〜蒼月の誓い〜

水無月・1 〜薔 薇〜

 

 すでに丸三日降り続けている梅雨時特有の長雨に濡れそぼる庭先を、庚は床のなかから力無く見つめていた。
 先月のキャンプを境にして急速に弱りはじめた自分の身体を内心もどかしく思いながらも、家族に入らぬ心配をかけたくない庚はそれをなるべく表に出さないよう気を張りつめていたが、こうしてひとりきりでいるときにはその強がりも剥がれがちであった。
 雨に誘われるように長いため息が一つ、庚の唇から洩れる。
 雨が降り始めた一昨日と昨日の二日間、傍らに在り続けた弟の姿は今はない。祖父に怒鳴られて渋々学校へ行ったのである。
 ほうっと大きくため息をつく庚。
 ついつい自分が予想していた以上の速さで身体が弱っていく原因に思いが飛んでいた。
 あのキャンプの時に、自分に接触を試みてきた『彼の人』のお陰で、あらかじめ限られていた時間が、加速度的に手のひらからこぼれ落ちていっているのだ。
 煩わしい微熱のために潤んでいる双眸にちらりと翳りが宿る。うまく覆い隠せていたはずの心情が、その眼差しにちらりと覗いてしまっていた。
 先程より幾分物憂げな表情で、口許にそこはかとなく微苦笑を刻みつけたまま、庚は弟の帰りを待ち焦がれながら庭先を見つめていた。

 いつの間にか心地よいまどろみのなかへと誘われはじめていた庚の名を、誰かがそっと優しく呼んだ。
 その呼び声が、祖母のものであることに気づくのにいつになく時間を要したことに気づいた庚は、我知らず下唇を噛みしめ、眉間にしわを寄せた。しかし、自分が今、どんな表情をしているのか、どんなことに焦りを感じているのか、理解できずにいた。ただ、現実を現実として認識するのに、今まで以上に時間を必要としたことに気づいたのだ。そしてそれは、庚という名を有する魂がこの世界から遊離しつつあることを意味していた。
「庚さん、お起きになっていらっしゃる?」
柔らかく、耳に心地よいトーンのなかにも不安げな響きを隠しきれない声音で、かなえは遠慮がちに廊下から再度声をかける。
 まどろみから、現実から少しだけ遊離した世界から抜けきれずにいる庚の耳に、
「大変申し訳ありませんが・・・、俊也さん、庚さんはまだお起きには・・・・・・」
心底すまなそうな祖母の声が響く。
 『俊也』という名前を耳にした途端、庚は完全に目が覚めた。
「お祖母さま、俊也さんをお通ししてください」
文字通り飛び起きて、傍らの羽織りに袖を通しながら、いつになく性急な口調でいうその顔が、かすかに苦悩の翳りを帯びる。
「庚くん、お邪魔するよ」
了承を得て室内へと入ってきた俊也は常よりも緊張した面もちだった。そしてその腕には、ファイルケースが後生大事に抱えられていた。
 ケースに納められているものが何であるのか察したのか、庚の双眸がすっと細められる。
「この間の、一件、ですね」
諦念ともつけられぬ吐息とともに庚はポツリ呟き、目を伏せる。
 俊也は表情を堅くしたまま庚の傍らに座ると、機械的な手つきでケースを開けはじめた。
 ケースの中から現れたのは、何の変哲もない一冊のアルバム。
 ページをめくって確認するまでもなく、庚はその内容を知っていた。俊也の双眸に見え隠れしている怯えにも似たモノを認めてしまった瞬間、あの時に俊也がことの一部始終を目撃していたのだと、理解できたのだから。
「真実をお知りになる勇気が、俊也さん、貴方にはおありですか?」
その細い身体からは想像のつけ難い気迫を、静かすぎる口調のなかに込めて、庚は淡々と問いかける。
「僕たち双生児に関わったものを、もしかすると、貴方がもっとも大切にされているものさえも、巻き込んでしまうかもしれない。そんな真実を、貴方は本当に、お知りになりたいとおっしゃるのですか?」
そう話しつつ、庚はゆっくりと顔を上げた。
 そんな声の調子とは裏腹な、今にも泣き出しそうな表情で俊也を見つめる。が、それもほんの一瞬のことで、すぐに苦悶のそれへととって変わられた。
 自分の思惑とはまるで異なる、あらかじめ定められてしまっている、動かし難いものを変えられない口惜しさが、庚の心を責め苛む。
 そう、庚には解ってしまうのだ。これから俊也がどんな行動をとるのか。そして、その結果どんなことが起きてしまうのか。それが庚の望んでいることとまるで違うことであるということさえも。
 未だに若いはずの庚の心には、深い絶望が潜んでいた。
 自分よりもかなり幼いはずの少年が浮かべた暗い翳りのある表情に、俊也は強く惹きつけられてしまっていた。
 その表情を目にした瞬間、俊也は『恋』によく似た、強い執着という感情を目前の少年に抱いてしまった。そして、己自身のすべてをかけて、この少年を”送り届ける”義務が自分に課せられていることを、本能的に悟っていた。
 このとき俊也が抱いた想いは、奇しくも、治也がその胸に秘めているものと同質のものだった。
「俺なんかでよかったら、話してごらん。少しは楽になる」
突然湧き起こった感情に己の心を翻弄され、意識せずに極上の甘い声で言い放つ俊也の双眸が優しく和んでいた。そこには先程までの怯えにも似た色はすでにない。
「実は・・・」
己の気弱さに激しい後悔と深い憤りを感じながらも、庚は感情を押し殺した声音で話し始めた。

 大きく息を吐きつつ全身から力を抜いた庚は、暗い翳りを双眸に浮かべていた。
 枕元には俊也が置いていったアルバムが一冊。
 それに視線をやりながら、自分が必要以上に緊張していたことに今更ながら気づく。そしてその脳裏には、先刻のやりとりが明確に浮かんだ。
 普通であれば理解しがたい話なのに、俊也はすべてをあっさり肯定していた。それはもう庚が拍子抜けするくらいあっさりと。芸術家肌だから凡人とは感じ方が違うのだと言われても、すぐには納得できないほどの素直さで、庚の奇想天外な話のすべてを受け入れてしまった。
 だから、庚は不安になる。自分の行動すべてが、予定調和のなかにすでに組み込まれてしまっているものでしかないのかと。自分が危惧する最悪の事態から少しでも上手く免れようと画策しているのに、それらがすべて最悪な結果を招き寄せてしまう原因となるのではと。
 アルバムにそっと手を伸ばしかけた瞬間、
「ただいま、庚!」
乱暴に襖を引き開けて、庚がいつも待ちこがれている人物がとびこんでくる。
「今そこで俊也さんとすれ違ったけど、何の用事?」
興味丸出しの明るい声で、辛は庚に飛びついた。
「うわ!」
予想外の行動に思わず叫ぶ庚。しかし、その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「お帰り、辛。俊也さんがこの間の写真を持ってきてくれたんだよ」
と言いつつ指し示したアルバムは、見事に辛の足の下敷きとなっている。
「あっ!!」
慌てて足を動かした辛だったが、時すでに遅し。
 物を大切にする庚に目には、怒りの色が宿っていた。

 いつになく高い熱をだしてうなされている兄のそばに付き添っていたかった辛を、祖父は無情にも学校へ行くよう追い出した。
 「ちぇ!」
辛はふてくされた表情で鋭く舌打ちしながら、教室の扉を引き開けた。すると教室はしんと静まり返っていた。
 合点がいかず、教室中を見回してはじめて、今日の一時間目が体育であったことを辛は思い出した。
 あちらこちらの机の上に学生服が置かれていたのだ。
 なかにはきちんとたたまれていないものもあって、教室はいつもより雑然としている。
 そんな光景に妙によそよそしさを感じてしまった辛は苛立たしげに再度舌打ちすると、自席へ鞄を置き、再び教室を眺めやる。
 ふっと、“自分はここにあるべき存在ではない”という思いが脳裏をよぎり、消え去っていった。
 何故そんなことを考えてしまったのか。
 辛には理解できなかった。
 そんな思いを自分が抱いてしまったということを明確にとらえることはなく、辛はただ苦笑を浮かべるのみだった。その笑みが、一人きりでいるときに庚がよく浮かべているものと同質のものであることなど知らずに。
 いつになく大人びた表情を浮かべていた辛であるが、じきにいつもの子供っぽい顔つきになり、
「何だよ、庚のやつ・・・」
ぶつぶつ文句を言いながら、体育用のジャージへと着替えはじめる。
「具合が悪いくせに、無理して笑ってくれちゃってさ」
ジャージに袖を通すためにやや乱暴に伸ばした手が、隣席の机の上にきちんとたたまれて置かれていた制服、治也の制服に引っかかり、少し埃っぽい床へとそれを落としてしまう。
「あちゃぁ」
思いきり顔をしかめてバツが悪そうに、ここにはいない相手にペコペコ頭を下げて謝りながら、辛は足許の制服を拾いあげてパタパタ埃を払う。すると、胸ポケットに収められていた生徒手帳が重力に引かれ、床にめがけてダイビングを敢行してしまった。
 一度ならず二度までもと、辛ははっきりくっきり嫌になってしまうとその顔に書きながら生徒手帳を拾いあげ、何気なく中身に視線を走らせた。
「?!」
なかに収められている一枚の写真を目にした途端、辛は驚愕し、そしてすぐさま憤怒の表情を浮かべて窓辺へと走り寄り、校庭で楽しげにサッカーをしている生徒手帳の持ち主を鋭く睨みつけた。
 生徒手帳を持つ手が、怒りと妬みのあまりぷるぷる震えている。
 そっと隠すように生徒手帳のなかに収められていた一枚の写真。
 その写真のなかで、秋義庚が無垢な微笑みをたたえていた。
 弟の自分ですら滅多にみることのできない一番大好きな笑顔を見事に収めた写真を持っていた治也に、辛は押さえきれない嫉妬を感じていた。
 秋義辛は自他共に認める、超がつくほどのブラコンなのである。
 その辛にこんな写真を持っていることがばれてしまった治也のこれから先の運命は、間違いなく不幸なのであった。
「治也、首を洗って待っていてくれよ」
ゴールキーパーとして華々しく活躍している親友を見つめたまま、そう低く呟く辛の双眸に危険な光が宿っている。
 生徒手帳から兄の写真を無断で抜きだして自分のものに移しかえると、
「没収完了」
さりげなく、治也の手帳を元へと戻す。そして手早く着替えを済ませると、喜び勇んで校庭を目指しかけだしていった。

 雨の降り始めた校庭で、クラスメイトはおろか体育教師にすら見放されて、辛と治也はPK合戦繰り広げて、いや、困惑した面もちの治也が、一方的に、次から次へと繰りだされる辛の怒りに満ちあふれたボールを受けさせられて、いた。

 
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