4. 薔薇の花園に立つ少女は、髪に挿した白薔薇を手に取り、握り締めた。 ぽたぽたと紅い血が零れ落ち。 白い薔薇が、真紅へと。 染まっていく。 「結界が綻びた!」 セーレンスの言葉を待つまでも無く、血の伯爵は片手を振った。 一面の白薔薇が、周囲から徐々に蒼く、蒼く変わっていく。まるで、星が瞬くように青薔薇が広がって。 一斉に散り始めた。 「あ、ああああああああっ!!」 天使が悲鳴のような声を上げる。 はらはらと散り続ける青い花びらの中を、少女は顔を上げた。 傍らの青年は、絶叫し続けている。白い薔薇はもう、その殆どが青く染まり、そして散り落ちる。まるで、時間を早回しに見ているかのよう。 少女の、ほんの少し紫がかった底知れぬ海のような瞳が、手を差し出した伯爵と絡み合う。 柔らかな茶色の髪に、凍える深い湖を湛えた灰色の瞳。それをただ静かに見つめる、魂が無い筈の少女。 そして、僅かに笑ったかのようにも見えた。 絶叫し続けていた青年は、ガクリと膝を付いた。長い金色のほつれた髪が、はらりと顔に零れる。 ……また失ってしまったのだ。何もかも。 今の自分には何も残っていない。天使ですらない。 もう、居場所も行くべき場所もない…。 風の香りが変った。彼の前に誰かが歩み寄った。 「残念ね。私を倒すチャンスだったのに」 優しい声音に驚いて顔を上げると、そこに銀髪の女性が立っていた。 彼がついこの間、戦場で見た通りの姿で。 眩く輝く金の瞳。 毒のように甘く微笑む唇。 ……氷のごとく煌く髪が、サラサラと音を立てる。 ただ、彼が戦いの中で付けてしまった酷い火傷は綺麗に消えて、白い肌には染み一つなかった。 「女王、サイファー……」 青年は呆然と呟く。 それなら、先ほどまでの少女は?と視線を巡らせても、そこにはもう誰も居ない。 「そなたを倒すだなんて。私は、私はもう…」 天使ではないのだ。と呟きかけた唇に、女王の白く冷たい指が押し当てられる。 「貴方には、堕天するほどの理由はないわね」 「……理由?」 離れていく指先を見つめ、打ちひしがれた声で繰り返す。 「そう、どんなことでも理由がなければ、進んでいかないものよ」 …ならば、自分に彼女と戦う、どんな理由があったというのだろう。 自分が天使で、彼女が堕天使だったというだけ。ただ、それだけなのに。 「私には、元々理由なんかない!!!」 青年は、薄い藍色の瞳を閉じて叫んだ。 恋にだって、戦いにだって、この胸の痛みにだって理由などありはしない、と彼は思った。 ただ、神の御意思の名の下に、悪魔との戦いに赴いて彼女と出会った。 初めて見る地獄の女王はあまりに優雅で美しくて、心が騒いだ。 言われるまま浄化の炎を放って、それを受けて焼け焦げる姿に胸が締め付けられるように苦しかった。 だからもう一度、その姿を見つめられたら…きっと何かが変る筈だと信じて……。 ぽたり、と零れる涙が、夜の花園を濡らした。 *** 「……一体、何がないですって?」 聞えた声は、酷く聞きなれたものだった。 青年はあっけにとられ、それから混乱した笑い声を漏らした。 「いい加減にして欲しいですね、クリアエル。セラフィムのあなたが地上に降りるのは、それだけで規則違反ですよ」 続けざまに言われて、それでもクリアエルと呼ばれた青年は何かを恐れるように目を閉じたままだった。 彼にも判っていた。すでに彼らは去ってしまったのだと。 あの美しい女魔王も、甘くて仄かに苦い罪の時間も、堕天することさえも、すでに手が届かない幻のように遠い。 ゆっくりと瞳を開けば、不機嫌な顔をしたファニエルがその瑠璃色の翼を大きく広げて舞い降りてきた。 「……青は嫌いだ」 彼がそう呟くと、美しいアイスブルーが微かに笑む。 「さぁ、帰りましょう。貴方の姉上…アクリエルがお待ちですよ」 クリアエルは幼子のように二度三度頷いて、ふらふらと立ち上がると、灰色のマントを滑り落とす。羽根を広げようとして、ふと怯えたようにファニエルを見つめた。 「私の羽根は……」 「いつもと同じように綺麗な白ですよ。それが何か?」 そうか、と呟いてクリアエルは天に向かって飛び立つ。 その背中から純白の羽根が、仄かに輝きながら茨の上に舞い落ちた。 まるで、一片の花びらのように。 |