〜蒼月の誓い〜

文 月・2 〜貝細工〜

 

 どんなことでも、終わりの時を迎えるときがやがてやって来るのである。そしてそんな時間は、楽しければ楽しいほどひどく寂しい。
 こっそり用意していたアルコールでしたたかに酔い、結局酔いつぶれてしまった治也を俊也に送ってくれるよう頼んだ後、双生児はいつもと変わらない、自分たちだけしかいない静けさにその身を委ねていた。
  「今日は、満月なんだね」
やっといつもどおりの静けさを取り戻した兄の部屋の窓辺から空を見上げつつ、辛は半ば陶然とした口調でぽつり呟く。
 弟から少し離れて敷かれている座布団に腰を下ろしている庚は淡い微笑みを浮かべて、そんな弟の横顔を眺め、
「今日はとても楽しかったよ。ありがとう、辛」
嬉しそうにそう告げる声音とは裏腹に、何故かその表情は暗い。そして、常になく、その身を包む雰囲気の透明感が増していた。
「庚?」
兄の身に起こっている変化を敏感に感じ取って振り返った辛の双眸に、穏やかな、静かな笑みをたたえて居住まいを正した兄の姿が映る。
 深い深い、哀しみも喜びも内包した清しい笑みを口許に刷く庚。
 不覚にも、辛は兄のそんな微笑に魅了されてしまった。
「辛、わかるね?」
指一本動かせなくなってしまった辛の耳に、感情のまるで籠もらない声が響く。
「僕は・・・もう、眠るんだと・・・」
庚の言葉を否定しようとして頭を振ろうとしたが、金縛りにあった体が言うことを聞いてくれるはずもなく、辛はただ両目を大きく見開く。
 庚はふわっとした暖かい笑みを浮かべ直し、辛が据えてくれた座布団から立ち上がって窓際に歩み寄る。
「何故?」
笑みの質が変わった途端に身体の自由を取り戻した辛はそう呟いていた。
 弟の目前に佇んだ庚はするりと相手の首に両腕を回して軽く抱擁する。
「何故?それは僕たちがよく知っていることだろう?」
がんぜない子供をあやすような、泣きやまない子供をなだめるような優しい口調で、その耳許へ囁きかける。
「僕たちがした約束を、辛は忘れてしまったのかい?」
優しすぎる声音の中に隠しきれない哀しみを見つけてしまった辛は、何を言えばいいのかわからずに沈黙する。
「辛、僕は、今日、眠るよ。もう、身体が保たないんだ」
淡々と告げる庚。
 そんな庚が口にした『眠る』の意味が『永眠(ねむ)る』であることを、辛は遅まきながらも理解した。そしてそれがすでに避けられ得ない、決定されたことであり、『永眠る』ことに、庚がある種の安らぎにも似た何かを見つけてしまっていることを認めてしまった。そしてそうである以上、顔を青ざめさせはしたが、辛には何も言えなかった。
「ありがとう」
弟の反応をどう受け止めたのか、庚は心の底から礼を述べ、弟に全身を預けたまま、天空で輝きわたる満月に視線をやった。
「とても綺麗な月だね」
と呟かれた声に、辛は心の中で反論する。今の庚の方がよっぽど綺麗だと。
 どうやって辛の心の声を聞いたのか、庚は苦笑を浮かべ、
「自分を褒めてどうするんだい?」
やや呆れ気味に呟く。
「僕と辛は瓜二つなんだよ?」
華奢な身体いっぱいに月の光を浴びている庚は、月の精のように神秘的だった。
「そんなことない。僕と庚はまるで似ていないよ!」
思わず顔を赤くして叫ぶ辛。
 庚はひっそりと微笑みを浮かべ、
「そうだね。辛と僕は違うから。ううん、違っていて欲しいから・・・。あの宝石の色と同じように・・・」
謎めいた言葉を口の中で小さく呟く。
 そのまましばらくの間、二人は抱き合っていたが、不意に、
「辛、庭へ出ようか」
何かに誘われるように庭先へと視線を走らせながら、庚はそう提案した。

 典型的な日本様式である庭園に、月の光が惜しみなく降り注いでいる。
 夜気の中へ一歩踏み出した途端に庚は大きく息を吸い込んだ。すると先程よりも幾分血色が良くなったようだった。
 兄に手を引かれて半ば強引に庭先へと連れ出された辛は、その些細な兄の仕草に絶望にも似た胸騒ぎを覚えた。
 双生児は月光の中を泳ぐように歩き、屋敷から最も離れた奥庭へと辿り着く。
 今までしっかり握っていた手をあっけなく離し、庚は弟の傍らから数歩退いた。
 そんな兄を、辛は心底不安げな眼差しで見つめる。
 無言のまま、絡みあう二人の視線。
 先に視線を逸らしたのは、庚の方だった。そして、視線は夜空を仰ぎ見る。
 つられて、辛も空に浮かぶ満月を見つめる。
 何が原因なのか、夜空で煌々と輝く月が青い。
 はっとして兄の方をかえりみた辛は、声をなくしてしまった。
 いつもより青く見える満月を見上げる庚の頬を涙が伝い落ちていく。
 冷たい月光の降り注ぐなか、声を立てずに泣き濡れる庚の雰囲気から、一切の人間臭さが拭われていき、透明なものへと完全に変化した。
 今、自分と兄の間に決定的な違いが生じてしまったことを、辛は大きすぎる衝撃とともに理解した。
 月の光が、庚を優しく包み込む。
 月の光が、辛を冷たく突き放す。
 根本的なところでその存在意義が異なってしまった兄にかける言葉を、辛は知らなかった。
 つと、庚が振り返る。
「今までどうもありがとうございました。俊也さん」
明るい月明かりのなか、カメラの代わりに一冊の本を抱えて佇んでいる青年に向けて、庚は深々と頭を垂れる。
 庚に声をかけられることで観客から出演者へ昇格された俊也は茂みをかき分けて二人に歩み寄ることを許された。
「これを・・・」
短く言い、手にしていたものを辛に渡す。
「僕に?」
目を丸くして驚く辛に苦笑いを浮かべて見せた俊也はそれ以上何も言わず、すぐに表情を改めて、庚の姿を真摯に見つめる。
「もう、無理なのか?」
辛が言いたくても言えなかった言葉を、俊也は代理といわんばかりにさらりと口にする。
「ええ。僕は、もう限界以上まできてしまっているんです」
涙を流したまま、にこりと笑う庚。
「これ以上、もう、これ以上、この身体を保つのは・・・。僕を襲う痛みは・・・。気が狂いそうだ。それに・・・」
朗らかといえるほど明るい口調で告げる内容は、その声にはあまりにもそぐわず、聞く者の心に恐怖を抱かせる。
「それに、これが僕の選んだ道なのですから」
その双眸にためらいの色が微かに流れて消えていった。
「・・・そうか」
長いため息とともに俊也はそれだけ言うと、意味深長な眼差しを辛とその手の中のものに注ぐと、無言のまま双生児に背を向けて母屋の方へと立ち去りかけた。その背中へ、
「最後に、お願いしたいことがあります」
静かに、ごくゆっくりと庚は声をかけた。
「何だい?」
待っていたと言わんばかりのタイミングで振り返った俊也の双眸には、哀惜の念が揺れていた。
 瞬間、二人の視線が激しく絡みあったが、すぐに庚は目を伏せ、
「貴方が貴方の道を選んだ以上、あの人には関係ありません。だから、どうか、あの人をよろしくお願いいたします」
今の自分が抱いている精一杯の思いを込めて、小さく呟く。
 俊也はふわっと暖かく甘い笑みを浮かべて見せ、
「わかった」
とだけ告げると、今度こそ本当に母屋の方へと姿を消した。
 知らず緊張していた全身から力を抜いて安堵のため息をついた庚は、俊也とのやりとりの間、故意に蚊帳の外にいてもらった弟の目をまっすぐとらえ、
「僕の後を追ってこようなんて、決して思わないでおくれ。辛は僕の分まで、お祖父さまとお祖母さまの面倒を見なくてはならないのだから」
涙を流したまま、真剣に、静かに告げる。
「辛は僕とは違うのだから、あの宝石と同じように違うのだから、追ってきてはいけないよ」
暗示をかけるように、低くゆっくり囁きかける。
 辛は、ただ黙って頷く。
 我が意を得たりと大きく頭を振った庚は再び月を見上げ、
「綺麗な月、だね」
ぽつり呟く。しかし、その言葉には隠しがたい哀愁が漂っていた。そして、再度辛に視線を引き戻し、
「辛は、僕とは違うんだから・・・ね」
優しく、優しく微笑みかける。そして、頬を伝い落ちてゆく涙。
 その笑みに込められた思いに、胸を締めつけられるように感じた辛の両腕が、この世にひきとめようとでも思ったのか、庚の方に伸ばされる。
 弟のそんな心を知ったのか、庚は限りない愛情を込めて、そっとその名を呼んだ。
「辛」
 辛の腕が兄の身体を愛おしげに抱擁しようとしたまさにその瞬間、一陣の冷風が、二人の間を吹き抜けていった。
 それと同時に、庚の顔にくっきりと哀しみの色と苦痛の翳りが宿る。そして、何か言いたげにその唇が震えた。
 それを認めたと辛が思った瞬間、ざあっと音をたてて庚の身体は砂粒と化し、風にさらわれていった。
 乾いた音をたてて、足許に本が落ちる。
「庚!!」
慌てて兄の身体を受け止めようと改めて伸ばされた手のひらから、庚の身体を形作っていたものがこぼれていく。
 朝日を浴びてしまった吸血鬼のように、庚の身体は塵と化して宙に舞い散っていく。
「庚!?」
兄の身体がよもやこんな形で目の前から完全に失せてしまうとは夢にも思わなかった辛は愕然と己の手を見つめる。
 手のひらに残るのは、一握りの砂粒。
 庚とは似ても似つかないものが、唯一辛の許に残されたものだった。
 青白い月の光が、辛の手の中にあるものを優しく包み込んだ。すると、手のひらに舞い落ちてきた雪のように、砂粒に似たそれは光のなかへと溶けていく。
「何もかも!一握りの砂粒すら、奪い去るつもりか!?」
誰とも知らぬ何かへ向けて鋭く叫ぶ辛ではあったが、それが消え去っていくことを止めることはできなかった。
「庚!僕を一人にするなんて・・・」
悲痛な面もちで月にめがけて絶望とともに呟くが、それに応える声はなかった。

 やがて、明るい月夜には不似合いな悲泣が庭先に響きわたり、そして絶えた。
 泣くことに疲れ果てた辛は、ゆっくり月へと視線を転じた。
 ゆるゆるとあげられた顔は確かに泣き濡れていたが、つい先刻まで感じられた幼さがすっかり抜け落ちていた。
 その眼差しに、今までに一度として見られなかった、見る者すべてを不安にさせるような光が宿り、その顔に消し去りがたい翳りをまとわりつかせた辛は、
「庚、約束は守るよ。責任を持って、二人の面倒は、『俺』がみる」
低く呟いた。
 少年らしい明るさがすっかりなりをひそめてしまった声音が、夜空へと吸い込まれていく。
 庚という存在を失ってしまった今、辛は限りない孤独へと追いやられていた。
 足許に落ちている本を拾い、つい今し方まで庚が存在していた空間を一瞥する辛。
 その双眸に宿る深すぎる色の意味を読み解くことができる者は、もうこの世のどこにもいない。
 自分を一人きりにして去ってしまった兄に対する複雑な思いを胸に抱え込んだまま、辛は重い足取りで母屋へと戻っていった。

 そんな辛の後ろ姿を、見送る者がいた。
 月の光に守られるようにして、姿を現した『庚』が不安げに見つめていた。そしてその背後には、複数の黒い影が佇んでいる。
 去りゆく辛に引かれるように黒い影が一つ動きかけたのを、
「あれにまで手出しはさせないと言ったはず。お前達の自侭に振り回されるのは、『私』一人でたくさんだ」
鋭く制止する『庚』の胸許で、紅玉のペンダントが揺れていた。
「血塗られた道を行くのは、『私』一人だけでいいのだから・・・」
自嘲の呟きが、月光へと溶けていく。
 『庚』の叱咤に獲物をあきらめた影達は一斉に両手を広げた。
 『庚』を中心として、その足許に複雑な幾何学模様の刻み込まれた大きな円が出現する。
「行こう。『私』が選んだ運命へ」
静かな声でそう宣言する。と同時に、円全体が目映い光を発した。

 光が失せたとき、すでにそこには誰の姿もなかった。

 七月八日、定刻どおりに秋義邸を訪れた高木治也は、秋義家の人々が何処かへ引っ越したことを知った。
 同日、若手カメラマンの有望株として脚光を浴びていた高木俊也は、カメラマン家業の廃止宣言をした。
  その後、 一言も別れの言葉を交わすことなく、一方的に姿を消した秋義辛と再会するのに、高木治也は九年の歳月を必要としたのであった。

 

 
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