〜蒼月の誓い〜
キャンピングカーが作り出している日陰のなかに、俊也が据えてくれた折り畳み式の椅子に腰をおろした庚は、湖岸でふざけあっている辛と治也を何となく眺めていた。楽しそうにではなく、さりとて羨ましそうにでもなく、ただふたりの姿を眺めていた。
夢うつつなのか、何の感情の色も浮かんでいない黒瞳が湖に入ってゆく少年たちの姿を追ってゆく。
椅子に全身を預けることでようやく姿勢を保っている庚の視界のなか、弟と友人は水辺にいるときにはお決まりの水のかけっこをしてはしゃぎ回り、全身濡れねずみになっている。
そんな少年たち三人を、少し離れた林の木の陰から夢中でカメラに収めている俊也の姿があった。庚に表情を作られないようにと細心の注意を払ったら、そんな距離になってしまったのだ。
その努力がむくわれて、庚は被写体になっていることなどまるで気づかずにいた。もっとも、俊也の姿が何処にも見あたらないことにはとっくに気づいてはいたが。
あくまでも静かな湖面は遥か彼方に広がる青空の色を写し取り、空を悠然と流れゆく雲は地表に自身の影を落としてゆく。
少年たちの手から放たれる水飛沫は陽光を受けてきらきらと輝きわたり、木立のなかをすり抜けてきた風は濃厚な緑の香りを運んでゆく。
久方ぶりに自然のなかに埋没した庚は全身にそれを感じ取ろうと、深く深く息を吸い込み、ゆっくり長く息を吐く。その度ごとに、身体のすみずみに心地よい力が浸透してゆくのを感じた。
ファインダー越しに庚のリラックスした表情に見惚れていた俊也の両肩が、不意に、誰の目にも明らかなほど揺れた。そして、俊也は慌ててカメラをおろして肉眼で庚を捕らえる。
「?」
しばらくの間当惑げに被写体の姿を見つめていた俊也の表情が徐々に変化してゆき、やがて寂寥と怯えという不可思議な取り合わせの色を漂わせはじめていった。
ファインダーのなかに捕らえられている庚の全身が、金色の光に包み込まれていたのである。しかもその光は庚が深呼吸をする度にその輝きを増してゆくのだ。 気がつくと、先刻の恐慌を忘れて俊也は夢中でシャッターを切り始めていた。
何時になく開放感を感じている庚の唇から澄んだメロディーが流れ出し、それにつられるかのように、何処からか飛来した一羽の野鳥が躊躇することなくその肩へと舞い降りた。
自然、庚の口許が綻ぶ。
見る者すべてを魅了してしまう無垢な微笑み。
金色の光が、優しく野鳥を包み込む。
穏やかでいて、とても神秘的な時間が庚の傍らを静かに通り過ぎてゆく。
湖に入り込んではしゃぎまわっているふたりはそんな光景に気づくこともなく、自分たちの遊びに気を取られているばかりである。
何時までも続くと、そんな錯覚を抱かせる平和な光景を、突如として野鳥の鋭い一啼きが切り裂いた。 けたたましく危険を知らせる、悲鳴じみたその啼き声。 野鳥は警告の啼き声をあげると、そのまま庚の肩から飛び去ってしまった。
自分の肩から逃げ去るようにして飛び立つ野に住まう小鳥の小さな姿を、訝しげに見送る庚の顔が不意にひきつった。
小鳥の姿が空高く舞い上がったと思った瞬間、庚の目前に、肉眼では捕らえることのかなわない暗黒が出現したのだ。そして、それは金色の光を浸食するようにして庚に近づいてゆく。
ファインダー越しにその暗黒を認識した瞬間、俊也はその場に縫い止められてしまったかのように動けなくなっていた。
目には映らないその暗黒の気配を敏感に感じ取った庚の顔から血の気が失せ、そのあまりに異質な雰囲気に拒絶反応をおこした庚の全身に鳥肌が立っていた。
暗黒が、より庚を感じ取ろうとにじり寄る。
逃げる術が失われていることを悟った庚は、絶望の表情を浮かべて両眼を閉じた。
『見つけた。見つけたぞ!王の血を引く者を!我らの傀儡となるべく生まれいでし者を!』
と、そんな科白を暗黒が執拗に繰り返していることに気づいた庚の顔がより一層青ざめる。
暗黒が、長年求め続けていた獲物を愛おしげにその腕に包み込もうとした瞬間、
「庚!」
実に楽しげな辛の声が響いた。
その途端、暗黒は砕け散り、俊也を呪縛していた力も霧散した。
強ばった顔に何とか笑みらしきものを浮かべることに成功した庚のすぐ目の前に、黄色い可愛らしい花が差し出される。
「はい、庚。この花、綺麗だろ?」
無邪気な笑みを満面に浮かべて両手いっぱいに摘み取った花を顎で指し示す。
「・・・辛・・・・・・」
弟の名を呟く声がかすかに震えている。
「辛、この花の花言葉、知っていた?」
双眸を少し潤ませて黄色い花を見つめつつ、即席の花束を受け取る庚。
唐突な兄の言葉に思わず目を丸くして黄色い花を見つめる辛だったが、すぐに僻むでもなく、あっけらかんとした口調で、
「僕が知るわけないだろ?庚じゃないんだから・・・」
軽く言い放つ。
庚はそれ以上特に何も言わず、にこりと笑う。そして心のなかでひそかに呟いていた。
(この花の花言葉はね、辛。『私の希望をかなえてください』というんだよ)
兄がたたえる笑みの清々しさに、一瞬悪寒を感じてしまった辛はそれを振り払うように思いきり頭を振り、
「庚も一緒に遊ぼうよ。せっかくこんないいところに来たんだからさ」
ことさらに明るい口調でそう提案すると、後も見ずに岸辺へと走り出す。兄になるべく見せないようにしたその顔に、拭い去りがたい翳りを宿しながら。
庚は苦笑を浮かべて立ち上がると、渡された黄色い花束を椅子の上にそっと置いてから陽光のなかへ一歩踏み出す。
ふっと、庚の双眸が蒼穹をとらえる。
吸い込まれてしまいそうなほどに青い空。
見上げる庚の頬を涙が一筋伝い落ちてゆく。
(どうか、神様。僕の願いをかなえてください。かなった後ならば、僕はどうなっても構いませんから・・・)
心のなかで呟かれた想いは、澄み切った青空へと吸い込まれ、そして・・・。
少年の切ない想いに応えるように、何かが、ぞろりとその身を擡げた。
遥か遠い、この世には存在しえない、気の遠くなるほどに遠い場所から、
【その願い、我がかなえようぞ。さあ、我の手を取るがよい、カイサリューズ】
先刻の暗黒なぞ比べものにならないほどに昏い、声無き声の返答が響き渡る。
その声に潜む本質を敏感に感じ取り、自分が誰に願ってしまったのかを悟った庚は、深い、深すぎる絶望にとらわれた。
【さあ、遠慮せずに、我の手を取るがよい!それが、そなたの願いだ!】
嬉々として、声なき声が、そう宣告する。
全身を愛おしげに押し包む冷気のあまりの冷ややかさに、
(辛!僕を、僕を助け・・・)
思わず心の中で悲鳴をあげかけたその手を、辛がグッと握りしめ、
「何してるんだよ。早く行こう。治也も待ってるよ、ほら」
朗らかに促す。
辛のそんな言葉に、庚を絡め捕らえようとしていた冷気がすっと遠のく。 強ばった顔にどうにか笑みを浮かべることに成功した庚は、辛に手をひかれるまま、湖へと向かった。
遥か遠い、この世に存在しえない、気の遠くなるほどに遠い場所で、何かが、鋭く舌打ちした。
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