〜蒼月の誓い〜
「ねえ、庚。今日は出かけられそう?」
そんな言葉を皮切りにして、辛は弾むような口調で今週の予定を詳しく説明しはじめる。
ゴールデンウィークということで、まるまる一週間分の休みを与えられた高校生としてはこの休みを大いに利用しないわけがないのだった。
久しぶりに床をあげることのできた庚は苦笑混じりに弟の立てた楽しい計画に耳を傾けている。朝早くたたき起こされて、半ば強引に聞かせられているにも関わらずにだ。
「俊也さんが・・・、治也の叔父さんのだよ、が、車を出してくれるっていうから、キャンプに行きたいんだけど・・・・・・。庚、どうする?」
同じ背丈なのに何故か上目遣いな眼差しでどうしても行きたいと主張しながらお伺いを立ててくる何となく情けない姿に、庚の苦笑がさらに深まる。
「お祖父さまと四塚さんが、お許しをくださったら・・・ね」
笑いを滲ませた口調でそう言い置き、許しを求めるべく自室を後にする庚。
最近、祖父が極端に兄に甘くなってるのを知っている辛は、ひとり部屋に残りながら期待に目を輝かせていた。
◇
廊下へと足を踏みだした途端に庚は笑みを消し去り、至極真面目な顔つきになると、祖父たちがいるはずの書斎へと続く廊下の彼方へと鋭い視線を注いだ。そして数瞬後、その方向へ足を運び始める。
廊下をゆっくりと歩んでいく庚の足取りは心持ち重く、その顔にはつい先刻までは見うけられなかった疲れが滲んでいるように見えた。
一歩一歩、歩が進められてゆくごとに、明瞭に衰えはじめている体力が使われてゆくごとに、“庚”という名の存在から“何か”が剥離してゆき、その身にまとっている雰囲気が神秘的なまでに透明なものへと昇華されていくようだった。
自分に訪れはじめているそんな変化を、庚はしっかりと認識していた。半ば心地よいものとして、半ば苦痛を伴うものとして。そして、その変化は精神だけでなく肉体にまで及びはじめていることにすら気づいていた。
自分が確かに踏みしめているはずの板のひんやりとした感触が感じられないことに気づいた庚は、自分という存在が現実から遊離しかけていることを悟り、必死に自分を現実の、この世界へと縛りつけるよう努力する。
庚をとりまく時間が止まる。
今のままでは、このまま自分をこの世から消してしまっては駄目だと、目論見の全てが水泡に帰してしまうと、鋭く己を叱咤する。しかし、現実を拒否しつつある身体の方は簡単には言うことを聞いてくれそうにもなかった。
どれだけの間自分の意識と微妙にずれた動きを見せる肉体と戦ったのか、少しぎくしゃくとしてはいたが、肉体を何とか己の意識下に置くことに成功した。
自分でも意識せずに、深く深くため息をつく庚。
その顔色は白紙に近いほど血の気が引いている。
刻々と変化してゆく肉体と精神の両方に責め苛まれながらも、庚は長く感じられる廊下を少しづつ進んでいった。ただひたすらに、心の内で辛のためだと繰り返しながら。
◇
色好い返事がもらえることは百も承知だと思いながらも、待たされることがあまり好きではない辛はすぐに待つことに飽きてしまい、いけないことだと思いつつも兄の部屋を物色しはじめた。
ほぼ毎日ここに出入りしているくせに、辛はあまりこの部屋のことを知らない。
それもそのはずで、辛がここへ来るのはあくまでも兄の庚に会いに来るためであり、それ以外のことはどうでもよいことで、あまり関心を示さなかったのである。
辛はただ漠然と庚の部屋には本がたくさんあるとしか認識していなかった。何時の頃からか部屋の中央に常に敷かれるようになった布団のことは、ほとんど反射的に意識の外に追いやって。
一卵性双生児でありながら、二人の趣味はまるで違っていた。
あまり身体の丈夫でない庚は部屋にいることが多いせいか、本をゆっくり読むことを好む。ただし、年頃の少年が読むようなものではなく、世間一般の大人でさえ敬遠してしまうような学術書が大半である。それでも時々辛が買ってきてくれる小説に目を通していた。
普段から読書などほとんどしない辛は興味津々兄の本棚をのぞき込み、数冊の写真集を発見し、思わず目を丸くした。
小難しい題名の本が品よく並ぶなか、その一角は異彩を放っている。
辛の手に収まった写真集には、撮影者高木俊也と記されていた。
◇
「何故、いけないのでしょうか?」
凛とした口調で反論を試みる庚。
「先日、お祖父さまは『何でもしてよい』とお許しくださったはずです。その時に、僕は『辛と最後まで一緒にいること』を望み、お祖父さまは快諾してくださったのではなかったのですか?それなのにいけないとおっしゃる。その理由をきちんとお聞かせください」
静かな声音のうちに何事にも辞さぬという気迫を込めて、理路整然と詰め寄る。 膨大な書物が収められている書斎に相応しい重厚な作りの机の向こう側で、苦虫を噛みつぶしたかのような表情を、秋三郎は浮かべた。
珍しく、厳然たる態度をもって話している孫に押され気味ではあったが、
「そんな身体で旅行なぞ、許すわけにはいかん」
可愛い一人娘の忘れ形見である孫の身を心配して、至極当然な事を口にした。
瞬間、庚は辛そうに顔を歪めた。自分が今言っていること全てが単なる我が儘に過ぎないことを、頭ではよく理解していた。それでも、ここで簡単に引き下がるわけにはいかないのだった。辛のためにも、そして勿論、自分のためにも。
「お祖父さまの言い分はよくわかっています。いえ、よくわかっているつもりです。ですが、僕はどうしても辛と行きたいんです。これが、僕にとって最後の旅行になるかもしれないのですから・・・」
真摯な眼差しを秋三郎へ注ぐ庚の表情はあくまでも静かなもので、自分の死期を薄々と感じ取りながらも、それを受け入れることができた者特有の清澄さに溢れていた。
そんな孫の上に、一人娘の面影が自然に重なってゆくのを秋三郎は感じた。得体の知れない男と結婚したいと、生まれて初めて自分の意見を声高に告げたときの娘の表情と、今目の前にいる孫の浮かべているものは瓜二つだった。
秋三郎は大きく息を吐いて庚から視線を逸らすと、助けを求めるように傍らで沈黙している親友を見遣った。
ふたりのやり取りを傍らで見守っていた初老の紳士は苦笑を浮かべると、
「まあ、落ち着きなさい、庚くん。君の言いたいことはわかったから、少しの間その口を噤んでいてくれないか?」
かなえと共通するおっとりとした口調でふたりの間に割ってはいる。
「四塚さん」
祖父に詰め寄るあまりその存在を忘れてしまっていた庚は、半ば呆然と自分の主治医の名前を呟く。
「今日は、身体の調子は悪くないようだね」
温かい笑みをたたえたまま庚の様子からそう判断し、
「辛くんたちと一緒に二泊三日のキャンプに行くんだったね。いいだろう、行っておいで」
その笑顔と同様温かい声音で許可を出す。
途端に満面に笑みを浮かべる庚。
四塚はよしよしと頷きながら秋三郎に向き直り、
「というわけで、庚くんのことは全面的に私が保証するよ」
いつもの穏やかな口調で親友にそう言った。
平素は終始穏和な孫の意外な一面を再び見せつけられることとなった秋三郎はどう反応してよいのかわからないまま、こくりと首肯していた。
◇
庚が何度も自分で運ぶと主張したにもかかわらず、見栄を張って運んでやると言い切った辛は、ふたり分の大きな荷物をよろよろとした足取りで車へと運んでゆく。
弟の少し情けないそんな姿を苦笑混じりに見守る庚の表情がいつになく晴れ晴れとしている。そして、どこかほっとしているような安堵の色がその顔にはそこはかとなく漂っていた。
「やあ、庚くん、久しぶり。しばらく見ない間に、ますます綺麗になったようだね」
という科白が背後からかけられ、庚は苦笑をさらに深いものにして声のした方へと視線を向けた。
「俊也さんのほうこそお元気で何よりです。今回、お言葉に甘えさせていただいて、辛ともどもしばらくの間お世話になります」
相手の言葉をさり気なくかわし、礼儀正しく頭を下げて清雅な笑みをたたえる庚。
車の持ち主であり、治也の父方の叔父にあたる人物は目の前に佇む少年に笑みを返す。そして、不躾にならない程度に相手を凝視する。
「本当に綺麗になったね。・・・怖いぐらいに。今度、俺のモデルになってくれないか?」
写真家としての感性をいたく刺激され、俊也は真剣な声で呟く。
高木俊也という写真家が今までに一度として人物を被写体に選んだことがないことを熟知している庚は思わず目を丸くし、
「俊也さんは、人物をお撮りにならないのでは・・・?」
大人びた表情のなかに、年相応の、純粋な驚きが含まれる。
少年のそんな反応に口許をわずかに歪ませた俊也は、
「撮らないわけじゃない。ただ、俺の心を揺り動かすことが出来るほどの人物がいなかっただけの話だ」
数種の思いが複雑に絡み合った声で低く告げる。そして、すっと目を細めてその双眸に宿っているはずの光を気取られまいとする。
それでも、それでも庚は気づいてしまった。俊也の瞳に宿った光の色に。その色に秘められている深い意味に。そして、それは庚からいっさいの言葉を奪い去る。
ふたりの間に気まずい沈黙がしばし訪れたが、それはそう長いことではなかった。
「庚、荷物積み終わったけど?」
辛がさっそく乗り込んだ車の窓からひょっこり顔を出し、言外に早く乗れと催促したのである。
「今、行くよ」
反射的にそう答えてから、
「僕のほうは別に構いませんが・・・。本当に、いいんですか?こんな僕でも・・・」
と手短く俊也に告げ、多くの意味を込めて深々と頭を下げてから車へと乗り込んだ。
了承を得られたことに喜びを感じてもいいはずの俊也の表情がかすかに翳りを帯びる。
「庚くん、君は・・・。君は・・・」
俊也は庚のなかに見いだしてしまったものを、上手く言葉で表現できなかった。強いて表現するならば、それは『運命』という言葉と非常に酷似しているものだった。
◇
ナビゲーター役を仰せつかってしまった治也は必然的に助手席に座ることとなり、ふてくされた表情で運転席の叔父を睨みつけていた。
少しばかり憎しみが混入されているように感じられる、甥の鋭い視線をひしひしと感じ取りながらも、あくまで涼しい顔で運転に集中する俊也。
後部座席では庚がすこし物珍しげに窓外の流れゆく景色を熱心に見つめ、その横顔を辛がさもつまらなそうに見つめている。 やがて窓の外の景色から視線をはずす気になった庚が、
「ねえ、辛。僕の顔、変かい?」
どこかからかう口調で弟を見遣る。
一瞬、ばつが悪そうに俯きかけた辛だったがすぐにいつもの明るい笑みを浮かべ、
「庚って、つくづく色白だったんだなぁって思ってたんだよ」
軽い口調で言い放ち、それを証明しようと腕を並べてみせる。
辛の腕は、生来の白さが失われ、陽光の下で躍動的に動き回るのが似合いのもの。
庚の腕は、生来の白さも手伝い、月光の下で静かに佇んでいるのが似合いのもの。
その色合いは、あらゆる意味でよく似ている、ふたりを知る大半の者はそうは思わないだろうが、双生児のなかにある唯一の違いを見事に象徴しているように思えた。
つまり、『動』の辛と『静』の庚を。
何気ない弟の言葉に失笑を洩らす庚の双眸に読みとりがたい光が宿る。それに伴い、その身を取り巻く雰囲気が無機質的な、透明なものへと変化していった。 その変化にこらえがたい恐怖を感じた辛は思わず叫ぶ。
「庚!」
びっくと全身を震わせ、目が覚めたばかりのような惚けた表情を浮かべる庚。
「?」
悲痛とも言える辛の叫び声に完全に反応しきれない。
下唇を噛みしめ、辛は自分でもよく理解できない苛立ちと、めっきり身体の弱ってしまった、そんな兄への不安とを必死にこらえていた。
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