〜蒼月の誓い〜
それはほんの気まぐれだった。
彼、高木治也はちょっとした思いつきからその駅に降りることにしたのである。
そう、それは、日常生活に、ごくありふれた、ただの偶然。
もしかすると、人はそんなささやかな偶然のために、自分の人生を左右されてしまうのかもしれない。
◇
滅多に降りることのない駅に吸い寄せられるようにして降り立った治也は、自然とできあがる人波に身をまかせて改札口を通り抜けた。
改札口を一歩出ると、よく待ち合わせ場所に使われているのだろう、そこは人々でごった返していた。そんな一角に、華やかなムードに包まれた女子高生たちのグループが集まって騒いでいる。
人ごみのなかにいることを、あまり好まない治也にしては珍しく、黄色い声を上げてはしゃいでいる女子高生たちが作っている人垣に興味をひかれ、視線をふっと注いでいた。そう、何かに呼ばれているかのように、視線が自然とそちらへ流れたのだ。そして、理由のまるでわからない衝動に駆り立てられてその方向へ自然、足を運んでいた。
その人垣は、駅の構内の一隅にひっそりと置かれているベンチの前に形成されている。
どうやらベンチに腰をおろしている人物、たぶん待ち合わせにくたびれかけている『美男子』、に好奇心を刺激された女子高生たちが果敢にアタックしているようだった。
そこまで状況を見て取った治也は急速に興味を失い、その場から立ち去ろうときびすを返しかけた。その背中へ、
「治也」
耳に心地よい低さの、明らかに男性の声が親しげにその名前を呼んだ。
足を止めて振り返りながら声の主を猛スピードで検索してみるが、まるで記憶に存在しない、聞き覚えのない声だった。
そうそうに幻聴と決めつけて軽く肩を竦め、再び歩きだそうとした治也に、
「治也!」
やや慌て気味に、同じ声がかけられる。
声にひそむ必死さに気をひかれて振り返った治也の肩を、大急ぎで人垣をかきわけて現れた青年が、がっしりと掴んだ。
まったく見覚えのない人間に、いきなり親しげな振る舞いに出られた治也は当惑し、つい相手の顔をまじまじと見つめてしまう。不思議な雰囲気を持つ青年の容貌は、その辺にはいて捨てるほどいる安っぽい美貌とは違う、見る者を惹きつけて止まない輝きを内に秘めた美貌だった。
不覚にも、治也は見知らぬ青年の美貌に陶然と見惚れてしまった。
それに気づいた青年は、何故か、少し寂しげな笑みをその端正な顔に浮かべ、
「俺が、誰だかわからない、かな?」
必要以上に治也に顔を近づけて、その耳許へそっと囁きかける。
青年には及ばないまでも、治也も十分端整な顔立ちをしており、そんな二人が顔を近づけている様は、何故か妙に絵になっていた。
瞬間、背後で少女たちの黄色い悲鳴があがる。
強烈すぎるその声に、思わず顔をしかめて耳をふさごうとあげかけた治也の腕を強引に取った青年は、駅の構内から出ようと自分より長身の治也を思いきり引っ張る。
女性特有の『黄色い悲鳴攻撃』にさらされた治也は、そんな青年に抵抗する気力を完全に喪失していた。
◇
青年に引きずられて構内を一歩出た途端、初夏の眩しい陽光を浴びた治也ははっと我に返り、
「君はいったい誰だ?」
至極当然な質問を唇にのぼらせた。
先を歩いていた青年はその歩みを止めるとともに、掴んでいた手を放して治也を返り見る。
「本当に、俺が誰だかわからないのかい?治也」
低くそう呟き、端正な貌を悲しげに曇らせた。
全く記憶にない容貌に宿ったその翳りに、治也は覚えがあった。そして、それが誰のものであったのかも同時に思い出していたが、治也はそれを思いきり打ち消した。
治也の思いを理解したのか、青年は苦笑いを浮かべ、
「俺だよ。秋義辛だよ」
万感の思いをこめてそう名乗る。
自分が予想していた人物とは名前が少し違っていたが、それでも、とても意外な名前を耳にし、治也は目を丸くした。
素直すぎるその反応に、辛と名乗った青年は苦笑をさらに深めて、
「立ち話も何だから、どこかに入らないか」
そう提案する。
尋ねたいことがいくつもあった治也に、もちろん否やはなかった。
◇
休日の混み合いを器用に避けながら、何か目的地があるように歩いていく辛を、治也は半ば呆れながら見つめていた。
擦れ違う人間すべてが、老若男女を問わず、思わず足を止めて辛を見つめてしまうのに、当の本人はまるで意に介さずに歩いていくのである。まるで自分の周囲には治也しか存在していないかのように、人波を器用に避けつつも、見事に無視を決め込んで足を運んでいくのである。
他人の視線を妙に惹きつけてしまう辛の闇い磁力に、治也は少なからず不安を覚えると同時に違和感をも感じていた。彼が以前よく知っていた辛という人物は、陽光がとても似合いの実に元気な少年で、今のように他人を惹きつけてやまないどこか暗い翳りなどとはまるで無縁の存在のはずだった。
そんな治也の不安や困惑をよそに、どこか投げやりで物憂げな表情のまま、人波をじょうずに器用に泳いでいた辛は、不意になんの前触れもなくある喫茶店のドアをくぐった。
時間の流れという重みをはしばしに漂わせた落ち着いた佇まいの、古風な趣のドアの前で治也は少しためらってしまった。建物が醸し出す時間という名の澱が、彼の若者らしい感性とあまりなじまなかったのである。
「治也、どうした?」
入ってくる様子を見せない連れにじれたのか、つい先刻までつい来ているかどうかまるで確認しようという素振りすら見せなかった青年がドアを開けて顔を出す。
青年の美貌に、かすかに不安の色が見受けられる。
それで治也の心は決まった。
「何でもない」
少し苦笑を浮かべて言いながらドアをくぐった途端、時間という名の重圧をほんの少し感じはしたが、ただそれだけだった。
店内に入ると、静かなクラシック音楽が耳に届き、モダンという言葉がしっくりくる上品な温かさが治也の全身を包み込んだ。
「こっちだ」
ふわりと表情を和ませた辛は短く言い、店内で一番目立たない最も奥まった席へと治也を招く。
水を得た魚のように活き活きとしはじめた辛に引きずられて、治也もリラックスした様子で椅子に腰をおろすと、改めて店内を見回した。
素人目にもなかなかの値打ちものであることがわかるアンティークが、惜しげもなく空気に晒され、客の視線と店の雰囲気を十分に考慮した位置に配されている。
店内をゆっくり見回して初めて、治也は辛が何故この店を選んだのか理解した。
店に漂う空気と雰囲気が、治也が昔よく遊びに行った秋義邸のそれらとよく似ていた。
思わず懐古の念にとらわれてしまった治也の耳に、
「注文、何にする?」
ここの空気によく似合う低声が響く。
「何でもいい。任せるよ」
懐かしい雰囲気に酔いかけていた治也は機械的な調子で返答する。
そんな態度に一瞬むっとした顔つきになった辛だったが、すぐに無表情に近い取り澄ました顔を取り戻すと、慣れた様子でカウンターの奥にいる店長にオリジナルブレンドを二つ注文する。
物思いに耽りかけていたのを邪魔され、現実に、現在の時間に浮上した治也はその様子を興味津々見ていた。
「ここにはよく来るのか?」
ついそう尋ねてしまいたくなるくらい、青年の存在はこの店の空気に違和感なく溶けこんでいた。
「まあ・・・ね」
辛は微かに苦笑を浮かべて曖昧に応じた。
そんな態度に少し引っかかりを感じながらも、
「本当に、久しぶりなんだよな。確か・・・九年ぶりぐらいか」
改めて懐かしそうに言い、偶然再会することの出来た幼なじみの顔をつくづくと眺める。向こうから声をかけてこなければ決してそうだとは思えないぐらいに感じの変わってしまった、それでいてこうして改めて眺めると昔の面影が残っている顔を、必死に記憶にとどめようとでも思っているのか、その視線はかなり鋭い。そして、さらに言葉を重ねようとして開きかけた口を慌ててつぐんだ。
注文したものがやってきたのだ。
店長自らがふたりの前にそれぞれコーヒーカップを置く。 しばらく立ちのぼる芳香を楽しんでから、ふたりはコーヒーを一口、口に含んだ。
口中に、コーヒー独特の苦味が広がってゆく。
軽く目を閉じて余韻を味わっているらしい治也が満足げに頷き、
「美味い」
短く論評する。
辛は特に何も言わず、微笑むことで賛意を示す。
再び違和感を感じた治也はカップをソーサーに戻して軽く咳払いをすると、
「唐突で何だが、庚はいったいどうしたんだ?あれだけ何時も一緒にいたがったくせに、今はひとりなのか?辛」
そう口にしてから、治也は目前の青年に感じていた違和感の正体の一端を知った。
治也の言葉に、辛はコーヒーを飲むのを止め、カップ越しに相手の顔を見つめる。
湯気の向こう側から注がれる眼差しのなかに理解しがたい光を認めた治也は戸惑いの表情を浮かべる。
辛はカップをソーサーに戻してひっそりとした寂しげな笑みを見せ、
「庚の姿が、どうして俺の傍らにないのか。その理由を聞いてくれるかい?治也」
淡々とした調子の声とは裏腹に、双眸には真摯な光が宿っている。
辛の仕草の端々に庚の面影を見いだして、治也は困惑とも狼狽ともつかぬ複雑な表情をしていたが、躊躇うことなく首肯する。辛に言われるまでもなく、治也は庚の消息を知りたいと思っているのだから。
そんな治也の意気込みに何を感じたのか、辛はふわっとした柔らかい笑みを浮かべて見せ、
「そう言ってくれると思っていたよ。やっぱり君は変わっていないんだな、治也」
心の底からそう思っているのがはっきりわかる口調で断定する。
「これなら、庚も・・・・・・」
そして口の中で小さく呟く。
それを聞き取れず、不審に思った治也は首を傾げ、
「何か言ったか?」
「別に・・・」
追求されたくなさそうに、辛はとぼけた表情で短く言い捨て、コーヒーを再びくちにしはじめる。
話し始める様子のまるでない青年に拍子抜けした治也もカップを口許へ運ぶ。
治也の様子を窺うように目を上げた辛だったが、その目に宿る光を気取られないようにと慌てて視線をテーブルへと転じた。 それは、悲哀と寂寥、そして不安が複雑に絡み合った色彩を帯びた光だった。
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