〜蒼月の誓い〜

断 章 〜藍 菊〜

 

 

 「あの時のことはよく覚えているよ」
遠い目をして回想にふける治也の表情が限りなく優しいものになっていた。 昔から庚の話をすると治也がよくこのような顔をしていたことを思いだした辛は面白くなさそうに軽く口許を歪める。
 辛が拗ねてしまったことに気づかない治也は、
「あの時庚と水のかけっこをして遊んだようなあ。珍しく庚が大はしゃぎでさ」
九年前のあの頃に戻ったかのように妙に幼い顔をしてそんなことを言う。
 目前の熱い眼差しは確かに自分に注がれているが、自分のことを全く見つめていない相手に拗ねてみせた辛ではあったが、時間が経つとともにその想いは冷めてゆき、代わりに一抹の寂しさがその胸に去来した。治也の思い出のなかに自分が存在している場所はないのかと。そして治也を見つめ返す双眸に翳りが宿り、それもじき霧散した。
 そんなことにまるで気づく気配のない治也は呑気な顔でコーヒーを一口すすると、表情をあらためながらカップをソーサーへと戻し、
「庚はどうしているんだい?」
昔話を語り続ける辛の何度か言いかけては飲み込んできた科白をここぞとばかりに言い放つ。
 辛は苦笑いを浮かべ、
「そんなに庚に会いたいのかい?」
少しばかりからかいを含んだ口調で軽く言ってみせたが、その表情は翳りを宿している。
「?」
どうしてそんな顔をしているのかまるで理解できず、治也は戸惑う。
 辛は不意に表情をいっさい消し、何も言わずにレシートをさらうと席を立ち上がり、レジへと向かった。
「おい!」
慌ててその後を追う治也。
「ちょっと待てよ」
腰を浮かしかけて隣席に置いていた上着を思いだし、それを着るべく悪戦苦闘しながら何とか辛に追いついた治也は、
「何処へ行く気なんだ?」
と問う。
 何とも表現のしがたい複雑な感情をその瞳に宿して、柔らかな微笑みを浮かべた辛は治也を返り見、
「庚に会いたいんだろう?」
問いかけと言うよりは確認に近い口調でそう言い捨て、冷たいとさえいえる素っ気ない態度でさっさか喫茶店を出る。
 治也は何も言うことが出来ずにただその背中を追うしかなかった。こちらに向けられた漆黒の瞳のなかで不安定に揺れ動いている危うげな光を認めてしまったから。
 声をかける代わりに、治也は少し先をゆく親友の肩しっかりと掴み、そしてその脇に並んで歩き始めた。

 辛に連れられるままに辿り着いたのは、治也には馴染み深い『桜屋敷』こと秋義邸だった。
 秋義邸への道すがら、辛は憂いに満ちた顔のまま一言も発することはなく、自分の内に沈み込んでいた。
 そんな辛が少し心配だった治也ではあるが、これから会えるであろう人物の方にいささか気を取られ過ぎていて、無言のままでいる辛に不満を感じることはなかった。
 昔よく通っていた道のあちらこちらが思いきり様変わりしていることに、九年という月日の長さをしみじみ感じさせられてしまった治也だったが、そんな感慨も『桜屋敷』の門をくぐり抜けるまでだった。
 門をくぐり抜けてすぐさま視界に入った風景は、九年前のものと、高校生になったばかりの治也の記憶のなかのそれと寸分違わぬものだった。薄気味悪く思えるくらいにそっくりそのままの風景がそこにはあった。
 治也が心に抱いた想いなど素知らぬげに、辛は黙々と来客用の居間へと案内をすると、
「ここで待っていてくれ。今、庚を呼んでくるから・・・・・・」
低い声でぶっきらぼうに言い置き、少し急ぎ足で廊下へと出ていく。
 品よくしつらえられている調度品に興味のなさそうな、単なる暇つぶし程度の思いをこめた視線を注ぎながら、治也は辛と再会してからのことを反芻しはじめた。そして、辛が終始緊張していたことに思い至った。それが、庚の名前が話題にのぼったときに特に顕著であったことに気がついて、愕然とした。記憶のなかの双生児は、治也が呆れてしまうほどお互いのことを大事にしていたのだから。
 さほど待たせることなく、辛が戻ってきた。
 それに気づき、治也は軽く咳払いをし、表情をあらためた。
「治也、庚を呼んできたぞ」
声のなかにあからさまに緊張の響きを宿して言いながら入ってくる辛の後から、辛に瓜二つの、しかしどこか線の細い、現実にあまりにもそぐわない透明な雰囲気をまとった青年が入ってくる。
「お久しぶりですね、治也」
極上の部類に入る優美な笑みを浮かべて、柔らかく温かみのある口調で、青年、庚はそう挨拶をした。
 さっと頬に朱を散らす治也。
 何故か、辛は苦痛をこらえているかのように顔を歪めて、ふたりのそんな光景からから視線を逸らす。
 九年前とはまるで違う空気に、どこか緊張を秘めた空気に包まれたまま、三人は各々ソファに腰をおろした。
 口の端に笑みをとどめたまま庚は、
「本当にお久しぶりですね。確か九年ぶりでしたか?」
その容貌に相応しい柔らかくて深みのある声音で言いながら辛をツッと見、
「すまないが、紅茶を入れてきてくれないか?」
口調をガラリと変え、それどころか冷たささえ漂わせて言う。
「ああ」
辛は顔を強ばらせたまま首肯し、居間を後にした。
 双生児の間にぎこちない空気が流れているのに気づかざるをえなかった治也は、おずおずと、
「何があったんだ?」
目の前の麗人に問いかけてみる。
 虚をつかれたのか、瞬間きょとんとした庚ではあったが、すぐに温かい笑みをたたえ、
「貴方はまるで変わらないんですね」
ぽつり呟く。
 庚の微笑みに魅了されながら、どこかで聞いた科白だとぼんやり思う治也。
 治也の間の抜けた表情に苦笑を誘われた庚だったが、すぐにそれを消して真剣な顔つきになる。すると、穏やかにその身を包んでいた雰囲気が恐怖をかんじさせるほどに鋭いものへと変じる。
「・・・・・・貴方が・・・、治也、貴方だけが・・・最後の頼みの・・・綱なんです。あれをこの世にとどめておくためには、貴方という存在が・・・、幸福な時間をともに過ごした貴方が・・・必要なんです。もうこれ以上、あれの運命を・・・狂わせるわけには・・・いかない。愚かな私のせいでもうこれ以上あれを苦しめたくはない・・・のに・・・・・・」
自分に言い聞かせるように、苦しげに呟く庚。
「?」
その言葉の意味が解らず首を傾げた治也はもの問いげな視線を端正な横顔へと注ぐ。
 庚はそれに答えようとはせず、苦笑いをかすかに浮かべた。
 不自然な沈黙がふたりの間に落ちる。
 その沈黙に治也が耐えきれなくなった頃、
「庚、紅茶を入れてきたぞ」
辛が戻ってきた。
 表情を硬くしてカップを受け取る庚の双眸が瞬間悲しみの色を宿して辛へ注がれたことに治也は気づき、ふたりの間で起こったことを知りたいと、強く思った。そして、できることならば、それを自分の手で解決してふたりの仲を元に戻すことを、ふたりが微笑みを交わしあうようになることを望んだ。
 紅茶を片手にしばらくの間旧交を温めた後、庚は疲れを理由に早々に退室してしまった。
 立ち去りゆく背中を見送りながら、
「庚はいまだに虚弱な体質なのか?」
その青冷めた顔を思い出しつつ、治也は双生児の弟に尋ねる。
 辛は軽く肩を竦め、
「さあ?でも、ここの環境が身体にあわなくなってしまったとは言っていたけど・・・」
どこか他人行儀なその物言い。
 驚きのあまり目を丸くして辛の冷め切った顔を見つめる治也。
 目前にいる人物は、治也がよく知っていた、明朗活発な秋義辛とは別人だと断言してしまいたくなるくらいに感じが変わってしまっていた。
 冷え切ってしまった紅茶で唇を湿した辛は表情を真剣なものへ変え、
「俺がいない間に庚が、何か余計なこと、言わなかったか?」
真摯な眼差しを、久方ぶりに会った親友へと注いだ。
 その眼光の鋭さに思わずたじろいでしまった治也ではあったが、先刻の庚の言葉を心のなかで繰り返しつつも首を左右に振った。理由など無かったが、何故かそれを言ってはならない、告げてはならないと感じたのだ。
「そう・・・か・・・」
吐息とともに吐き出された言葉に数種の思いをこめた辛の眼差しが、寂しげに揺れていた。
 飼い主に見捨てられて途方に暮れる忠実な犬のようなその双眸に心をかき乱されはしたが、それでも治也は庚の言葉を告げてはならないと思った。だから、
「辛、何故あんな場所にいたんだ?」
別の話題をふる。
 辛の表情が見事に変わった。気弱さがなりをひそめ、どこか警戒心をまとわりつかせたきついものへと変化する。
「何故?」
逆に辛が問い返す。

「何故って・・・。偶然あそこにいたにしてはあんな状況だったろ?ずいぶんあそこに長くいたみたいだったから・・・」
少ししどろもどろな口調で必死に答える治也の顔から、双生児に対する違和感が何故かほんの少し拭い去られていた。
「あそこで待ち合わせていたんだよ。ところが、相手が全然来る気配がなかったから、偶然見かけた治也に声をかけたってわけさ」
表情にそぐわない軽い口調で言いながら、治也の前に置かれているカップを取り上げ、
「おかわりするだろ?」
と決めつけて再び居間から出ていってしまった。
 あまりにも鮮やかすぎる退室に呆気にとられた治也は呆然とするしかなく、辛が戻ってくるまでの短い間、その頭はまるで働いていなかった。
 目の前に置かれたカップから湯気とともに立ちのぼる香りが先刻のものとは違うことに気づいた治也は、
「これ、ブランデー入れただろう」
少し不思議そうに辛を見遣る。
 辛は微苦笑を浮かべて、
「相変わらずアルコールは駄目なのか?」
言いながら紅茶を一口すする。
「そんなことはないさ」
治也も苦笑いをたたえてカップを口許に運ぶ。
 しばらくブランデー入りの紅茶を味わった後、辛は静かに話し始めた。

 

 
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