〜蒼月の誓い〜

終 章 〜敦盛草〜

 

 

 語るべきことはすべて語ったと言わんばかりに口を噤んでしまった辛の傍らで、治也は表情を固くしたまま沈黙していた。
 話し終えると同時に薄く目を閉じた辛はそんな治也の顔を盗み見ている。相手の表情の変化を一片もあますことなく観察している鋭い眼差しを自分が向けていることに気づかれぬよう懸命に隠して。
 乾ききった唇を舌先で数回湿らせた治也は意を決し、
「仮に、その話が本当だとしたら、さっき俺が会っていた言葉を交わしていた庚は、いったい何なんだ?」
震えてしまう声を必死になだめながら、もっともな問いを口にする。
 辛の話を鵜呑みにしたならば、先刻治也が顔を合わせ、じかに旧交を温めた庚の存在が矛盾したものとなってしまう。
 治也の問いに笑みめいた冷ややかなものを浮かべてみせた辛は、
「本人に直接聞いてみればいいさ。庚の言うことなら、治也は何でも信じられるんだろう?」
いささか意地悪げに提案する。
 辛のそんな態度に薄ら寒い気分にさせられた治也は、瞬間、九年ぶりに再会したかつての親友の正気を、そして、今目の前に座っている青年が、本当に秋義辛本人であるのか、疑ってしまった。
 辛の口から語られた話はあまりにも常軌を逸していたし、それよりも何よりも、話をしている最中の青年からはまがりなりにも感じられていた人間臭さが、今やすっかり拭い去られてしまっていたのだ。
 すぐ目の前で謎めいた笑みらしきものを浮かべている青年に、限りない悪寒を感じた治也は、思わずソファから腰を浮かして逃げ腰になる。
「そんなに、俺が怖いかい?なあ、治也?」
はっきりと冷笑をたたえて、辛は低く、嫌みたっぷりに呟く。
 冷や汗が頬を伝い落ちていくのを、治也は感じた。
 怯えの色を隠せずにいるかつての親友を、目を細めたまま眺めやり、
「俺は怖くて、庚は怖くないって?双生児である以上、俺達は同じものなのに・・・。惚れた弱味ってやつだよな。なあ、庚?」
皮肉たっぷりの口調で、最後の科白は自分の背後へと声をかける。
 はっとして、部屋の入り口へと視線をやる治也。 静かに、庚は佇んでいた。限りない哀しみとやるせなさをその端正な容貌に刻みつけて。
 狂気によく似た危うげな光を宿した双眸で、双生児の兄の青白い顔を鋭く睨みつけ、
「こんな奴を使って、俺をこちら側にとどめておこうとしたって、無駄だからな!!」
噛みつかんばかりの荒い語調でそれだけ言うと、勢いよくそっぽを向いてしまった。
 弟の言葉に、庚は哀しげに眼差しを伏せる。そして、改めて治也の方へ視線を向けると、
「庭へ出ませんか?何もかも、すべてをお話ししますから・・・」
精一杯和やかな笑みを浮かべようと努力したが上手くいかず、ますます哀しげな表情になってしまう。
「わかった」
短く返答した治也は意を決して立ち上がり、庚の傍らに歩み寄る。そして、辛のそばを通り過ぎるとき、冷たく澄ましているその顔へ心配げな眼差しを注いだが、相手は顔色一つ変えずに沈黙しているのみだった。
「どうぞ、こちらへ。治也」
他人行儀なよそよそしさで誘う庚の態度に少なからず不満を感じた治也はその思いを如実に表情に出してしまった。
 哀しげな微苦笑をたたえた庚は無言のまま、若者を差し招く。

 一人室に取り残される形となった辛は、思いきり顔をしかめ、
「庚は馬鹿だ!俺の気持ちは変わらないのに。そうさ、庚は馬鹿なんだよ。俺なんかのために・・・」
やるせなさを満面に浮かべて哀しげに呟くその頬を、一筋の涙が伝い落ちていった。

 庚に導かれるままに庭先へと出た治也は、外がすでに暗闇に包まれていることに驚いた。辛の話が自分が思っている以上に長かったのか、自分の体内時計が大きく狂っているようだった。辛と再会してからまだ二、三時間ほどしかたっていないはずだったのだから。
 治也の動揺に気づいていないのか、庚はさらに数歩足を運んで立ち止まり、夜空を見上げ、
「今日は綺麗な満月ですよ、治也」
煌々と輝く満月を指し示す。
 つられて見上げた治也は、その月をどことなく禍々しいものと感じてしまい、すぐさま視線を逸らしてしまう。
 どこか背筋を寒くさせるほどに冴え渡る望月は、青白く輝いている。
 庚は月に視線を固定したまま、滔々と語り出す。
「何から話せばいいのか少し迷ってしまいますが、とりあえず、僕のことからお話しした方がよい・・・と思います」
という前口上から庚が口にしたことは、先刻の辛の話よりもさらに奇想天外なことだった。

 秋義庚は、九年前の十六歳の誕生日の夜に、確かにその生涯を閉じたというのである。ただし、“こちら側の世界”の庚のみが。
 秋義兄弟は、純粋な意味で“人間ではない”という。
 双生児の母である千里は“こちら側の世界”の住人であったが、父である直幸は“あちら側の世界”の住人であったため、その間に生まれた子供たちは半分だけ異世界人の血を、いわゆる“人間”とは異なる血をひいているというのだ。
 父直幸が属している世界の名は“ペンタノール”。
 “こちら側の世界”地球とは全く異なる法則に支配されている世界。
 “ペンタノール”には科学文明の芽生える兆しは未だなく、魔法という目に見えない力が発達している世界だった。
 直幸は、そんな“ペンタノール”でも有数の王家の皇太子の地位にあったが、その気性は穏和で武勇に信を置く父王とは折り合いが悪く、ことあるごとに対立していた。
 そしてある時、欲にまみれた王が隣国にいわれなき理由をこじつけて戦を仕掛け、皇太子が密かに想いをよせていた婚約者である王女の命を奪うに至って、その行いの汚さに耐えきれなくなった皇太子は、王と刺し違えてでもその暴虐な振る舞いに歯止めをかけようと決意した。が、それは親友である魔術師に間一髪のところで遮られてしまった。
 この戦が火種となり、やがて“ペンタノール”全土が争乱の時代を迎えることとなったのである。
 やがて、直幸の母国も強大な力を誇る新興国に、あっけなく滅ぼされてしまった。
 国が滅びゆこうとする最中、皇太子を死地から逃れさせるべく、親友の魔術師が転移の魔法陣を用いたが、あと少しというところで敵軍の魔道師の邪魔が入り、その術は完成されないままに発動してしまった。
 未完成のままに発動してしまった魔法にはどこか無理が生じている。
 その歪みはそのまま直接的に発動中の魔法へと跳ね返り、本来ならば場所を移動するのみであるはずだったのに、皇太子を異世界である“こちら側の世界”へと放り出してしまったのである。
 それが、今からちょうど二十年前の出来事。
 執念深く亡国の皇太子の居場所を割りだした者達が、さらなる争乱の火種に絶好の獲物と直幸を連れ帰ったのが十五年前の出来事。この時、妻である千里はその短い生涯を終えていた。
 庚の存在をかぎつけた者が、直幸の跡を継がせるべく魔手を伸ばしてきたのが、九年前の出来事。
 此処と彼の地を隔てている時空の扉を、人の魔力によって開くことができるようになるのは、地球の暦でいうところの七月七日であった。

 庚は、今日、九年ぶりに開かれた扉をくぐり抜けて“こちら側の世界”へと戻ってきたのである。

 どことなく寂しげな様子でそう語った庚の首筋で何かが煌めいた。
 細い銀鎖が月の光を浴びて神秘的な光を放っている。
 それに気づいたのか、庚はその銀鎖を引き出し、九年前に俊也から贈られたあのペンダントを月の光にさらした。
 銀鎖につられている紅玉が、妖しい光をたたえていた。
 半ば睨みつけるような鋭い視線で、治也は信じられぬと言いたげに、月光に照らし出されている美貌を見つめた。今、目前に佇んでいる青年は、確かに浮き世離れした雰囲気を醸しだしはしているが、その存在はこの世にしっかりと根づいているように思われてならなかった。
 頑なとさえいえる治也の思いに哀しげな笑みで応えながら、
「今、目の前にいる僕の姿が『偽りのもの』だと言っても、信じてはいただけません・・・よね」
つらそうに顔を歪めて庚は告げた。そして唇をそっと噛みしめてまつげを伏せる。
 治也は無言で首肯する。今、目の前にいる秋義庚こそが自分にとって唯一信じられる真実なのだから。
 空を流れゆく雲に月が隠され、世界がつかの間、闇に閉ざされる。
 そんな闇夜のなか、いつまでたっても戻ってくる気配のない二人を心配した辛が、庭先へと足を運んできていた。
 突然、視る力を奪われて狼狽している治也の耳に、
「仕方ありません・・・ね」
闇夜をぬって、ため息混じりの呟きが届いた。
 治也が耳にしたのと同じ言葉を聞きつけた辛は、庚がなにをしようとしているのか理解した。
「止めてくれ!お願いだから、止めてくれ!!」
ありったけの思いを込めて絶叫する辛。
 これ以上二人が離れていた、九年という重すぎる時間を見せつけるような、二人の間に生じてしまった埋めがたい溝を再認識させるような、今朝方再会したときに感じた、絶望にも似た苦しすぎる思いを蘇らせるような、そんな行為にでようとしている兄に、心の底から懇願していた。
 暗闇に突如響きわたった制止の声に、庚の両肩がぴくりと震えた。しかし、その双眸に何とも表現のしがたい光を浮かべてその声を振り払うように頭を左右に振ると、静かに瞑目した。
 反射的に声のした方へと視線を走らせた治也の背後で、月が再び姿を現す。
 月明かりに照らし出されその庭に、秋義庚の姿はすでにどこにもなかった。
 その代わり、つい今し方まで庚が佇んでいたその場所に、中世ヨーロッパを闊歩していた騎士がその身にまとっていたような短衣姿の、白と見紛う銀色に淡く水色がからせたような髪と、澄んだ水色の目をした、凄絶なまでの美貌の主がいた。
「・・・・・・、庚!」
苦い思いとともに低く呟く辛の声に促され、振り返った治也は声を失い、その場に凍りつく。
 この世にはありえない色彩をその身に帯びた青年は、庚が先ほど浮かべてものと寸分違わぬ寂しげな微笑みをたたえ、
「これでおわかりでしょう?“こちら側の世界”の『秋義庚』はもう、存在しないのですよ。九年前、“あちら側の世界”の『私』を選んだのですから・・・」
まるでなじみのない、美声といっても差し支えのない低声が、聞き覚えのある抑揚で哀しく告げる。そして、青年は治也から視線を引き剥がすようにして辛をひたっと見据えると、
「“あちら側の世界”は、お前が思っている以上にこことは違う世界だ。それでも来る気なのか?“こちら側の世界”が現在の『私』を決して受け入れようとはしないくらい、まるで異なる世界へと旅立つ勇気が、お前にあるというのか?」
特に気迫が込められているわけでもないのに、心にずしんと響く声で淡々と告げる青年の双眸に、何度も死線をくぐり抜けてきた者だけが持ち得る暗い翳りが宿っている。
「他人の命を奪わなければ生き抜けない、そんな殺伐とした世界で生きていく覚悟が、秋義辛、お前にはあるのか?」
ひたっとすえた双眸に宿る翳りの奥底に、精一杯の懇願を込めて見つめている青年の胸許で、紅玉が月の光をはじき返している。
 冷たく突き放された心地になった辛の顔が、今にも泣き出しそうに歪む。そろそろ強がりも限界だといわんばかりに、表情に幼さを宿して。
 そこにいるのは、治也のよく知る、あの頃のままの辛だった。
 視界の片隅にそれをとらえた治也は、自分のなかで何かが弾けるのを感じた。
「連れていけよ!連れていってやれよ!!」
反射的にそう叫んだ双眸にうっすらと涙が浮かんでいる。
 予想だにしなかった展開に、思わず目を丸くして治也を見つめ返す青年の双眸に迷いの色が生じる。
 それを知った治也は勇気づけられてさらに言を継ぐ。
「九年間、辛は、九年間もこの世界でひとりぼっちのまま耐えてきたんだぞ!そっちの世界がどうかなんて知らないが、こっちの世界で、庚、お前がいない孤独に耐えられるだけ耐えて、お前との約束を守るためにだ、それにこらえきれなくなって、やっとの思いでそっちにいく術を見つけだした辛を、お前には拒絶できる権利があるのか?」
それだけの言葉を一気に言い切った治也は、肩で喘ぐ。
 思いがけない援助の声に、辛は不覚にも涙をこぼしてしまった。この時ほど、治也が変わっていないことに感謝の念を抱いたことはなかった。
 治也の言い分が、青年が考えていた手段、辛を“こちら側の世界”へとどめておくためのあらゆる術を封じ込めてしまった。
 青年の口許に、苦笑が刻まれる。
「完敗だよ、治也。やはり、貴方には勝てない。それに、“あちら側の世界”へ渡る術を残しておいたのは、『私』なのだから・・・」
月のきらめきに似た声音で自分の負けを認める青年の双眸から翳りが薄れ、喜びの光が揺らめいていた。
「本当に、“こちら側の世界”に未練がないのならば、『私』と共に来るがいい。秋義辛、いや、我が弟『ケイファスタン・シン=ファーソン』。『私』はお前を心より歓迎するよ」
いいざま、すっと手を差し伸べる。
 辛は、勿論、ためらわずにその手を握りしめた。すると、髪も目も、顔つきすら兄に瓜二つのものへと変化する。
 仲睦まじげに見つめ合う双生児に羨望の眼差しを注ぐ治也のその心の片隅を、寂しさという針がちくりと刺した。
「高木治也、『私』は貴方までも連れていくわけにはいかない」
治也の心に宿る寂寥感に気づいた青年は、そっと告げる。
「ただ、もし、貴方が本来の・・・・・・。いや、よそう」
青年は何か言いかけて、途中で言葉を飲み込んだ。そして、しばらく考え込み、やがて、
「ただ・・・、もし、あの本から貴方が何かを得、そして、『私』を呼ぶ術を見つけたならば、『私』は貴方を迎えることにしよう、喜んで」
神の託宣のように、厳かに告げる青年の傍らで、辛、ケイファスタンは複雑な表情を見せている。
「もしも、あの本から見いだせたならば、『私』の名を呼ぶがいい。『カイサリューズ・シン=ファーソン』と」
 いつしか、似合いの一対である異世界の双生児は、青白い月の光に抱かれていた。
 ちらっと、月を見やったカイサリューズは、
「もう、立ち去った方がいい。貴方の思いから構築したこの屋敷も、じき、崩壊する」
言いながら、ある方向を指し示す。すると、治也の足許からその方向へと向かって光の帯が延びていく。
「その光の上を歩いて行くがいい。自宅まで続いている」
恐る恐る光の上へと足をおろす治也に笑みを誘われたカイサリューズは、じつに魅力的な微笑みを浮かべ、
「さらば、我が友よ。貴方のことは決して忘れない」
そう別れを告げ、治也の背中を軽く押した。
 不意をつかれた治也は見事にバランスを崩し、光の上を転がる。
「さよなら、治也。俺は、君のような親友のいる自分がとても誇らしかった」
坂ではないはずの光でできた帯の上を転がり続けていく治也の耳に、遠くからそんな科白が届けられた。

 いつの間にか意識を手放していた治也が再び意識を取り戻したのは、自室のベットの上だった。
 見慣れた風景に、秋義兄弟との再会は夢だったのかと不安にかられながら、ベットから身を起こしかけた。
「?」
身体を支えようと脇についた右手に、何か固いものが触れる。
 何故か胸が騒いだ治也は慌ててそれを手に取った。
「これは!」
手にしたものを目にした途端、治也は涙があふれ出すのを止められなかった。
 カイサリューズが別れの間際に言っていた『本』がそこにあった。
 震える手でページをめくった治也は、それが叔父の最後の写真集であることに、十六歳の庚の写真集であることを知った。
 ページをめくる手が不意に止まる。
 ページの合間に封筒が一通挟み込まれていたのだ。
 その手紙は、秋義辛からだった。
『親愛なる治也へ。いつか、君が俺たちの許へたどり着けることを、心より願っている』  
治也は手紙と本を胸に抱き、声を押し殺してむせび泣くしかなかった。

 

〜終わり〜

 

 
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