〜蒼月の誓い〜
体調のすぐれない庚に無理をさせたと、祖父秋三郎に長時間説教された辛は自室でおとなしくしているよう言い渡されてしまった。そしてくさくさとした気分のままふて寝をしていたら、いつの間にか寝入ってしまっていた。
辛が目を覚ましたのは、時計の針が午前三時を示そうかとういう頃だった。
再び眠ろうと試みる辛ではあるが、一度醒めてしまった眠気はいっこうに訪れてくれず、しばらくの間無駄な努力をしてみたが、結局、兄の様子を見に行こうと思い立つに至る。
極力音をたてないようにと細心の注意を払いながら、それでも急ぎ足で廊下を進んでゆく辛の表情に不安が宿る。昼間腕のなかに感じた庚の身体が以前より細くなり、さらに、その身を包む雰囲気が清澄に、より希薄になったような気がしてならなかったのだ。
辛の足が自然と速くなる。
脳裏に浮かんでは消えていく不吉な思いを振り払うように、激しく頭を振る辛。
その足がぴたっと止まる。
目の前に、庚の部屋の入り口である襖があった。
喉をごくりと鳴らし、辛は慎重に、ゆっくりと襖をひき開ける。
室内から洩れてくる、微かな寝息。
耳に届くその寝息のなかに安らかさを見いだすことのできた辛はほっと安堵のため息を大きくひとつつき、そろそろと襖を閉める。
兄の安否を確かめた辛は一転して明るい表情で自室へと引き返していった。
辛が完全に立ち去るのを見計らっていたかのようなタイミングで、襖が音もなくひき開けられ、まるで血の気の失せた、蒼白な顔色の庚がひょっこり顔を出した。そして、弟の部屋へと続く廊下の先を、闇を見遣る。
庚の双眸に、絶望にも似た暗い翳りがたゆたっていた。
「辛・・・、僕は・・・・・・」
苦しげに呟かれる言葉を聞く者は無く、その声は闇に沈む廊下を漂いゆき、虚空へと吸い込まれていく。
「僕は・・・、も・・・う・・・・・・。・・・辛」
呟きにこめられたその思いを、受け取る者もいない。
不意に口を噤んだ庚は幾度か首を振ると、ふっと表情を消し、音もなく襖を閉めた。
◇
隣りの席が空席のままであることを気にしながら、辛は朝の忙しい朝食を摂っていた。 昨晩の様子から今日は一緒に登校できるかもしれないと期待していたのを裏切られたことにやり場のない怒りを感じながら、朝寝坊をしたつけである時間のなさと懸命に戦いながら、きちんと朝食を摂る。
秋義兄弟の両親は彼らが物心つくかつかないかというごく幼いうちに突然行方不明になり、現在も消息不明のまま、その生死すらわかっていない。そんなふたりを引き取って面倒を見ているのが、母方の祖父母である秋義秋三郎・かなえ老夫婦であった。
戦前生まれである祖父秋三郎は特に躾にうるさい人で、食事をきちんと毎食摂ることに関してはすごく口喧しいのである。
不作法にならないぎりぎりの線で食事をすすめていた辛が不意に、
「ねえ、庚はどうしたの?具合悪いの?」
秋三郎の傍らで食後のお茶を入れている祖母かなえに問う。
「庚さんのことなら大丈夫ですよ」
お嬢様育ち特有の実におっとりした口調で柔らかく答えるかなえ。
どんなに庚の具合が悪い時でも、それを辛に気づかせまいとしての心配りからなのか、幾度となく繰り返されてきた言葉とまったく同じという返答に、いささか引っかかりを覚えた辛がさらに問おうとした瞬間、秋三郎が、
「治也君を待たせているのだろう。早く行きなさい」
厳しい響きを宿した声で重々しく命じる。
辛は黙って食事を終え、そそくさと食卓を後にした。
辛に有無を言わせず登校するよう仕向けた秋三郎は大きく息を吐き、傍らで控えているかなえに物憂げな眼差しを注いだ。
◇
「今日も庚は来られないのか?」
門を一歩出た途端辛にかけられた治也の第一声がこれだった。おはようの挨拶すらないのである。
少々むっとしながらも、
「昨日また倒れちゃったから・・・・・・ね」
律儀に答える辛だった。
なかなかのハンサムと評されるその顔を思いきり残念そうにしかめた治也は、
「庚、大丈夫なのか?」
心の底から心配そうに、不安げに尋ねる。
何と答えてよいのか咄嗟に判断がつけられなかった辛はただ曖昧に頷き、
「そんなに心配なら、帰りに寄ったらどう?」
そう答えながらも、心のなかではそっと会えるかどうかわからないけどねなどとつけ加えて思いきりアカンベーをするのを忘れない。
「あっ、遅刻だ!」
そして何気なく腕時計を見遣った辛は一声そう叫ぶと、治也のことなど完全忘却して走り出す。
「待ってくれよぅ〜」
寝坊をした辛を生真面目に待っていた治也は情けない声で叫びつつ、必死に辛を追いかけた。
◇
玄関の格子戸が閉められる音を聞き届けた庚は、いつになくだるくて重い身体を布団から無理に引き剥がして起き出した。そして寝間着にしている浴衣の乱れを手早く整え、祖父に会うために自室を後にした。
どんなに調子が悪くとも、いつもならばそれほど苦に感じたことのない祖父の書斎までの短い距離が、とてつもなく遠く、身体に多大な負担をかける旅程へと変じていた。
一歩一歩、足を踏みだす度ごとに、心身から力が流れ出ていくような錯覚にとらわれながらも、庚はしっかりとした足取りで廊下を進む。自身の誇りにかけて、無様な姿をさらさぬようありったけの気力をこめて足を運んでいく。
我知らず、苦笑を浮かべる庚。
その笑みの影から、情の強さがちらり顔を出す。
「辛まで・・・・、いや、辛だけは連れて行かせはしない。僕が、全身全霊をかけて、辛をこちらに引き留めてみせるから・・・」
天井に何を見たのか、わざわざ足を止めて天井を鋭く睨みつけ、小声ながらも気迫のこもった声でそう呟く。
しばらくそのまま炯々と天井を睨んでいたが、やがて肩で大きく息をついて全身から力を抜くと、疲れた表情を浮かべつつ再び歩き始めた。
◇
四時限目終了のチャイムを合図に治也はいそいそと辛の机に歩み寄ると、
「本当に、庚は大丈夫なのか?」
周囲をはばかってか、小声で尋ねる。
「通算十八回目」
答える代わりにそんなことを呟く辛はややあきれた顔をしている。
登校中から今に至るまでの間、ほぼ五分おきに治也はそう尋ね続けているのだから、辛のあきれ顔も頷ける。辛の呟きの意味を理解した治也の顔が赤くなる。
「昔から、治也は庚にベタ惚れだったもんね。まっ、当人は僕たちにはばれてないつもりだったみたいだけど。・・・仕方ないか」
という辛のからかうような口調のなかに親愛の情が滲む。
治也は顔を赤くしたまま照れ笑いを浮かべ、
「だって、ほっとけないよ。あんな顔を見ちゃったら・・・」
あくまで小声で囁きかけつつ、その目が遠いものを追いかけるように細められた。
治也が庚のことを無性に気にかけるようになったのは、中学生活最後の春、つまりほんの数ヶ月前からだった。それまではどちらかというと、弟に比べておとなしくて大人びた表情を浮かべてみせる庚には苦手意識ばかり感じていてあまり親しみを持てなかったのである。ところが、桜吹雪ならぬ桃吹雪のなかに佇んだまま、今にも泣き出しそうな顔で切なげに蒼空を見上げていた庚の横顔を認めた途端、治也のなかで何かがはじけ、その存在はその心のなかに強烈に刻みつけられたのであった。
「何だよあの顔って・・・」
過去の情景に浸っていた治也の耳に、あからさまに不機嫌な声が飛び込んできた。
その声にはっと我に返る治也だったが、頭の方はまだ半分過去に飛んだままだった。そして、ぼんやり声のした方向へ視線をやり、そこに珍しく思いきり不機嫌だと顔に書いた庚を見つける。
「ホントに大丈夫だったんだね、庚」
今にも踊りださんばかりに弾みまくった声でそう話しかける。
「ぼくは辛だ!」
治也の科白に切れた辛は、思いきり目の前のボケナスの頭に怒りの鉄拳をお見舞いし、教室から出ていってしまった。
台風一過。
辛のご機嫌を損ねた馬鹿者がひとり、級友たちの爆笑の渦に飲み込まれた。
◇
教室を後にした辛は、昇降口の傍らに設置されている公衆電話に小走りで駆け寄ると、自宅に電話をかけようと受話器を取って数枚の硬貨を投入口に落とし、プッシュホンを手早く押す。
数回のコール。
自分でも理由のわからない焦燥感にとらわれ、辛はほんのわずかな待ち時間にする苛立ちを抑えきれず、指で電話をいらいらと叩く。
さらに数回のコール音。
電話がつながったと感じた瞬間、辛は何故か泣きたくなった。
『はい、秋義ですが・・・・・・』
受話器の向こうから響いてきたのは、庚の穏やかな声。
「庚ぇ〜」
自分でも情けないと思える声で兄の名を呼ぶ辛の顔が、今にも泣き出しそうに歪んでゆく。
「会いたいよ。庚の顔が今すぐみたい!」
ほとんど泣き声に近いその声。
いつもならばこらえられるはずのふたりの距離を、とてつもなく苦痛に感じた辛は恐怖に近い感情にとらわれて言葉を紡いでゆく。
「庚のいないこんな場所にはこれ以上いたくないんだ。だから、これから帰りたいんだけど。・・・ダメ?」
そう言いつつ、庚の返事を待たずに受話器を置いてしまう。そして、鞄を取りに、教室へと全速力で向かった。
◇
祖父に自分の言い分を認めてもらった庚は、何となく自室へ戻るのを厭い、とりあえず居間へと足を運んでいった。
相変わらず身体はだるく重かったが、先刻よりは数段楽に歩けることに少しばかり感謝しながら居間へ辿り着いてみると、電話のベルが鳴っているのに庚は気づいた。
心の片隅で、電話をかけてきたのが辛であることを確信する。
電話を受けようと受話器に伸ばした指先が触れた瞬間、微かに心が痛んだ。
その痛みが辛のものであることを知り、庚の双眸がはっきり翳る。
辛の心の不安を敏感に感じとり、庚の心が軋みはじめる。
「はい、秋義ですが・・・」
激しく揺れ動く辛の心が少しでも落ち着くようにと、意識して穏やかな声を出す。
受話器の向こう側であげられた情けない声に苦笑を浮かべかけた庚の表情が突然凍りつく。
『庚のいないこんな場所にこれ以上いたくないんだ』
何気なく呟かれた科白が、庚から言葉を失わせる。
電話が切れてもしばらくの間、庚は受話器を手にしたままその場から一歩も動けなかった。
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