうことがとてもつらかった。
 ともにいられずとも、同じ時間、同じ空間を共有しているということで幸福を覚えていた自分が信じられなかった。
 気の遠くなるような遠い昔、二人で交わした数々の言葉のみを支えとして今日まで女王として務めを果たしてきた自分が愚かに思えてしようがなかった。

 あの時、あの人との約束を反故にしてしまったあの時、どうして自分は不仲だと知っていた彼の人に言伝を頼んでしまったのか。
 二人が顔をあわせれば何かと衝突してしまいがちなのを自分は確かに知っていたはずなのに、どうして殊更に彼の人を探しだし言伝を頼んでしまったのか。

 いくら考えても答えの見いだせない問い。

 自分はあの時一体何を考えていたのか。

 すでにそれは遙か時の彼方に消え失せ、想いの欠片すら残されてはいなかった。

 

 「アンジェリーク」
回廊を早足で進んでいくアンジェリークを見つけたディアが遠慮がちに声をかけた。
 呼び止められたアンジェリークはくるっと背後を振り返り、そこに親友の姿を見いだすと、ほうっと吐息をついた。
 長い間アンジェリークの良き片腕として傍らに在り続けていただけに、ディアにはアンジェリークの心の葛藤がよく理解できていた。だから、
「あの方に会いに行かなくて、貴女はいいの?」
そっと囁く。
 自分の心を押し殺して聖なる翼を担い続けてきた親友がどれほどあの人を慕っていたか、慕い続けているか、知り尽くしている人の言葉だけに、小さい呟きながらもそれはアンジェリークの心に響いた。

 瞬間、翡翠の瞳が期待に輝く。
 (もう一度あの人に想いを告げることを許されるならば・・・)
 でもその一方で、不安を感じずにはいられなかった。
 (あの人にとってすでに自分は過去のことになってはいないだろうか?)

 聖地を去る前に、もう一度だけこの想いを伝えることが許されるのだろうか。
 あの人の心に自分はまだ存在しているのだろうか。

 揺れ動く心を自分でも制御できず、アンジェリークは葛藤を繰り返す。
「アンジェリーク?」
自分の一言がこれほどまでに親友の心を惑わすとは思っていなかったディアは心配そうにその顔を覗きこんだ。
そんな気遣いが嬉しくてアンジェリークは微笑みを浮かべてみせた。
「明日、ここを去りましょう」
そう告げる声音が微かに震えていることに、ディアは気づきそっと目を伏せた。

 結局、アンジェリークはその後、かの人の許を訪れることもなく、女子高生が交わすような他愛もないおしゃべりを、ディアと夜明けまで交わしたのだった。

 誰にも旅立つ時刻を告げず、アンジェリークはディアを伴ってそっと聖地の門前に佇んでいた。

 ここを一歩出てしまえば、もう二度と聖地に戻ることは叶わない。

 朝霧の立ちこめる聖地の姿を記憶にとどめようとしたのか、二人は無言のまま背後を振り返った。そこへ、
「誰にも何も告げぬまま、旅立つつもりであったのか?」
低い穏やかな声音がかけられた。
 声の主が誰であるのか瞬時に二人は悟り、声のした方角へ視線を投げる。
 するとそこには闇の守護聖クラヴィスが木立に寄り添うようにして佇んでいた。

 

 

 

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