〜 アンジェリーク 〜
少女は走っていた。
胸元に大事な大事なものを抱えて、満開の桜のなかを走っていた。
少女が抱えているのは、未だ数年しか送っていない少女の人生のなかで一、二を争うくらい大事にしているものだった。
それは、少女が生まれたという日にどこからともなく迷い込んできた一羽の小鳥。
少女が物心つく前から少女とともにあったあどけない命。
今、その小さな命は役目を終え、少女の手の届かない遙か高処へと最後の飛翔を遂げようとしていた。
少女は小鳥が自分の元から失われようとしていることが受け入れられず、ただ感情の赴くまま走り続けていた。
誰かこの小鳥を救ってくれる人はいないかと、ただそれだけを心に思いながら。
そんな少女だったから、どうして自分がこの場所を選んでしまったのか理解できるはずもなかった。
幼いその足で勾配のきつい坂道を駆け上がっていったその先に、この山でも一番古い桜の古木がひっそりと佇んでいた。
その古木は地元の人々から『桜翁』という呼称で親しまれている木で、少女も桜の季節になるとこの木の下でよく昼寝を決め込んだりするものだった。
幼い頃から少女はこの『桜翁』が大好きでしかたなく、老木があたかも生身の人間であるかのように慕っていた。
それゆえ、少女は無意識のうちにここを選んでしまったのだろうか。
それとも、満開に花開く桜の不思議な魅力に心惹かれでもしたものなのか。
とにかく、少女は満開の花をつけた『桜翁』の元へ駆け寄っていった。
少女の頭の中は、失われつつある小さい命で一杯だった。
だから、少女は気づくのが遅れてしまった。
『桜翁』の元に佇む人影があることに。
見知らぬ人物が、桜の花々を見つめていることに。
ふと、その人は、必死の形相で走り寄ってくる少女に気づいた。そして少女が大事そうに抱えている一羽の小鳥にも。そしてその鳥は最早、手の施しようがないくらいに命が飛翔しかけていることにすら、その人は一瞬にして気づいた。
その人の表情が翳りを帯びる。
少女はその人に気づくことなく、やがて『桜翁』の元へと辿り着いた。
通常であれば気づいてもよさそうなほど、少女とその人との距離は近かったけれども、少女はその人に気づかずにいた。それは、決して少女が鈍いわけではなく、ただ単にその人があっさり周囲の自然と調和して風景に溶けこんでいるせいだった。
少女は、大切に抱えていた小鳥をそっと『桜翁』に見せた。
「ねえ、おじいさま、この子、助けて」
幼い舌っ足らずな口調。
しかしその声音は真剣そのものだった。
けれども、『桜翁』にその声は届かず、いやたとえ届いていたとしても、『桜翁』がそれに応える術はなく、その場には沈黙のみが漂っていた。
「ねえ、おじいさま、この子、助けてくれないの?」
夢のなかだったら何だって叶えてくれるのにと、少女は幼い子供らしい理由から『桜翁』を責めるのだった。
そんな幼い糾弾も長く続くことはなく・・・。
少女の手のなかで、小さな命が最後の断末魔を迎えようと暴れだした。
「いや!!」
あどけない命の散る瞬間がもう目前に迫っていることを本能で感じ取った少女は悲鳴をあげる。
「いや!!誰か、この子、助けて!!」
少女の叫びは悲痛なもので、心が張り裂けそうなくらい痛々しかった。
未だ短い少女の人生のなかで、初めて体験する悲しい出来事。
柔らかい少女の心は悲しみに引き裂かれそうだった。
「どうして、誰も、助けてくれないの?」
少女は叫ぶ。何度でも。
どうして誰も助けてくれないのかと。
そんな少女の叫びの呼応するかのように、手のなかで小鳥はいよいよ激しく暴れ・・・。
不意に、その人は動いた。
少女の嘆きに耐えきれなかったのか。
それとも、小さな命の運命への最後の抵抗を見かねたのか。
その人は少女の前に姿を現したのだった。
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