〜蒼月の誓い〜

卯 月・1 〜霞 草〜

 

 時代の移り変わりとともに、日本様式の屋敷が、次々と惜しげもなく洋風の建物に建てかえられていくなか、古色蒼然とした純然たる日本家屋が異彩を放っていた。 周囲の洋館の大きさもさることながら、その一角でただ一軒の日本家屋はそれ以上に広い敷地面積を有しており、文字どおり『お屋敷』と呼ぶにふさわしい佇まいを見せている。
 広大な地所をぐるりと囲む土塀の上から、敷地内に無数に植えられている桜の木々が通りへと枝を伸ばし、その一枝一枝には見事に淡い桜色の花が花開いている。そのせいなのか、この近辺に住んでいる人々はこの『お屋敷』を『桜屋敷』と呼んでいた。
 その『桜屋敷』の正門は、経てきた時間の長さを感じさせる重厚な作りの門であり、これをくぐり抜けると、玄関まで客人を案内するために敷かれている石畳が、木立で形づくられている垣根の間をぬっていた。
 定期的に庭師の手が入っていると容易に想像のつく整然とした庭は、典型的な日本様式で、その一角には鯉が放されている池がある。
 錦鯉たちが優雅に泳ぎ回っている水面に、いたずらな春風にさらわれた桜の花弁がひらりと舞い落ちる。
 一枚、また一枚・・・。
 それほど強くない風だというのに、花弁は絶えることなく池へとその身を投じていく。
 庭のそこかしこに溢れている春の温かい色彩で、少しでもその無聊を慰めようというのか、池に面する部屋の障子戸が大きく開け放たれていた。
 二十畳ほどもある和室のほぼ中央に敷かれている床のなかから庭を見つめている少年がひとり。
 その透けるように白い肌が、少年が長い間病の床にあることを物語っていた。
 端正な、端麗という言葉の方が相応しいかもしれない容貌には、不似合いなほどの暗い翳りが宿っている。
 あまりに長く続きすぎて当たり前になりつつある微熱の所為でだるく、自分の意のままにならぬ身体に煩わしさを感じ、それを疎んじてでもいるのだろうか。 自分が今どんな表情を浮かべているのかまるで気づかずに、少年はただぼんやりと庭へ視線を注いでいた。
 不意に、遠くから微かに、玄関の格子戸がひき開けられる音がした。それを聡く聞きつけた少年の顔がぱっと明るくなり、先ほどまで色濃く漂っていた翳りが完全に消え失せる。そして、庭に注がれながらも何もとらえてはいなかった眼差しが、この部屋の入り口である襖へと勢いよく転じられた。
 その瞳は、期待に輝いている。
 それとほぼ同時に、
「ただいま!」
元気いっぱい襖がひき開けられ、ブレザーの学生服に身を包んだもうひとりの少年が、いや、少年の双生児の弟が顔を出した。
「具合、どう?」
病床の少年とくらべてじつに健康的な顔色をしている弟は心配げな表情を浮かべて、床のなかの自分と瓜二つの顔を見つめる。
「朝よりは、少し、いい・・・かな。そんなことより、辛、今日はどうだった?」
白すぎる顔に穏やかな表情を浮かべて尋ね返す少年。
 辛と呼ばれた学生服姿の少年はそれに答えようとはせず、少し俯き加減に、
「そっち、行ってもいいかな?庚」
躊躇いがちな口調のなかにも、どこか甘えの響きの宿る声音で問う。
 庚は少しおっくうそうに床から上半身をおこして、苦笑を浮かべながら戸口で佇む弟を手招いた。
 許しを得た辛は喜色満面で素早く兄の傍らに腰をおろし、枕辺に置かれている羽織を手にとって優しく兄の肩へかける。
「ありがとう。それで、今日はどうだった?」
優しく、穏やかに再度問いを発する庚。
 辛は満面に笑みを浮かべ、
「治也とまた同じクラスになったよ。もちろん、庚も・・・ね。今日は、治也とは切っても切れない腐れ縁の間柄なんだって、つくづく再認識させられてしまった日だよ」
と言ってペロリと舌を出してみせる仕草はとても無邪気なものだ。
 治也こと高木治也は、秋義庚・辛兄弟とは小学生の頃からの友人であり、初対面の時に、ズボン姿だったにも関わらず庚を女の子と間違えてプロポーズしてしまったという奇談の持ち主である。まあ、幼い頃の秋義兄弟はよく『天使のような』という形容をされるほど愛らしく、少女めいたあどけなさを持ってはいたが。
 自然、庚の口許がほころんだ。すると、血の気の失せていた白い頬に朱がのぼった。
 ずいぶんと久しぶりに見る朗らかな兄の様子に、ひそかに安堵のため息をつく辛だった。

 今日、庚と辛は晴れて高校一年生となったのである。

 辛は自室に戻って普段着に着替え直すと、改めて庚の部屋へと足を運んだ。
 辛がすぐにやってくることを見越していた庚は先ほどと同じ姿で、最近辛に購入してきてもらったばかりの小説に目を通していた。
「庚、いい?」
今度はいきなり襖を開けようとはせず、廊下から声をかける辛。
「遠慮なんて・・・らしくないよ?早く入っておいで」
目を通していた本に何の未練もなさそうに、精緻な木彫り細工の栞を挟み込んで傍らに置きながら苦笑を浮かべる庚。
 先ほどとはうって変わった静かな物腰で襖を開けて入ってきた辛の手のなかには造花の薔薇で飾られたバッチがあった。そして兄の傍らに歩み寄ると、躊躇いがちにそれを差し出した。
「僕の分かい?」
ごく淡く、庚は独特の無色透明な微笑みを浮かべてそれを受け取り、
「入学式、どうだった?」
手の中に収まった『入学おめでとう』のリボンがついた造花の薔薇の花びらを指先で何気なく撫でながら問いかけるその瞳には、ほんの少しだけ寂寞とした思いが宿る。
 輝かしい高校生活の最初の一ページとして綴られるはずだった入学式に出席できなかった庚が、今どんな思いにとらわれているのか、その瞳は雄弁に語っていた。 そんな兄の心情を双生児特有の聡さで理解した辛は、とてもぶっきら棒に、
「別に・・・」
と半ば吐き捨てるように呟く。そして自分よりも華奢な庚の肩を抱き寄せると口をとがらせて、
「庚がいないんじゃ、楽しくなんかないよ」
心の底からそう告げる。
 そんな弟の言葉に、苦笑を浮かべた庚はすぐ近くにある頭を抱え込み、
「少しは高校生らしくなってくれよ。そうしないと、僕は辛のことが心配でおちおち眠っていられやしない」
笑いを含んだ口調で冗談めかして弟の耳に囁きかけてはいるが、その双眸に宿る光は見事にそれを裏切っている。
 双眸に宿る暗い翳りは、静かに、ひとり庭を見つめていたときのものと同じだった。
 その翳りを辛は感じることができず、腕のなかにある、確かな温かみを持った細い身体をしばらくの間愛おしげに抱いていた。
 「雨・・・だ」
不意に沈黙を破って庚が小さく呟く。
 それが合図であったかのように、固い抱擁がほどけていった。
 渋々と腕をおろす辛を尻目に、庚は床から出て障子の方へと歩み寄る。
 その一連の仕草に、自分にはない優雅さを認めた辛はほうっと感嘆のため息を洩らす。
 この頃の辛は、同じ日に生まれ、同じ顔をし、そして同じ遺伝子を持つはずの兄と自分との相違を見つけるのが習慣化していた。そしてその相違があらわれるのは、庚の方が優れているためにあるのだと、辛は思っていた。
 庭を濡らしていく霧雨に心を奪われたのか、庚は弟の存在をすっかり忘却して陶然と窓外を見つめる。すると、麗貌に儚さがまつわりつき、じつに人間らしからぬ清澄さが生まれた。
 今にも雨のなかに溶けこんでこの世から消え失せてしまいそうな風情の庚に、言い知れぬ不安を感じた辛は、つい、
「庚!」
いつになく鋭く大きな声で、兄を正気に戻そうと思ったのか、叫んでいた。
 はっと我に返った庚は半ば呆然と振り返り、弟を見つめる。
 まっすぐこちらに向けられた眼差しに、見慣れない光がちらついているのを見て取った辛は、よりいっそう不安に駆られる。まるで見知らぬ人間を見るような、そんな他人行儀な眼差しを向けてくる庚に。
 明確にならない、漠然とした不安。
 そんな不安の原因を知ることを、辛は無意識のうちに恐れていた。
 去年の暮れあたりから、特に今年に入ってから、庚は頻繁に熱を出して寝込むようになっていた。つい数年前まではそんなことはなかったというのに。
 庚が衰弱しつつあるという明らかな事実から、辛は必死になって目をそらそうとしていた。
 舞いを見るような滑らかな所作で辛に歩み寄ると、庚はするりと弟の首に腕をまわし、互いの吐息がかかる距離まで顔を寄せ、見つめる。
「か・・・の・・・・・・と・・・・・・」
自分と同じ顔をしている弟の名をそっと呟く吐息が火のように熱い。そして、その黒い瞳は妙に潤んでいた。
「庚?」
訝しげに、眉間にしわを寄せる辛。
 突然、首にまわされていた腕から力が抜け去り、華奢な肢体がその場に頽れかける。
「庚?」
慌ててのばされた辛の腕に抱き留められた身体は異様に熱く火照っていた。
 あまりにも突然の庚の変調に動揺しつつも、とりあえず意識を失っているを床に横たえると、辛は祖母を呼びに行くため部屋を後にした。

 ひとり残された庚を取り巻くように、雨音が大きくなってゆく。
 春雷が、どこか遠くで響き渡った。

 

 
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