〜蒼月の誓い〜
七月七日。
連日の雨がまるで嘘だったかのように、見事なまでの青空がその姿を見せた。
時計の針が七日になったことを告げた頃から、庚は今までに一度として感じたことがなかった異質な苦痛に、ただひたすら耐えていた。
「もう、時間が・・・残されていない・・・んだ。だから、お願いだよ、辛。僕の・・・こと、憎んでもいいから、何時か、忘れておくれ」
安らかな眠りに包まれているはずの、自分にとって最愛の者である弟に、低く、切なく懇願する。
そこにあるのは、常に一緒にいた辛すら知らぬ、素顔の庚だった。
◇
「ねえ、庚。今日は学校に行ける?」
ここ数日の間床につきっきりの兄を心配しつつ、そう声をかける辛。もともとそう身体が丈夫ではなかった庚ではあるが、今回の寝込み方はいつもと様子が違っているように思えて、辛はついついそう尋ねてしまっていた。
高校へ入学して以来、庚は数えるほどしか学校へ行っていない。
庚は苦笑を洩らしながら布団から起きあがり、心配そうに自分を見つめている弟を手招く。
「どうしたんだい?今日はまたずいぶんと心配性なんだね、辛は・・・」
自分とそっくりの顔をしている辛を、軽く首を傾げて見つめ返す。
肩を竦ませながら布団の傍らに腰を下ろした辛は神妙な顔つきになる。
庚はそんな弟にいつもより数段優しい表情で微笑みかけ、
「今日は昨日よりも調子がいいから、一緒に学校へ行こうか、ね、辛」
久方ぶりに床からでて、洋服ダンスへと歩み寄る。
「うん!!」
心底嬉しそうに頷いた辛は兄の分のお弁当を追加してもらうべく、部屋を走り出ていった。
ゴム毬のように跳ねていった弟の背中を苦笑混じりに見送っていた庚だったが、その姿が完全に視界から失せた途端、顔を苦しげに歪めて着替えるべく開け放っていた洋服ダンスの扉に縋りつくようにしてその場にくずおれた。
苦しげに洩れる吐息が火のように熱い。
一時なりを潜めていた苦痛が、数倍の激しさを伴ってぶり返してきていた。
できることならば、このまま身体を小さく丸めて深い眠りにつきたい欲求に駆られたが、そんなことが許される庚ではなかった。
辛と比べるとあまりにも細くて白い腕と、病床にいることが多くなってしまったために弱りきっている足に、精一杯の力を込めて立ち上がった庚の表情は心身を襲っている激痛に歪んでいたが、それでもその双眸には強い意志の光が宿っていた。しかしその光も一瞬後には揺らいで消え、
「辛、僕はもう・・・」
無意識に唇が言葉を紡いだが、当人はその声音に秘められた切ない思いに気づかない。
声に宿った想いは、絶望に似て非なるものだった。
深く深くため息をつき、庚は震えてしまう指先をもどかしく思いながらも、今までにほんの数回しか袖を通したことのないブレザーに着替えはじめた。
◇
著しく体力が低下してしまっている庚の身体を気づかって、主治医である四塚が学校まで車で送ってくれることになった。
校門に横づけされた車から降り立った秋義兄弟を見つめる周囲の眼差しは好奇心に満ちあふれていた。
病弱であまり学校に来たことのない兄と元気のありあまっている弟という、双生児で美貌のこの兄弟はある意味、学校のアイドルと化していたのである。
そんな周囲の眼差しに少なからず気分を害した辛は、
「ほら、カバン」
手を差し出して庚の鞄を受け取ると足早に教室へと向かう。ほんの少しでも早く庚をこんな好奇心丸だしの嫌な視線から庇える場所へ行きたいという思いが、その足運びに如実に現れていた。
◇
四月当初からほとんど空席なっていた座席である窓際の最後尾の椅子に兄を座らせた辛は、その左隣である自席に鞄を放り出すと、これ以上兄のそばに人が近づいてこれないような位置に椅子を置き、ガードの態勢をとる。
そんな弟の態度に笑みを誘われた庚は、
「あんまりきつい顔をしていると、誰も近寄ってきてはくれないだろう?すると、僕は誰とも話せないってことになるよね」
軽い口調でそう諫めてから自席を立とうとする。
「ダメ!!」
鋭く言って両手を広げて兄の行動を阻もうとする辛。
何が起きているのかと、クラスメイトやそれ以外の野次馬が遠巻きに、二人のやりとりを眺めている。
庚は大きくため息をつきながら、
「せっかく学校に来られたというのに、誰とも話してはいけないのかい?」
あまりにも子供っぽい仕草で行く手を阻んでいる弟に半ば呆れ返った口調で言い放ち、今度は実力行使で席を離れようと弟の手を払いのける。
瞬間、驚いた眼差しで兄を見つめる辛。
今までに一度としてこんな乱暴な挙動に、遊びでならば幾らでもあるが、真剣な顔をしてこんな挙動にでたことのなかった兄だけに、辛は心底びっくりしていた。
「僕は友人を作るために、ここへ来たんだよ。だから邪魔をし・・・」
勢いよく席を立ち上がりながら力強く言い募っていた庚の身体がぐらりと揺れる。
「庚!」
素早く異変を察知して、辛は倒れかけたその身体を支える。
弟に身を預けたまま、庚の意識は深い闇へと沈んでいった。
◇
気を失ったときと同様に、唐突に庚は意識を取り戻した。
ぷんと香る消毒薬の臭いが、保健室のベットに寝かされていることを庚に教えてくれた。
患者の安静をはかるため、ベットの周囲を完全に覆うように取りつけられているカーテンの向こう側で、低い話し声がしている。
それはあまりにも低すぎて、内容までは庚の耳に届かない。 好奇心を刺激されもっとよく聞き取ろうと、庚は身体を起こそうとする。
「!?」
しかし身体は一向にいうことを聞かず、突然鉛と化してしまったかのような、異様な重さを感じさせるのみだった。
そんな自分の身体の抵抗に、庚は逃れられない時の終わりを思い知らされた。
ベットから起きあがろうとした気配を察したのか、
「庚、目が覚めた?」
カーテンを引き開けつつ、辛が今にも泣き出しそうな声音で話しかけてきた。
カーテンの向こう側から現れた顔に浮かんでいた表情から、自分の現在の健康状態を辛に知られてしまったことを、庚は理解した。
本来ならば絶対安静が言い渡されていてもおかしくはないほどに衰弱しており、いくら車で送ってもらったとはいえ、こうして登校して来ること自体、庚にはかなりの労力と気力が必要だったのである。
「庚、帰ろう。もう、いいよ。家に帰ろう」
完全に血の気が失せてしまっている兄の顔を見つめて懇願する辛の目が潤んでいる。
思わずその思いに引きずられて頷きかけた庚ではあったが、それでも自分の感情を無理矢理殺すことはできなかった。
「そして、僕にあの部屋で無為な時を過ごせと?」
特に力んで見せたわけでもないのに、その語調には一種の凄みがあった。そして瞳に頑ななまでに強い光を宿してきっぱりと拒絶の意を示す。
生まれてこの方、物心ついてから今までに一度として見たことがなかった兄の激情に面食らった辛は、ついまじまじと自分と同じ造作の顔を見つめる。
「僕は、高校生の辛のことをほとんど知らないんだよ?今日を逃してしまったら・・・」
珍しく感情のままに言葉を口にしていた庚だったが、不意に口を噤んで沈黙した。
二人の間に数瞬、実に気まずげな沈黙がおりたが、
「わかった。先に帰るよ」
先程まで見せていた激情をすっかり拭い去り、いつもの落ち着きを取り戻した庚は静かに言った。
「それがいいよ」
兄から感じる違和感に限りない不安を抱きながらも、辛は精一杯笑みを浮かべて見せた。
「でも・・・」
「でも?」
言い淀んでしまった辛の言葉尻をとらえて尋ね返す庚の表情は常のごとく穏やかだった。
「でも、帰りに治也を引っ張って行くから、誕生日パーティーをしようよ」
本当に言いたかった言葉を強引に飲み下して、代わりに当たり障りのないことを、辛は反射的に答えてしまっていた。
◇
体力が低下しきっている庚に無理をさせるのが忍びなかった辛は気を利かせて四塚の迎えを頼もうとしたが、運悪く四塚を捕まえられなかった。そしてその代役として、あまり気が進む相手ではなかったが、俊也を迎えとして呼び出すことに成功した。
「じゃあ、俺が責任を持って庚くんをしっかり送り届けるから・・・」
ちっとも迷惑そうではない、どこか嬉々とした口調で辛にそう言い、車を発車させる俊也。
助手席で、青い顔をした庚がいつになく暗い表情で黙り込んでいる。
衰弱ぶりの激しさを如実に語るその横顔へ、気遣わしげにちらちらと視線をやりながら、
「もう、写真を撮るのは止めよう。そんな君を撮り続けるのは忍びない」
自分が言い出したことに後悔の念を禁じ得ない俊也はそう切り出したが、庚は断固とした口調で、
「それは駄目です。貴方は僕と約束してくださったではありませんか。僕のしなければならないことに、最後まで、貴方自身の運命に従って関わってくださると」
はっと胸をつかれるぐらいに青ざめたその顔に、滅多に浮かべることのない激情を刻み込み、気弱げにしかめられている俊也の横顔を見つめる。
自分より九歳は年下のはずの少年の気迫に圧倒されて、俊也は何も言えなくなってしまった。
気まずい沈黙に閉ざされたまま、車は『桜屋敷』の正面へと横づけされた。
軽く頭を垂れて礼を述べ、車を降りた庚はそのまま走り去ろうとした俊也を呼び止め、
「今晩、ご足労願えませんか?辛が誕生日パーティーを開くと言っておりますので、それに・・・」
いつもの底が知れない穏和な微笑みをたたえてみせる。
その笑みに理由のわからない悪寒を感じながら、
「わかった」
短く一言言い放ち、『桜屋敷』から逃れるように性急に車を発進させた。
去りゆく車を見送る庚の表情が、哀しげに歪んだ。
◇
夕日がそろそろその姿を地平線へ隠し始める頃、俊也は秋義邸を訪れた。秋義家の双生児に何を送るべきかさんざん迷った挙げ句に買い求めた品物に自分でも当惑しながら。さらに、女性が主役であるパーティーに行くときのノリで、俊也は大きな花束まで買ってしまっていた。
かなえ夫人が俊也を出迎えたとき、さすがに目を丸くして花束を見つめたが、すぐににこやかな顔になって、快く庚の寝室へと案内をした。
「庚さんたち、今日はとても楽しそうですわ」
おっとりそれだけ言うと、かなえ夫人は孫達の楽しい交流の邪魔をしないようにとそそくさとその場を後にした。
廊下にぽつねんと取り残される形となった俊也は部屋へはいるタイミングが掴めず、その場を言ったり来たりしてしまう。
「どうぞ、お入りください。俊也さん」
室内から柔らかく庚の声が響き、それとともに襖が引き開けられた。
「お邪魔するよ」
言いつつ室内へ足を踏み入れた途端、俊也は目を丸くしてしまった。
飾りつけられた部屋は、見事にパーティー会場へと変貌していたのだ。
クラッカーの紙吹雪を髪飾りにしている、このパーティーの主役の片割れはにっこりと微笑み、
「わざわざご足労くださってありがとうございます。俊也さん」
見る者すべての心を奪い去りそうな魅力的な微笑みをたたえて、部屋の主である庚は差し招く。
誘われるままに俊也は庚に歩み寄り、
「誕生日おめでとう、庚くん」
言いながら大きな花束と両の手の平に乗るくらいの大きさの、リボンがかけられた箱を渡し、
「誕生日おめでとう、辛くん」
庚に渡した物と同じ大きさの、リボンだけ色違いの物を辛にも手渡す。
双生児は同時に礼の言葉を一言一句違わずに述べる。
さすがは双生児と妙な関心の仕方をしてしまった治也と俊也だが、次の瞬間には苦笑を浮かべてしまった。
庚が喜色を浮かべて贈り物の中身を想像しはじめたのに対し、辛は喜声をあげて、
「開けてもいい?」
一応送り主にお伺いをたててから凄い勢いで包装を開けにかかる。
中から現れた重厚な作りの桐箱を思いきり開け、丁寧に真綿にくるまれたものを目にした途端、
「何、これ?」
失礼とは思いながらも思わずそう呟いてしまった辛の表情はきょとんとしている。
庚の方はといえば、あまりにも意外な物を見てしまったことに唖然としてしまったが、すぐさま我に返った。そして、自分の手の中にある箱をじっと見つめる。
大きな青玉がペンダントトップとして用いられている銀鎖のペンダントと、それと対になるように作られた感のある、青玉の填め込まれている銀製のアームレットとが、辛の手の中で照明を浴びて燦然と輝いている。
「何なの、これ?俊也さん、僕たち男だよ?」
半ば呆れ顔で、辛はそう言わずにいられなかった。
叔父を見つめる治也の眼差しが心なしか冷たい。
「二人に似合うと思って、つい、買ってしまったんだが・・・」
不名誉な誤解を受けないよう必死に弁護を試みようとする俊也ではあるが、狼狽が上手な言い訳の邪魔をする。
俊也が辛と治也の二人を相手に悪戦苦闘を強いられているとき、庚は自分の分のプレゼントを開けて、宝石の色が紅色であることを知った。
その色を認めた瞬間、庚が思いきりふたを閉めて顔を背けたことに三人は気づかず、少年達は目上であるはずの青年をからかって遊んでいた。
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