〜蒼月の誓い〜

水無月・2 〜薔 薇〜

 

 「何か妙だね」
しとしとと降り注ぐ雨音に紛れてしまいそうなくらいに小さな声で、庚がポツリと呟く。そして続く微かな忍び笑い。
「何が?」
耳聡くそれを聞きつけた辛は少し憮然とした口調で面白くなさそうに聞き返す。
 ここは庚の寝室であるが、今日は余計な客がいた。
 自分の部屋があるのだからそちらでおとなしく寝ていればいいものを、辛はだだをこねて兄の寝室に自分の布団を敷いてもらったのである。つまり、辛は庚と枕を並べて、一応病床についているのである。
「辛が寝込んでいる姿なんて、今まで一度だって想像したことなんかなかったから・・・」
軽く言い放つ庚の声は笑いを含んでいる。
 そんな兄の笑いをどういう意味にとったのか、辛はふてくされて頭から布団をかぶり、『お籠もり』を決め込んだ。
「梅雨時だっていうのに治也とムキになってサッカーなんかしたりするから、風邪を引いてしまうんだよ」
咎めるでなく、からかいを軽く含んだ調子でいいながら布団から這いでると、庚は弟の布団をはぎ取る作業に取りかかった。
「僕をダシにしてくだらないことをするから、こんなことになるんだよ。それに、雨のなかを傘もささずになんて、電話をもらったら迎えに行こうと思っていたのに・・・」
「今朝、あんなに熱をだしてた庚を呼び出せるもんか!」
布団の中にもぐっているのだから、くぐもって聞こえてしかるべき辛の声が、やけに明瞭に響く。
 弟の剣幕に、庚は思わず苦笑を浮かべてしまった。
「もう、大丈夫だから・・・ね」
なだめるような甘い声音でそう告げる庚の双眸が、それを裏切るように微かに翳る。
 ガバッと自ら布団をはいで現れた辛の顔は、怒りに歪んでいた。
「庚はいつもそうだ。にっこり笑って平気で嘘をつくんだ。僕にも、みんなにも。それに、それに、庚は、自分自身のこと、まるで大切にしていないんだ!」
そこまで一気に叫んだ辛の目に涙が浮かぶ。
 何を言えばいいのか、庚は珍しく躊躇してしまった。どういう言葉を口にすれば辛の気を鎮めることができるのか、いつもならば容易に想像できるのに、今回ばかりはとっさに思いつけず沈黙してしまう。
 涙目で、兄の戸惑い気味の顔を鋭く睨みつけ、
「そうさ!僕にとってはくだらないことなんかじゃないよ。だって、庚のことなんだから!!」
そう叫び、再び布団に潜りこんでしまう辛。
 困惑した表情で隣の布団に生じた小山を見つめる庚の双眸に、苦痛の翳りが宿る。
 布団の中で身体を小さく丸めながら、
「くだらなくなんかない。庚のことなんだから・・・」
それが力のある呪文であるかのように、辛は低い声で何度もくり返し呟いていた。
 それからしばらく後、安らかな寝息が聞こえはじめた布団の小山を見つめながら、
「許してくれるよね、辛。僕がこれからしようとすることを・・・。今でなくていいから、いつの日にかは、きっと、許してくれるよね」
気弱げな顔つきで、小さく囁きかけるその声が哀しげに震えていた。
「僕がこれから君に与えてしまうだろう苦痛を・・・」
雨音にかき消されてしまうほどにか細い声で、眠りについている弟へと低く囁きかける。
「お願いだから、辛、こんな僕をいつかは・・・許して・・・ね」
呟きとともに、涙が一筋その頬を伝い落ちていく。
 そんな庚の切ない囁きは、雨音に容赦なく奪い去られ、室内からはいつしか、人の呼気以外の物音が絶えていた。

 窓際に置かれているアームチェアーに腰を下ろしている庚のいささか物憂げな横顔に、ぬぐい去りがたい疲労感が漂う。
 そんな疲労困憊の庚を気づかってか、シャッターを切る俊也の指はとかく鈍りがちだった。
 以前の約束どおり、庚は俊也の被写体となっているのである。
 相変わらず降り続いている雨をその瞳にとらえているのかいないのか、庚はただ窓の外を見つめている。窓から見えている景色がまるでなじみのない港街であるにも関わらず、一切の注意を払っていないようだった。ただ、雨の雫のみを見つめているようだった。
 港町にふさわしい白いアームチェアーに全身を預けるようにして庚は座っているのだが、俊也の目にはそれからすら浮き上がっているように、現実から半ば遊離しているように写っていた。
 時間の流れを忘れ去り、俊也は写真を撮り続けたが、やがてその手を休め、
「少し休もう、庚くん。顔色が悪すぎるよ」
休憩を宣告した。しかし、その言葉が聞こえなかったのか、庚はぴくりとも動かない。
「庚くん?」
さっと顔色を青ざめて名前を呼ぶ俊也。
 ぴくっと肩を震わせて呼び声に誘われるように、庚は俊也の方を見やったが、その眼差しは相手をしっかりと認識していない。夢見心地でいるのか、現実を認識していない。
「庚くん!」
その眼差しに言いしれぬ不安と恐怖を感じてしまった俊也は、反射的に鋭く少年の名前を叫んでいた。そして、それから逃れるように顔を思いきり背ける。
「俊也さん、どうかしましたか?」
これ以上は見るまいと瞼を固く閉じた俊也の耳に、訝しげな声が届く。
 声に促されて恐る恐る目を開けて見やった双眸に、清雅な微笑みをたたえて小首を傾げているいつもの庚がとらえられた。途端、俊也は安堵のため息をついていた。
 俊也が見せた表情から自分がどんな状況に陥っていたのか悟った庚は、その表情を翳らせる。
 そんな表情を見てしまった俊也は思わずシャッターを切る。
 再び室内にシャッターを切る音だけが響きはじめる。しかし、やがて庚の方が先に根をあげ、休憩を申しでるのだった。
 はっと我に返った俊也は、庚の顔色のあまりの悪さに、自分の軽率さを思わず呪ってしまう。
「すまない。君の体調を考慮に入れてなかった」
今にも土下座して謝りそうなぐらい申し訳なさそうに言いながら、俊也は部屋の中で一番窓から遠いソファに座るよう庚を促した。
 青白い、ほとんど紙のように白くなってしまった顔に精一杯の笑みを浮かべてアームチェアーから立ち上がろうとした庚の身体がぐらりと傾く。
「危ない!」
とっさに手をさしのべる俊也。
 その手が間一髪で間に合い、庚は俊也の腕のなかへと倒れ込む。
 両腕でしっかりと庚の身体を抱きとめた俊也は、見かけから想像していた以上に細く、軽すぎるその身体に絶句した。
 庚は素早く俊也の腕から逃れると、
「どうもすみません。めまいがしたものですから・・・」
少々頬を赤らめて、うつむきがちに弁解めいた言葉を口に上らせると、少しふらつく身体をどうにかソファまで運ぶ。
 腕のなかに感じた細い身体に対して感じた違和感の正体を明確な言葉にできず、俊也はただ、
「俺の方こそ、君に無理をさせている」
苦笑めいたものを努力して浮かべながらそれだけ言い、ややぎこちない足取りで簡易キッチンへと向かい、小振りのケトルを火にかけた。
「ところで、ここへ来ていることは、辛くん、知っているのかい?」
気分転換にと、俊也は別の話題を持ちだした。そうでもしなければ、今自分の胸の内を駆けめぐっている言いざし難い不安が、とりかえしがつかなくなるほどに己を変えていってしまいそうだったのだ。
「いいえ」
相手の思いに気づかない庚はごく簡潔に答える。
「どうして?」
不安感が少し薄れてくれたことに内心安堵しながら、表情だけは興味ありげに取り繕ってさらに問いかける俊也。
 常ならば他人の感情や思いに対して敏感すぎるほどに反応してみせるはずの庚が、相手のそれに特に気づかず、
「たった一枚の写真であれだけ大騒ぎしてみせる馬鹿者なので・・・」
つい先日の、自分にとっては実にくだらないとしか思えない騒動を思い出し、苦笑を浮かべる。
「じつの弟に対して、それはあんまりな言い様じゃないかい?」
最近凝りだした紅茶のなかでも自信を持って薦められるものカップに注ぎいれ、庚の元へと足を運びながら、苦笑混じりに辛を弁護してみせる俊也の表情はごく穏やかなもので、正体不明の不安感を表にだすことは一切なかった。
「ありがとうございます」
小さくそう言ってカップをソーサーごと受け取り、庚は紅茶を口に運ぶ。そして一口含んだ途端にっこり笑い、
「美味しい」
無邪気に賞賛を口にする。
「それはよかった」
庚の向かい側に腰を下ろして俊也も紅茶を飲み始める。
 しばらく紅茶を片手に談笑をしていた二人だったが、不意に、庚の視線が壁以外何もない方向へと注がれ、そして動かなくなった。
 そんな様子を訝しく思った俊也もそちらへ視線をやり、身体を硬直させてしまった。
 何もなかったはずの壁いっぱいに、どこの国の言葉かもわからない、子供の悪戯書きとしか思えないような文字めいたものが記されていたのである。それも血のように赤い液体で。
 何とか横目で庚をとらえることに成功した俊也は、相手の視線がせわしなく上下しているのを認め、壁にかかれていることが庚に理解できていることを知ってしまった。そしてそれが何を意味しているのか、理解できてしまった。
 ゆっくりと庚は壁から視線をはがし、俊也の顔を見つめた。
 その双眸の色が、光の加減からか、黒ではなく水色に見えるような気がした俊也は、驚いて幾度か瞬きを繰り返した。そしてあらためてみると、庚の目の色は間違いなく黒色だった。
 限りなく無色に近い独特の微笑みを浮かべた庚は、俊也を静かに見つめる。
「庚くん?」
人が持ち得ないような微笑をたたえる相手に限りない不安と微かな悪寒を抱いた俊也のその声が震えていた。
 庚はそんな相手の様子を気にした風もなく、その眼差しと同じくらい静かな声で、
「もう、あまり時間が残されていない・・・ようですね」
ひっそり呟く。そして、唐突にその場に昏倒してしまった。
「庚くん!?」
慌てて駆け寄りその身体を抱き起こしてはじめて、俊也は自分が大量に汗をかいていることを知った。

 遙か彼方で、船の霧笛が響いていた。

 

 
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