エピローグ. イェツィラーの天海の近く。小さな野原で彼は寝そべっていた。 「……エル、クリアエル…!」 誰かが呼んでいる。 ああ、これは姉さんの声だ、とクリアエルは思った。 普段、ガーデンから出ることのない彼女の声がこんなところで聞こえる理由は一つしかない。 「…ここだよ、姉さん」 野薔薇の茂みの下から体を起こし、クリアエルが言った。 「まぁ、そんなところにいたの?」 「この茂みの影から空を見るとね、飛んでいる時よりももっと青く見えるんだ。きっと、 虫や小さな動物達は、こんな空を見上げているんだろうね」 長い金髪を煌かせながら、舞い降りてきた姉のアクリエルが頷く。その姿も、いつもの幼い少女ではなく、妙齢の美しい女性となっている。 淡い若草色の聖衣を身に纏い、額にはいつものサークレットが輝く。 ”神の恩寵の印” それを見るたびに、クリアエルは微かに息苦しくなる。 なんだろう。姉さんのことは大好きなのに。 「探したのよ、クリアエル」 そう言って、薄薔薇色の唇が笑いかける。それすらも、普段の彼女にはない艶のようなものが含まれいて、落ち着かない気持ちにさせた。 彼女はガーデンを離れると、急速に年を取る。このままずっと外に居れば、やがて死んでしまうのだろう。 それが恩寵だと言うのなら…神は、私たちをどうしたいのだろう。 お気に入りの玩具のように、傍に置いておきたいだけじゃないのか。 天使は、天界の清らかな空気の中で”シンファ”をしなければ生きていけない。 自分から離れた者を堕天とするのは、単に神自身が寂しいからで…。 クリアエルは、形のいい眉を僅かに顰める。 「…私は行かないよ、姉さん」 そう言われて、アクリエルの常緑樹の色(エヴァーグリーン)の瞳に、困惑の色が浮ぶ。 「私たちが戦わなければ、天界は魔王に攻め込まれてしまうわ」 「厭だ!…私はもう、戦いたくない……」 どうして?というように、アクリエルは首を傾げた。 「堕天使だって、妖魔だって、魔獣だって、姉さんが愛する鳥や、花たちと同じように生きてる。生きてるんだよ! どうして悪魔だからっていうだけで、平気で戦って、殺したり出来るんだ。ただでさえ私たちの”浄化の炎”は…」 クリアエルは自分の手を見つめる。 「例え相手が天使でも、その魂を焦がし、下手をすれば消滅させてしまう。彼らはカオスに帰ることすら出来ない。 全ての世界から完全に消えてしまうのに…」 「…神が、この力を私たちに授けたのよ」 アクリエルが、クリアエルの手を取る。彼らは、二人で一つの”金色の熾天使(セラフ)”だった。 「この力を使って天界を守るために、私たちは生まれてきたの。 だから、クリアエル。私が生まれてきた意味を、私がガーデンから出てきたことを無にしないで? いつも、私は貴方の傍にいるから。この罪も、一緒に背負って行くから」 「……。ずるいな、姉さんは」 クリアエルはため息を吐く。 彼が、ガーデンを離れたアクリエルを見殺しに出来ないことを、彼女はちゃんと知っているのだ。 早く戦いを終わらせて、彼女を無事帰さなければいけない。その命が尽きる前に。 たった一人の姉であり、魂の片割れとも言えるアクリエルを喪うのは、クリアエルにとって一番恐ろしいことだった。 「どうして姉さんは戦うのかな。自分の命を削ってまで」 詰るように呟かれた言葉に、アクリエルは柔らかな微笑を見せた。 「さぁ、行きましょう、クリアエル。警備官たちはもう集まっているわ」 クリアエルは薄い藍色の瞳を細めた。 こんな時でさえ、アクリエルの笑みは酷く優しい。 …やがて、訪れた戦いの場で、クリアエルは堕天使の女王サイファーに出会い、その美しい姿と強い眼差しに激しく心を奪われるのだった。 |